緻密な構成にため息が出る。
主人公は前半で完璧なる均衡を構築し、後半でそれが崩れそうになるのを必死に防ごうとする。美や理想のための作品だ。不気味なまでに美しい。
穴を見ている時の主人公のポーズなど、至極些細なところにも意味がある。それを考えるのも楽しく、緻密さにまたため息が出る。


題にある「曳航」とは船が船をひく様子の事で、「曳航」と「栄光」をかけている。その理由は、英語での題を読むとわかりやすい。「The Sailor Who Fell From Grace with the Sea」、即ち「海と共に優雅さを失った船乗り」。一人の男が栄光を失って行く、その様子が描かれた作品、という事が題からも暗示されているのだ。

2010年1月25日

読書状況 読み終わった [2008年11月17日]
カテゴリ 純文学

まず、ページを開くと、衝撃が額を垂れる。

2010年2月8日

読書状況 読み終わった [2008年11月17日]
カテゴリ 純文学

淡い緑の装幀美し、太宰さんの「お伽草子」初版本をもって、紫の菖蒲の浴衣で夏祭り。どこで読むかはわからぬけれど、私が読んでは娘が笑う。「狸さん、可哀想ね」「本当に、そうね」。それが私の今の夢。

2010年2月11日

読書状況 読み終わった [2009年6月3日]
カテゴリ 純文学

原作の世界感とはちと異なるのに、妙に合う。監督の山田勇男は寺山修司に師事してたと知り納得、とても舞台的だ。能や歌舞伎を意識した動き、田舎のストリップ小屋のシーンも美しい。角度によってころころ変わる、助演の秋桜子の表情も魅力的。

2013年3月27日

読書状況 観終わった [2013年3月27日]
カテゴリ 映画

 独特な文体、表現方法。実験的な幽玄さ。今まで味わったことのない異質な感覚。内田百間が泉鏡花に思いを馳せながら超絶技巧で書き上げた感じ?出会えた興奮で息が苦しい。

「杳子」は神経を病んだ女学生・杳子と自分の関係の物語。
 杳子の〝病気〟は多分、自分が観察するもの(外)と自分(内)の関係が曖昧になり、自分を保てず、自分をつかめなくなること。見て・見られて・見合うことの難しさ。これが、2人の視点が交錯する手法で描かれることで、つまり小説の技巧でストーリー上の〝病気〟を比喩的に説明されている。的外れな見解かもしれないけど、そう感じた。
 だから、名前も「杳=暗くてはっきりしない」なんだと思う。

2013年2月16日

ネタバレ
読書状況 読み終わった [2013年2月16日]
カテゴリ 純文学

酷く稚拙。

村上龍をナルシストな中学生が真似たらこうなるのでは。

初めての酷評レビュー。

2011年2月2日

読書状況 読み終わった [2011年2月2日]
カテゴリ その他

夢に対して、安部公房自身がどう考えるか、その思考回路を覗ける。

2011年1月19日

読書状況 読み終わった [2011年1月19日]
カテゴリ 純文学

やられた。墓石に颯子の立像を、や、颯子の仏足石を、か。その発想、これにはやられた。脚好きな谷崎氏、足の拓本をこの老人に取らせるとは。
そしてこの思想。仏足石あるがゆえに、「アタシハ今アノ老耄レ爺ノ骨ヲコノ地面ノ下デ踏ンデイル」などと颯子の記憶から拭い去れぬようにし、死後も颯子の中で生きよう、彼女の全身の重みを感じ、痛さを感じ、足の裏の肌理のつるつるした滑らかさをまでを、死んでも感じようとするこの思想。

