ただいま、花嫁修行中 (プリズム文庫) (プリズム文庫 ma- 7)

著者 :
  • オークラ出版 (2009年3月23日発売)
3.57
  • (2)
  • (4)
  • (8)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 55
感想 : 5

入荷先:目黒区立八雲中央図書館

和光大学教授の宮崎かすみは、あまたのボーイズラブについて「どうせあんなの、男同士を借用しただけの典型的な異性愛ラブコメじゃないか」と位置づける。確かに、宮崎の示すように、あまたのボーイズラブが結果としてオーディエンスたちの自己満足というエクスタシーを煽っているのもあるし(であるからこそ、古典的なゲイリブ活動家が真面目にキレるのかもしれない)、そこにどのような意義を見出すかという力量がないわたしには「できるわけもない」意義を用いて言及することが困難なだけに、この宮崎の一撃は重い宿題となってのしかかる。その一方で、それだけで全体像が語れるというわけでもない(これを宮崎に説明してみたが、宮崎自身は受け入れに難色を示しており、繰り返しの説明が求められる)。あたかもクラウス・テーヴェライトを地でいくような作品もあれば、真剣にクィアであるということを悶えながら筆を執る作家もいないわけではないからだ。
そう考えると、現状のボーイズラブを整理して論じるということは、いいかえると雑木林の木々と同じように玉石混合になっている作品たちを、生暖かく時に間伐をするような目線で眺めるということなのではあるまいかと思う(麻生区岡上の場合ならばうっそうと茂る笹と言い換えてもいい)。

だが、そうした評者の価値をしてもなお本書をいかように評価したらいいのかと思うと頭痛がする。確かに主人公たちのまわし方は「らいとのべる」だと思って読めばまだ許容範囲なのだが、大見え切ってしまった設定がとにかく重症と言わざるを得ないだろう。とんでもない勘違いが多すぎるのである。
本書が抱える宿題を提示する前に、まず本書の問題を整理することにしたい。

本書の問題(であり、議論になりかねない部分でもある)は設定として記載されている「同性婚」の取り扱いになると考えられる。以前、本書の事前評価を「またしても同性パートナーシップ契約法のアプロプリケーションになる模様」と見なしていたのだが、同性婚という設定を有効化するために用いたタームがまずかった。森本は同性パートナーシップ契約法や同性婚姻制度の運動を全く見ずに、一種の「ガイアツ」として描写してしまったのだ。

―そんな日本が最終的に折れたのは、逆らえないどこぞの大国に、人道にもとる、国連の常任理事を狙う国の態度とは思えない、全世界的にゲイの夫婦が増えているなか、そんな差別的な考え方しかできない国で国際的な催し物ができるはずもないから、スポーツ、その他いろいろな方面で日本を連盟から排除しようという動きも出ている、などと、脅しとしか思えないような最後通牒をされたからだと言われている(森本2009:pp8-9)

設定であるからと言ってそのような「同性婚(同性パートナーシップ契約法)」のいい口を見るとき、森本の教養知識の欠落ぶりばかりが目に付き(これではネットでありがちな陰謀論の受け売りでしかない!←もちろん、メディアリテラシーが欠落しているという意味にもなるが)、後半で転調する森本の文体(実際、文体が思いっきり後半で変わるのだが、こちらのほうがまだ許せる)を評価したとしてもこの一点で大幅に減点せざるを得ないのだ。
理由は簡単だ。
同性愛者に実害を伴わないと森本が見なしたとしても、これ自体がホモフォビアと見られても彼女は文句が言えない状況に陥っているからだ。少なくとも、私という人間は今回の森本の設定が逆説的なホモフォビア(いかに自分がホモフォビックなことを言っていませんよと表明したとしても、ボーイズラブにお定まりの同性愛者の一面性だけを収奪する構造上の問題には全く無自覚という問題が残存しているからだ)に成り下がってしまっていると見ている。森本はそうした批判にさらされたことはおそらくないのだろう。まぁ同情の意もこめて皮肉たっぷりに指摘して差し上げるならば、お仲間だけしかいない業界の温室でぬくぬくと純粋培養されてきたために、作品がはらむ暴力性―岡真理はかつて『新世紀エヴァンゲリオン』をして「人間が生きるということ、生きのびるということ、それは端的に暴力にほかならない」(岡1997:P57)と言い切ったが、まさにそれに程近い暴力性―に全く気がつかないまま月日だけが過ぎ去り、「存在し得なかった古き良き日々」への回帰さえ覚えるようになってしまったのだろうと考えられる。


