宮崎市定『中国に学ぶ』を読む。
「あとがき」にこうある。
中国を学ぶことは、中国に学ぶことに終わる。
ただし中国に学ぶとは、
何もかもすべてを肯定することではない。
学ぶためにはまず批判することが必要だ。
(中略)
私が中国から学んだ若干の事物のうち、
最後まで心の底に残るのは、
長い目で物を見ること、表面ばかりでなく
必ず裏面の存在を考えること、等の数端を最とする。
しかもこれを能くすることは、
何人にとってもはなはだ難い。
(p.339)
今年7月以降に上海、北京、瀋陽を仕事で訪れた。
特に東北随一の都市、瀋陽で街を散策し人を観察しながら
ここには計り知れない巨大な謎が横たわっていると感じた。
瀋陽はかつての奉天であり、
日本の歴史とも密接にからまっている。
当たり前のように吉野屋がありUniqloがあり地元の人で賑わう。
表面ばかり見ていれば中国に学ぶことはできないと思った。
『アジア史概説』『中国史(上・下)』に続いて
本書を読んだのも、長い目で物を見、裏面の存在を考える力を
学び、養いたかったからだ。
「はしがき」の最後の一文に苦笑した。
世は白眼視しながらでも渡って行ける
という余の発明からして
どうやら中国に学んだ結果であるらしい。
(p.12)
軍部、官公庁、学会、マスコミなど、
そのときそのときの大勢、権力に安易に乗らなかった
硬骨の碩学に僕は惹かれる。
(文中敬称略)
- 感想投稿日 : 2011年10月30日
- 読了日 : 2011年10月30日
- 本棚登録日 : 2011年10月6日
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