2010年10月9日

読書状況 読み終わった [2010年10月9日]
カテゴリ 純文学

自由ヶ丘、浄真寺に、中目黒。

2010年3月18日

読書状況 読み終わった [2010年3月18日]
カテゴリ 村上龍

螺旋階段。
一転、二転、転じてねじれて、別の場所。

2010年3月15日

読書状況 読み終わった [2010年3月14日]
カテゴリ 純文学

川上未映子のブログ純粋非性批判に加筆修正した本。わたくし率〜、乳と卵、と読んできて、これを読んで納得。こういう方がわたくし率なぞを書くのだと納得。

「神はいない」も信仰やん?という疑問の投げかけ。いびつな髪の毛への情熱。怒る人とは自分が正しいと思っているらしい、に始まる意見。個性とは「共有」されて、つまり非個性となって、意味が光り出す世界の中で、なんで意味を保ちながら個性を追求するなんてことが出来るんか、とか。そういうポンという考え意見が面白く、「無いところに有るを生むこと」への疑問など、その後の作品の随に走る考えが垣間見え、更に上京後に購入したサボコの一生や、録音過程等、あーこういう人なんかーとわかって楽し。どんな本読む、とかもわかるしね。
2003年9月1日キャロルとナンシーの爆発的面白さを共有したい。

2010年3月12日

読書状況 読み終わった [2010年3月10日]
カテゴリ その他

前半<技法編>では「トライアングル・リンカーン」「ヴィナスのコーヒー・タイム」「ルビンの壷のようなフクダの壷」「ベートーベン・ブリッジ」の作り方を詳細にでっかい写真入りで説明。数学的。しかしわかりやすい。後半<作品編>では他の作品の紹介。

そもそも、この「アート・テクニック・ナウ」シリーズの本を手にするのが初めてなもので、それはもう単純に、「自分でもやりたい、やれるんじゃないか」という気持ちにさせられた。編集者の思うつぼ。

2010年3月12日

読書状況 読み終わった [2010年3月3日]

私の見たかいちの図版の中で最も内容が充実。家族の協力のおかげで、かいちの写真、年譜もある。

2010年3月3日

読書状況 読み終わった [2010年3月2日]

全版画を見る事で、私は、この人の初期ー中期(70年代)の作品に惹かれているのだ、と判明。

2010年3月2日

読書状況 読み終わった [2010年3月2日]

何を書いてよいかわからんけど、書く。というか私は、「わたくし率〜」の方が、好き。これは酷く大人しい作品な気がして、温度がなんだかあわなくて、私にはよくわからない。でもそれは批判なんかじゃなく、作家の思考回路は好き。これからもこのひとの作品は読んで行きたいと思う。

作品のトピックとしては、
卵子と精子
生理。
子供ができるのは。
豊胸手術。
生まなければええやんか、という緑子の日記。
で、一種の通過儀礼作品とも読める。

でも、されども、しかしながら、引っ越しの時に足に刺さった針とか、ドレッシングを流す意味とか、ところどころに解釈できない出来事もあって、(なんでその描写が必要なの?意味は何?)それはまだ私の課題。きちんと読解できてないのだと思う。

2010年2月23日

読書状況 読み終わった [2010年2月22日]
カテゴリ 純文学

「この人が大好きでね。これね、馬鹿みたいに二つも買ってしまったのだけれど、使う事はできないし」
そういって、叔母は私に小林かいちの封筒を見せました。バーガンディー色の強烈なデザイン。目を見張る美しさに一気にファンになったのです。興奮する私に、
「好き?そうね、唯ちゃんがもらってくれると本当に嬉しいわ」
以来、私はかいちのファンなのです。

関東大震災の前後から1940年代後半に活躍したと言われる、京都の謎のデザイナー。
うつむき、嘆き、影、愁い、涙。美しいモチーフ。かいちを、誰が嫌うことができるでしょう。Aubrey Beardsley, Georges Barbier, Etreの影響を示唆する人もいれば、竹久夢二など大正の抒情画家達をあげる人もいる。しかし、それらどれとも異なり、かいちの作品は一目でその人のものだとわかるのです。


p.58には 谷崎潤一郎の「卍」で言及されている、かいちの封筒も紹介されていて、その考察文と共に感動。

p.116からの対談「記憶のなかのかいち:残されたかいち封筒をめぐって」も、当時の文化と照らし合わせながらかいちデザインが語られ、数少ない貴重な情報収入源となりました。