そのような問題を整理していくといくつかの課題が浮かび上がる。
まず踏まえてほしいのは、同性婚という言葉をあまり用いることはわたしには少ない。なぜならば、同性パートナーシップ契約という考え方のほうが現状に見合っているというのもあるがもう一方では「結婚」という概念がいまだに主観的な物言いしかできない人々があまりにも多いからというのもある(同性愛・異性愛問わず「結婚」とはパートナーという関係を契約するときに用いられるただの愛称でしかないと考えているがどうだろうか)。実際森本もかなりこの主観的なトラップにはまり込み、挙句の果てには「同性間の結婚が許可されて浮かれて籍を入れたものの、ばたばたと離婚している現実を知って慎重になったゲイの人たちは、男女間ではもう当然になっている結婚前の同居生活を取り入れることになったらしい」(森本2009:P67)と地の文で書いてしまっている。これもまた何かを見落としてはいないだろうか(例えば行政セクターによる統計報告や、アクティビストたちの活動報告など)。
この一文を素直に読んだとしても残るのは「そもそも戸籍制度や「花嫁」といった言葉で浮かれていてその問題の根底に潜む本質に向き合おうとしない」というボーイズラブにおける「花嫁もの」全体に流れる無自覚な感情への違和感であり、皮肉にも森本はそうした違和感に気がつかないままそれを地の文にしてしまったことで可視化させてしまった、と見ることもできるだろう。だとするならば―森本の表現には不快感しか残らないとはいえ―こうした違和感と反発はいわば漠然としたものでなかなか見えづらかっただけにこれを書いて見せたことは評価しようかと思えなくもない(だからと言って免罪符になるわけではない)。
ついで、森本が書いている「どこぞの大国」(おそらくアメリカ合州国のこと)って、メガ・チャーチやヘイト・クライム(憎悪犯罪)といった宗教右派が絡むホモフォビアの問題を抱えているのにそうしたことには一切眼もくれようとしていないことも問題だろう。同性パートナーシップはわりとヨーロッパの流れのほうが注目されやすく(フランスのPACS法など)、同性婚姻制度やパートナーシップ契約法の施行率もヨーロッパが他の地域を上回る(アムネスティ・インターナショナルの定期報告の受け売り)。なのに、それを差し置いてアメリカが絡むというのは一体どうしたことか?よくわからない。
同時に考えるならば、同性愛「である」という理由で死刑が執行される国が存在するということがつかみ切れていないことも大きな問題である。これは通常「アラブもの」と呼ばれる「成功者・長者としてのムスリム男性」が相手役をかしずかせたり一種の拘禁状態をエクスタシーを感じさせたりするような描き方をするボーイズラブへのお決まりの批判としてサイードのいう「オリエンタリズム」と並んで機能する。ところが、森本のこの作品ではあたかも「全世界的な潮流」になっていることがあたかも当然視されている部分で似たような批判を行わなくてはいけなくなってしまっている。

結論だが、あえて二人の女性の一文を引用して終わることにしたい。森本のみならずボーイズラブについて語る人々、純粋な読者、聞きかじりでろくな行動も起こそうとしない「ふぇみにすと」―そうした区分関係なく、みな同じような宿題を渡されたのではないだろうかと思う。かく言うわたしもまた、こうした宿題を渡された一人である。

―コスメティック・マルチカルチュラリズムは、既成の利害関係をほとんど脅かすことがなく、既存の制度の根本的な再考を迫ることがないために、抵抗らしい抵抗に遭わないですんでいる。しかし、一定の文化的枠組みを超えて議論しようとすると、やがてもっと根深くて強固な文化的・イデオロギー的障害にはばまれることになる(テッサ2002:P156)
―「正しいセクシュアリティ」は次代の再生産を目標とするので、「産む」性である女の子宮は子宮に収斂され、女の快楽もまた、挿入行為を中心に構造化される。家庭内で夫の帰りを待つという女の社会的役割と、そのような女の資質(「女らしさ」)と、受動的な女のセクシュアリティという性倫理と、精子を受け止める器という女の身体イメージが同延長に重ねあわされて、性の社会的役割(ジェンダー)と解剖学的性差(セックス)という二つのフィクションを往還しながら女のセクシュアリティが捏造されていくのである(竹村2002:P46)


参考文献
岡真理1997年「<人類補完計画>あるいは、生きのびるということについて」『ポップ・カルチャー・クリティークVol.0』青弓社
竹村和子2002年『愛について』岩波書店
テッサ・モーリス・スズキ2002年(伊藤茂訳)「現代日本における移民と市民権」『批判的想像力のために』平凡社

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 借受:23区
感想投稿日 : 2009年5月4日
読了日 : 2009年5月4日
本棚登録日 : 2009年5月4日

みんなの感想をみる

ツイートする