インディヴィジュアル・プロジェクション (新潮文庫)

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本棚登録 : 964
レビュー : 125
著者 :
百合さん  未設定  読み終わった 

『ファイトクラブ』の錯乱+『メメント』の諦観+『イングロリアス・バスターズ』の祝祭 という感じ。アメリカでオリンピックが始まったと作中にあるので舞台は明確に1996年の渋谷であり、前年にはサリン事件と震災という2つの大きな傷を負った日本のヤケッパチ感が充満している(パラニュークといい人間は世紀末を迎えるとこのような心性になるものなのだろうか?)。
アイデンティティというのは多面体なわけだが(親に対しては子、子に対しては親、恋人に対しては恋人)それぞれの場面で演じているアイデンティティを絶えず意識し、それぞれの「自分」の間にあまり距離が開かないようにそれらを連動させコントロールすることができればわたし達は統合を失わずに済む。また、その技術に習熟してよりたくさんの面を扱えるようになればより「完全な状態」へ近づく。これが’スパイマスター’マサキの教えである。またマサキは他人の身体の中に入るようにして、他人として世界を感知しそれを自分の思考に反映させることを教える。そのために注意すべきなのが「身体感覚」で、月並みな言い方をすれば「あなたの痛みは私の痛み」的教えなのである。こう考えればマサキは特段変わったことを言っているわけではない。
しかし教え子である主人公はそのように考えることができない。彼は自分の身体感覚は絶えず把握できている(頭痛、胃痛)ものの、彼の周りにやたらとしょっちゅう現れる「けが人」たち(コンビニ店員や同僚の娘)のことは冷淡にとらえている。というか、そもそも描写するという事自体が冷淡な行為なのだ。主人公も作中で「書けば書くほどずれていく」と述懐しているが、他人の怪我を正確に描写しようとすればするほどその怪我は統一性を失い、痛みのリアリティも下がっていく。だからこそマサキはレポートの形式として絵を評価したのである。
身体感覚という当たり前に備わっている機能を、文字というこれまた当たり前な媒体でもって表現することを課されるという理不尽。これこそが今まで小説が続けてきた試みであり、本作品はこのことの不可能性自体を描いているのである。

レビュー投稿日
2019年3月20日
読了日
2019年3月20日
本棚登録日
2019年3月20日
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