図書館で借りた本ですが、いつかこれもまた所有したい。


ちなみに、叔母が私にくれた小林かいちオリジナルレターセット。京都さくら井屋からの当時のものではなく、小杉放菴記念日光美術館からのもの。内容は
「二号街の女」「灰色のカーテン」「彼女の青春」「感謝の夕べ」の、4点の絵葉書
「ある日の舞姫」とよく似た絵の便箋 
あと2枚、青と赤の、縦長の絵封筒があるのですが、これはなんという作品なのか、本にものっておらずわかりませんでした。

2010年2月22日

読書状況 読み終わった [2010年2月22日]

「乙女デザイン」という陳腐な括りには若干イラッとくるが、内容は素晴らしい。潤っぽい大正抒情画集である。この本を借りないとなかなかお目にかかれぬデザインもあると思われ、ちょっとした大正絵はがきセットを保管しているような気分にさせてくれる。

小林かいち
加藤まさを
工藤紅洋
井上マリヤ
中原淳一
橋爪ゆたか
田中良
原田浪路
杉浦非水
河目悌二
竹久夢二
太田三郎
笠松紫郎
蕗谷虹児
長谷川ただかつ
蛭田武彦
長谷川露二
小林秀恒
東郷青児
神保朋世
山田まがね
石野馬城
光野彩吉
みやざき
高畠華宵

p.40のクリスマス、作者不詳となっている、この作品が非常に好きだ。無念。

小林かいち見たさに図書館で借りた本だが、是非所有したい。
いつか買うもん。

2010年2月22日

読書状況 読み終わった [2010年2月22日]

なに、なに、なんなんこれは。一気に好きになってしまったこのリズム。

前半はね、太宰治の滑稽小説に通ずるユーモアと言葉のリズム。
「〜かしら」を「〜か知らん」として自然な文は、私は好きで、そんなん実に個人的嗜好ではあるけれど、p19の「なにかこう、さすがに、奥歯的な何かはないものかしらんと、そんなことを巡らせる風な毎日であったのです」とこられた時、嬉しさでコツンと頭を叩かれた。

わたしの中の私、そう、わたくし率イン歯
まだ存在せぬ子にお母さんとして向けた日記とその日時の不調和
痛みの総和
存在、有と無
主語がない「雪国」の冒頭
トピックのそれぞれが不揃いのようで、いや、でも結局総じて主題に全て向かってく。


後半、p.80〜85の爆発にはやられた。
そう、そう、これよ。そういうことよ!

「世界に一個のなんでかこれが、なんでか生まれてぜったい死ぬてこんな阿呆なことあらへんやろうが、こんな最大珍事もあれへんやろが、なあ、なんでかこれのこの一致!わたしと私をなんでかこの体、この視点、この現在に一緒ごたに成立させておるこのわたくし!ああこの形而上が私であって形而下がわたしであるのなら、つまりここ!! この形而中であることのこのわたくし!! このこれのなんやかや!」

2010年2月17日

読書状況 読み終わった [2010年2月17日]
カテゴリ 純文学

例えるなら、「昭和歌謡大全集」の痛快さと「イビサ」のぐちゃぐちゃ感。300ページ以降はフリージャズ、いや、それより、Stan KentonとかCecil Taylorさながら。

「繋がりの無い二つのモノを連ねることで、別の意味をうむ」、そんな事象を使うって、自ら言っていたのは安部公房だったか、忘れたけれど、龍さんの作品はあらゆる「モノ」をぎゅうぎゅうに小さな箱に押し込む。それがパァンとはじけて、新しい意味になる。この作品は特にそんな感じ。


