二項対立に明け暮れる現代の教育改革議論に対し、<よい>教育とは何かを根本から世に問い直す著者の、一般向けとしては2014年初現時点での代表作。
議論を進めるにあたり共通の了解を得るための土台に現象学を据え、規範主義や相対化といった教育議論が陥りがちな落とし穴を飛び越え、近年再評価されているというヘーゲル理論から<自由>の概念を教育へ適用。
その教育の本質と正当性の原理を確かなものとしたうえで、現実の教育がどのような原則を持って行われるべきか、まで示唆している。
その議論の緻密さと明快さは、広くこの書のアプローチの有用性と、共通了解を得られるのかどうかを世に問いたい意思となって溢れ出る。
一般読者が様々に想いを巡らせるにはまさに格好のバイブルであろう。
教育者、特に単に教育業界に従事している「ワーカー」には成り下がりたくない意識の高い人々にとっては、最近出版された氏の「教育の力」と共に必読の書である。
その緻密な論の進め方のため、にわか教育論者の私がどうこういうところもない。
直近の私の環境を交えていくつかの論点について感想を述べるとすると、まずこの議論はグローバルで共通して進めてこそ価値をなすものであると強く思う。
本書では多くを語られていないが、本書の<自由>の相互承認という発想を実効化するためには、すべからく世界の人々にこの意思を育てることが必要なのではないか?
中村清が『国家を超える公教育』で語っている「グローバル時代の公教育」としてのエッセンスも、相互に取り入れる必要があると感じる。
またその実践において語られる「学び(探求)の方法」では、できる・わかるの育みと共に本書で多くを語られていない「自己」「自我」の育みが必要と思われる。
自らの教養を身につけるためには、おそらくだが高度に発達した自我が必要条件になると想像する。
十分に自分の軸を意識できなければ、他人の軸に結果的に引き込まれることが多かったり、欲望の調整が適切にできないであろうからだ。
この軸の発達は教育の目的としては否定されているが、集団としてはまだまだ利用の価値がある。
(コールバーグ理論の『学校における対話とコミュニティの形成』
荒木寿友
『学習する学校』ピーター・センゲ)
私はこれらの議論から得た示唆をもって、労働者としての教育を受けさせられたが既にその役割を果たすべき社会が無くなってしまった「取り残された社会人」に対して学び直しの機会をもってもらいたいと思う。
守島基博が言う(http://www.recruit-ms.co.jp/research/2030/opinion/detail10.html)ように、取り残された社会人に対しては、asapでなおかつ極力低コストで個の確立を得るための教育を施す必要がある。
ミンツバーグの言うIMPMに近いのかもしれないが、このような先進の研究の示唆をもって社会人教育にあたりたいと思うのである。
- 感想投稿日 : 2014年4月1日
- 読了日 : 2014年4月1日
- 本棚登録日 : 2014年4月1日
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