楢山節考 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (1964年8月3日発売)
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1956(昭和31)年に刊行されたというから、ずいぶん昔の小説を読んだ。刊行当時、著者は42歳で本作が処女作である。もともとミュージシャンだったらしい。本作に唄が多用されているのは、その影響であろうか。
三島由紀夫に「それは不快な傑作であつた。何かわれわれにとつて、美と秩序への根本的な欲求をあざ笑はれ、われわれが「人間性」と呼んでゐるところの一種の合意と約束を踏みにじられ、ふだんは外気にさらされぬ臓器の感覚が急に空気にさらされたやうな感じにされ、崇高と卑小とが故意にごちやまぜにされ、「悲劇」が軽蔑され、理性も情念も二つながら無意味にされ、読後この世にたよるべきものが何一つなくなつたやうな気持にさせられるものを秘めてゐる不快な傑作であつた。」と言わしめた楢山節考は、「姥捨の伝説」が題材となっているので、三島の評にも首肯せざるを得ない。
解説で日沼倫太郎が述べているように、著者は本作を描くにあたり、登場人物の心理描写などには踏み込まず、淡々と神の視点から見たままを描いている。日沼はさらに「あらゆる事象は『私とは何の関係もない景色』なのである」と言う。たしかに本作を読んでいると、事実の叙述の中、いわば行間から、登場人物の行動をとおして否応なく情念がにじみ出てくるような印象を受ける。同時に、貧しい山村で、人々が生きていくために「そうするしかなかった」慣習が、極限の状況を如実に伝えるのである。
三島の言葉どおり、そこには「人間性」をも否定――否定というより「無効化」かもしれないが――するほどの力を持っている。それほどの極限の状況をただ淡々と描き、極限の状況下において「人間性などという概念は意味を持たなくなる」ということを伝えるのである。喜んで「楢山まいり」(姥捨)に向かうべく着々と準備を進めるおりんと、村の慣習にいやいや従い、手助けする息子・辰平の両者の姿に、私の気持ちもざわついた。所どころに挿入されているわらべ唄も。さりげなくその壮絶さを伝えるのに一役買っている。
三島が言う「『悲劇』が軽蔑され」た後には、絶望しか残らないのかもしれない。それでもなお。おりんが目指した「完全なる死」と、あえて言葉を多用せずともお互いに心の中まで理解しあう親子、そしてその根底にある「愛情」さえも慣習には抗えないという事実を描いたこの物語は、短い話ではあるが、一度は読んでみるべき小説であると思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小説・物語
感想投稿日 : 2019年1月15日
読了日 : 2019年1月13日
本棚登録日 : 2018年11月8日

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