集団告白で、幾つものストーリーが同時に錯綜進行する様子、
名刺交換会での敬称と名前のトンチンカンナンセンスっぷり、
パントマイマーのギリシャ劇のコーラスのような存在感、
同じ言葉の繰り返しに、同じリズムの繰り返し、
カタカナニモタセル ヒワイナヒビキ、
それからそれから、時間と空間の描写の独特さ。
好きなんだな。

(p.287)
「そして、そして、そして、そして、そして、そして、そして、そして、そして、しそて、しそて、しそて、てそし、てしそ、そしての順列を何十回も考え合わせなければならないかのような長い長い時が流れたような気がして、本当は僅かなベッドの端から三十センチの距離にあったにもかかわらず、あたしはやっとの思いでミソヤマキクオの足の指に到達した」

2010年2月17日

読書状況 読み終わった [2010年2月12日]
カテゴリ 村上龍

哄笑必須。自虐のユーモアから、呆れのユーモア。どれも腹をひくつかせてしまう傑作だ。

特にこの第二部というのがどれも黄村先生シリーズなのだが、なんとも軽妙。風雅な事に手を出しては、それがあらぬ方向へ行ってしまい笑いを誘う、愛すべき黄村恩師である。


おしゃれ童子
服装に就いて
畜犬談


黄村先生言行録
花吹雪
不審庵


親友交歓
男女同権

哲学者木田元による前置き「滑稽文学について」も坂口安吾からバルザックまで、様々な著者による滑稽小説を紹介しており、読み応えがある。流石のみすず書房出版。太宰治生誕100周年記念の2009年には、こういう本をプッシュして欲しかったものである。良質な笑いを今、世間に。

2010年1月31日

読書状況 読み終わった [2010年1月31日]
カテゴリ 純文学

長方形の紙を、のりを使って接着すると、のりしろ部分がだぶる。
だぶりつつ、紙は長くなる。
この小説はそんな感じ。

章ごとに、3人の登場人物間で視点が変わる。
時間をだぶらせながら、話がすすむので、のりしろができる。

例えば、

「他に用事はないんです」
手の指で涙を拭いて本間萌子は言った。
「よくわからないな」
「何がですか?」
「僕はあなたを知らない」
「あたしは、今、ここにいます」

という会話が、次の章だとこんな具合。

「他に用事はないんです」
死刑にするわよ、
「よくわからないな」
いつか死刑、
「僕はあなたを知らない」
永遠に知ることはできないよ、
「あたしは、今、ここにいます」

会話の連続だった部分が、別の視点だと長い長い脳内モノローグが挟まれていたり、非現実的な現実臭さ。

だぶらせてまで、話は続いていくのに、
「文学はコラージュ」な稲垣足穂の雰囲気。
コラージュが「のりしろ」って意味だからかな。

この作品は、龍監督の映画「ラッフルズホテル」の小説化らしく、先に映像が存在したゆえの、この雰囲気かな。
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p141 Fly Me To The Moonの歌詞が
In other wordsの代わりにIn another world(別の惑星)として翻訳されていた。
耳の裏側の世界=別の惑星 ということね。

2010年2月11日

読書状況 読み終わった [2010年2月11日]
カテゴリ 村上龍

「愚美人に溺れる」

2010年2月11日

読書状況 読み終わった [2010年2月11日]
カテゴリ 純文学

太宰治の次女、津島佑子の『火の山―山猿記』が原作のこのドラマ、西島秀俊演じる津軽出身の画家 杉冬吾は父である太宰がモデルという見所がある。原作よりやや太宰離れしているものの、扱いも大きく魅力的。あと宮﨑あおいかわゆす。

