戦争の枠組み―生はいつ嘆きうるものであるのか

  • 筑摩書房 (2012年3月1日発売)
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感想 : 3
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確認先:品川区立品川図書館(KK03)

前提条件としては『生のあやうさ』第2章「暴力・哀悼・政治」の延長上に存在すると見ていいだろう(これはちょうど一冊前の日本語訳書に当たる『自分自身を説明すること』が同書の第5章「生のあやうさ」を念頭に置いたものであると類似した関係にある)。これら『生のあやうさ』あるいは『自分自身を説明すること』がそれまでの日本語環境におけるジュディス・バトラー受容と相容れないものであったために、とあるところでは「転向した」とすら言われているがそのようなことはなく、『ジェンダートラブル』以来続いているメランコリーと権力作用の問題についての新たな側面が浮かび上がってきたと見なすべきだろう。

長々前置きを書いたが、本書を一読するに『アンティゴネーの主張』から提示されてきた課題である「誰が公的空間において嘆くことが可能なのか(あるいは不可能なのか)」という問題が「どのような前提条件をクリアしないと公的空間で嘆くことができないのか(あるいは嘆くために何が求められるのか)」という社会構成のフレームと戦争をめぐるフレームが相似関係に至らざるを得ないなかで、そのフレームに抗するために何が求められるのかについて単純化することなく行きつ戻りつの思索なくして成り立たないことが指摘されている。単純化をしないというのが本書最大のみそである。というのも、フレームに単純に抗するのはそのフレームの強化を伴うという皮肉が存在するからだ(機動隊のデモ隊封じ込めの手段である「ケッテング」はまさしくこの皮肉の極みであろう)。

しかし、この単純化の排除というのがなかなかできない相談になりつつある。かといって評者や筆者が単純化の排除へとつながる有効な手段を提示することは、(彼女のテーゼを用いるならば)また新たな単純化を引き起こすと言えるだろう。そうしたなかで、何が求められるのか。本書から出された問いの重さとその奥行きに尻込みしているのが実情だが、しかしそれでは何も始まらないのもまた事実なのである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 借受:23区
感想投稿日 : 2012年5月14日
読了日 : 2012年5月14日
本棚登録日 : 2012年5月14日

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