余は如何にして基督信徒となりし乎 (岩波文庫 青 119-2)

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本棚登録 : 232
レビュー : 19
著者 :
制作 : 鈴木 俊郎 
yassan0898さん  未設定  読み終わった 

  内村鑑三「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」を読む。
  札幌農学校でかのクラーク博士の薫陶を受けた上級生からなかば強制的に「イエスを信ずる者の契約」に署名させられ、これが信仰のきっかけになったという内村鑑三。神の国アメリカに憧れて渡米、大きな挫折を経ながらも、信仰に救われるという体験。想像を絶するキリスト教への信心、しかもそれが徐々に深まってゆき、我こそが神の子という強い自覚に至る・・・。
  こうして読んでみて、改めて信仰とはいったい何なのか、キリストの神への帰依とはいったいどういうことなのか、自分には想像すらできない、理解できないというのが正直なところだ。確かに時折り眼にする聖書の言葉に心を打たれることはあるし、何か救われるような気持ちになることもある。かの曽野綾子さんの言葉には信仰に裏づけされた強い信念が感じられるし、また見聞きする信者の人たちの奉仕の精神にはいつも頭が下がると云っていいだろう。個々の人たちを見る限りでは、悪い人は決していないし、むしろ崇高な心の持ち主だといえるのかも知れない。
  しかし、個々には崇高な心があるにもかかわらず、集団として組織としてのキリスト者が巻き起こす弊害、それは時として唯一絶対神とする故の他者の排斥として現れるわけだが、これが実は恐ろしい。キリスト教とイスラム教、これらの一神教の存在が世界をつねに争いの場・戦いの場にしているからだ。町田宗鳳さんの云うように、一神教こそが人類の敵というのは、まさに然りということなのだ。
  この本はもともと英語で、さらにドイツ語、フランス語、フィンランド語、デンマーク語などにも翻訳されているのだという。キリスト者のために書かれたもののようで、自分のような人間が読むのはやはり違和感をもたずにはいられない。むしろ狂信的な雰囲気、嫌悪に近い感じさえ持ってしまう。宇宙や森羅万象を支配する何か大きな存在は思うにしても、唯一絶対の存在としてもともと人間の一人であったキリストを神として崇め見るということは生理的に馴染めないような気がする。やはり日本の風土や日本人の心底に流れる信仰に対する考え方が自分にも脈々と息づいているということなのだろうか。ザビエルのときもそして明治の後も、内村鑑三が期待したようなキリスト教の広がりが日本に起きなかったのは、けだし当然と云えるのかも知れない。キリスト教が行き渡った韓国とは大きな精神構造の違いがあるということだろう。
  しはしば軽い国民性と思うことはあるものの、キリストも認め、イスラムも否定するわけでなく、仏も日本の八百万の神々も受け入れる日本と日本人の心根、これこそがやはり人類を救えるのかも知れないような気がしてくるのだが・・・・。

レビュー投稿日
2013年5月11日
読了日
2013年3月15日
本棚登録日
2013年3月12日
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