ともしび・谷間 他七篇 (岩波文庫)

  • 岩波書店 (2009年10月16日発売)
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人生への深い洞察、登場人物たちの的確な配置、ひとつの作品で表されるひとつの明解なテーマ。史上最高の短編小説家のひとり、チェーホフの手になる傑作アンソロジー。

■「美女」
「この美しいものに、わたしはなんとなく奇妙なものを感じていた。マーシャが掻き立てたのは、欲望でも、歓喜でも、快楽でもなくて、快くはあっても、重苦しい悲哀の念だった。」
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ぼくもやっぱり、あまりにも美しい女からは冷たさとかよそよそしさが連想されてまず身構えてしまうなぁ。もちろん実際に会話をしてみると意外と気さくだったり、逆に愛嬌のある顔をしていても真性のサディストみたいなヤツも過去にいたけれど……。

■「ともしび」
シニカルに構え、人間を、社会を、世界をわかったつもりになっている若い男。助けを求めてきた幼なじみの女を騙して捨てたあと、激しい自己嫌悪に陥る。
「こうしてわたしはその夜、翌日、そしてその日の夜と悩みぬいて、自分の思想がなんと役に立たないものかと悟り、ようやく目が覚めて、自分がいったいどういう人間かがわかったのです。………今や、さんざん悩みぬいたあげく、自分には信念も、確かな道徳規範も、人間らしい心も、理性もなかったことがわかったのです。わたしの知的な、道徳的な財産はみな、専門分野の知識、片々たるもの、要らざる思い出、借り物の思想から成り立っているだけで、自分の心理の動きは単純、素朴で、幼稚だったのです、………。わたしが、嘘をつくことが嫌いで、盗みもしない、人も殺さない、一般にそう大きな過ちも犯さなかったとしても、それは信念によってではなく―――信念なんてものはもともとなかったのですが―――自分が手足を乳母のおとぎばなしや陳腐なモラルによって縛られていたからに過ぎなかったのです、もはやそれは血肉となり、くだらないとは思いながらも己の人生を知らず知らずのうちに律してきたのです。」
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ぼくは同性の立場として、この男のとった行為は理解できないでもない。が、ぼくはこんな仕打ちを女にしたことはないし、逆に一回関係をもってしまったなら、よけいに情がわいてのめり込んでいくんじゃないかと思うんだけどなぁ……。

■「気まぐれ女」
芸術とパーティーをこよなく愛する女と、まじめ一徹、優秀な医師との結婚生活。芸術と医学、分野は変われど偉大なものは偉大ということ。女はとりかえしのつかない失敗を経て、それを教えられる。
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これは、ドラマツルギーからしたら成り立っているけど現実的には、まぁ、ありえない。そのテのお話、ミステリー小説ではよくある。

■「箱に入った男」
ベーリコフは中学のギリシャ語教師。自分の身なりは奇態なのに、他人の行動にはいちいち難癖をつけてトラブルばかり起こしている。
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このベーリコフというやつ、他の登場人物たちと同様ぼくにとっても大嫌いなタイプだ。しかし……”自覚の全くないタイプの社会不適合者”なだけにやっぱり正直かわいそう。最後は死んで「箱」に納まるし。

■「恋について」
「どうしてペラゲーヤが、気立ても見かけももっと自分にふさわしい男に惚れないで、ニカノールのようなあんな『でか面』にほれこんだのか。恋では個人の幸福の問題が重要なだけに、そんなことはさっぱりわからないし、どうとでも解釈できるものです。・・・ある場合にピッタリな気がする説明も、ほかの十の場合には当てはまらない。だから、一番いいのは、一般化しないで、個別に説明することでしょうね。医者のよく言うように、個々のケースを個別化しなければならないでしょうね。」
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ぼくにとっては同じような経験があって、非常に身につまされるお話。

■「谷間」
「『でえじょうぶ……』と彼は繰りかえした。『おめえさんの悲しみなんぞはまだまだだ。人の一生といや長えもんだ―――まだまだいいことも、悪いこともある、いろんなことが起こるよ。母なるロシアはでっけえでなあ!』」
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……ロシアがでっけえのはそりゃ結構なことだが、赤ちゃん殺しのアクシーニヤはお咎めなしか~~い!?

■「僧正」
ひとりの僧正が腸チフスによる死の直前に見た人生の走馬灯。子供の頃の記憶、ふるさとの風景、そして大好きだった母。
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幸福な人生など……ぼくの知る限りではありえない。しかし幸福な死は、ありえる。この僧正しかり。

■「いいなずけ」
「祖母とニーナ・イワーノヴナは(サーシャの)追善供養をしてもらいに教会へ出かけて行ったが、ナージャはなおも長いあいだ部屋の中を行き来して、物思いに耽っていた。彼女は自分でもはっきりわかっていた、サーシャの望んだように自分の生活がすっかり変わってしまったこと、ここでは自分はひとりぼっちで、余所者で、余計者だということ、自分にとってもここでのいっさいが必要のないこと、過去のいっさいが自分から切り離されて、まるで焼け失せたようで、その灰までが風に飛び散ってしまったことを。彼女はサーシャの部屋へ入って、そこにしばらく立っていた。
『さようなら、懐かしいサーシャ!』と彼女は思った。すると彼女の前途には、新しい、ひろびろとした、果てしもない生活が思いえがかれて、その生活、まだはっきりしないが神秘に満ちたその生活が、彼女に誘いかけて、さし招くのだった。
彼女は二階の自分の部屋に行って荷物をまとめたが、あくる朝、家の人びとに別れを告げ、生き生きとして、心も軽く町を去って行った、二度と戻ることはないだろうと思いながら。」
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見ず知らずの街での全く新しい生活。これから出会い、寝食を共にし、愛し合い、大喧嘩して、いっしょに涙する未だ見ぬ人たち。そしてその代償に、切り捨てるように別れを告げなければならない人生のかけがえのない恩人たち……。おそらくナージャはこの別れの朝を人生の最後がおとずれるその日まで、繰り返し繰り返しホロ苦い涙の味をともなって思い返すことだろう。ぼくや、ぼく同様ふるさとを捨て去らねばならなかった人たちがそうだったように……。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 外国文学
感想投稿日 : 2020年10月6日
読了日 : 2020年10月6日
本棚登録日 : 2020年10月6日

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