海国日本の明治維新 異国船をめぐる100年の攻防

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  • 新人物往来社 (2011年6月22日発売)
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この本は幕末から明治維新にかけて異国船が日本近海に出没していたころからの100年間が書かれています。

個人的には、それまで鎖国に安住していた幕府の役人が慌てて開国したようなイメージを持っていたのですが、そうではなくて、ペリー等が来航する前から江戸幕府はかなりの情報を得て、それなりの対応もしていたようですね。今までの私にとっての常識が覆されたような気がしました。

以下は気になったポイントです。

・1810年、オランダがフランスに併合されると、ジャワ地方の英仏争乱はますます激しくなり、それはナポレオン没落まで続いた、フェートン号事件(1808)以降、語学・地理学を中心に幕府の海外研究は進んだ(p42)

・1773.12.16に、アメリカのボストン港に停泊していたイギリス東インド会社の紅茶船(ダートマス号)などの三隻を、インディアンに変装した若者等が、積荷の茶箱をすべて海に投げ捨てたのがボストン茶会事件である、原因はアメリカに課した紅茶税であった(p54)

・1773年にインドムガール帝国からアヘン専売権を獲得したイギリス東インド会社は、増大する紅茶輸入に対処するため、銀に代わる商品としてアヘンの大量生産に乗り出した、中国へのアヘン輸出はもっぱら地方貿易商が扱い東インド会社に代わって大きな利益を得た(p57)

・日本で初めて西洋式砲術による演練を行った場所(武州徳丸ヶ原)は、高島平と呼ばれる(p64)

・徳丸ヶ原(大筒稽古場)は水鳥の遊ぶ荒涼とした原野、南へ十町ほど下った赤塚村には、曹洞宗の松月院があった、豪族千葉氏の菩提所であった(p67)

・ペリー提督が正式に遣日特派使節を兼ね、東インド艦隊司令長官に任命されたのは、1852.3.24である、ペリーの希望により、アメリカ海軍が所有する汽走軍艦5隻のつい、サスケハナ・ミシシッピ・ポーハタン号の最新艦3隻が遠征艦隊に加わることになった(p96)

・島津斉彬は嘉永6年(1853)に大船12隻、蒸気船3隻の建造を願い出た、異国船との区別のために日の丸の船印を用いたいとした、幕府採用は翌1854年の7.9、これが日本の国旗の起源(p105)

・アヘン戦争後の天津条約は、1868.6に、英・仏・米・ロシアと結ばれ、これにより中国の主権は甚だしく侵害されることになった、九龍半島割譲、アヘン貿易の正式承認等、アヘンは「洋薬」と名を改められて輸入合法化となり、列強諸国の中国権益は大幅に拡大した(p144)

・居留民の数、貿易額で多いイギリス代表のオールコックが、アメリカのハリスに代わって主導権を握るようになった(p156)

・文久3年(1863)の将軍上洛は、3代家光以来の230年ぶりのことで、将軍権威の凋落を意味していた、諸藩の大名や志士が京都へ集まり、京都が政治の中心都市へ変わっていった(p182)

・普墺戦争(1866)により、中部欧州の勢力地図は大きく変わった、ドイツ連邦は解体、プロシアが22の小国を統括する北ドイツ連邦(ホルスタイン州も併合)、イタリア支配権を失ったオーストリアは、ハンガリーとの二重帝国となった(p227)

・フランス万博では、「日本大君政府」「日本薩摩太守政府」「日本肥前太守政府」の名で、日本国旗のもとに別々に展示した、これにより欧州諸国は、日本はドイツのような連邦制をとる国家とみなして、幕府の威信は失墜、薩摩藩の評判が高まった(p242)

・大政奉還では、10万石以上の諸大名に上京を命じた(p250)

・廃藩断行の前に、13大藩海外視察団が検討された、金沢・鹿児島・静岡・名古屋・和歌山・熊本・山口・佐賀・鳥取・岡山・徳島・高知・秋田、太政官より欧米派遣のための人員を上申するように通達があった(p257)

・太政官を本官、諸省をその分官として各省の序列を決めた、外務省は神祇省の次位であったが、同年に神祇省が廃止されて、外務省が一位となった(p267)

2012年9月9日作成

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本史・世界史
感想投稿日 : 2012年9月9日
読了日 : 2012年9月9日
本棚登録日 : 2012年9月9日

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