2010年2月10日

読書状況 観終わった [2010年2月10日]
カテゴリ 映画

※読む前の方は厳禁
※単なる私の見落としだとしたら失敬

◆読書後に残る疑問◆
「磁場の歪み」のトリック
ー「妻の手紙」の書き手は、妻か、それとも?ー

「私だって、あの最初の瞬間・・・あなたが、磁場の歪みだなどと言って、得意がっていた、あの瞬間から、すっかり見抜いてしまっていたのです」という妻の手紙に、疑問を抱かなかっただろうか。

そう、『あの瞬間』とやらが存在しないのである。

読破直後、おや?と思い簡単に文章を2度見返したが、磁場の歪みを得意がる『現実の』場面が一切見つからない(見落としか?)。しかし恐ろしい発見。代わりが見つかったのだ。ぞっとするような、『仮想の』場面が。

それは、主人公が仮面を被り、いよいよ事を実行しようと妻に声をかけ、にこりともされず凝視されるシーンの直後。

”p211 おまえの一瞬のためらいによってぼくらの間に生じた、磁場の歪みの意味を、くわしく問いただしてみるゆとりもなく”

ゆとりもなく、という言葉の上に点をおいて強調させたい。
そう、磁場の歪みの意味を聞かずに、バスの発着場の場所を尋ねているのだ。主人公の頭の中に浮かんだだけの言葉なのだ。

さて、そしてそのまた直後の欄外注は物語の結びを既にこうほのめかす。

p211(欄外注:この磁場の歪みという表現は、じつに当を得ている。どうやらぼくは、その瞬間の重大な意味を、薄々ながら予感していたらしい。・・・略・・・しかしその予感さえなく、もしここの数行がまったく欠けていたとしたら・・・思っただけでも、ぞっとする・・・ぼくは、鈍感の罪によって、滑稽の刑を宣告され、すること、なすこと、すべてが笑いの種になるばかりで、この手記も仮面の記録ではなく、単なる道化の記録となってしまうことだろう。道化もいいが、道化を自覚しない道化にだけはなりたくないものである)

末尾に関する皮肉溢れる明らかなる暗示がある。読破後にここを再度確認させる意図が汲み取れる。

すると当然疑問が残るわけだ。妻は、「磁場の歪み」について手紙に書けるはずはないのだ。主人公の仮想を読み取っていることになる。では、あの手紙の書き手は一体誰なのか?非常に不可思議なことになってくるが、答えは検討がつく。主人公でも、妻でもない。主人公の仮想を読み取れる者、すなわち、仮面の男である、と。

解説で大江健三郎がこう記す。
「妻の手紙のはたす役割は弁証法的な触媒の効果とでもいうほかにない性格のものである。この手紙は、実際のところ、他のノートと動揺に、仮面の男自身が書いたものではないか、とさえ疑われる程だ」

大江氏は、疑問の理由を特に述べずにこう記しているが、これは「磁場の歪み」が仮想の場面で成されたというトリックからの考察ではないだろうか。

つまり妻の手紙は、仮面の男自身が書いていたという真の解釈が導き出されるのだ。
すると、最後に、何が起こったのか。事はどう解決されたのか。

妻に拳銃を向けて、素顔に打ち克ったと解釈するのが普通(というか第一の解釈)だろう。
しかし、このトリックがある以上、実際は妻ではなく、主人公に拳銃は向けられたという第二の解釈に、作者の意図があるのではないだろうか。

だとすると、
p211の「道化もいいが、道化を自覚しない道化にだけはなりたくないものである」という部分、
これが主人公の真の願い、すなわち素顔に打ち克つ方法なのか。

いやん、安倍さん、テクニクシャン。
こういう部分が最高に楽しい作家だ。


んー、しかし結局、私では一度普通に読んだだけじゃわからん。考察本が見つかるまで(「顔」についての考察は沢山あるのだが)、ひとまず、これはひとまず図書館に返そう。次の人の為しおりをp211...

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2010年2月10日

読書状況 読み終わった [2010年2月8日]
カテゴリ 純文学
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