文庫版 邪魅の雫 (講談社文庫 き 39-13)

著者 :
  • 講談社 (2009年6月12日発売)
3.73
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本棚登録 : 3226
感想 : 177
5

びっくりした。
傑作だった。

榎木津の物語だった。
『姑獲鳥の夏』が関口の、『魍魎の匣』が木場修の、『塗仏の宴』が中禅寺の物語だと言って良ければ、『邪魅の雫』は榎木津の物語だった。
全体のボリュームからすると登場シーンはほんのちょっとなんだけど、圧倒的主人公感で物語をあっさり攫って行った。
いつもよりちょっとばかりシリアスな榎木津がまた切なくてかっこいい。

事件そのものは、腹が破裂する訳でも、手足がバラバラにされる訳でも、死んだはずの人間が生き返る訳でも、死体に奇怪な演出が施される訳でも、目が潰される訳でも、一家が惨殺される訳でもないので、地味と言えば地味である。
でも、次々に発生する毒殺事件はどこか関連していそうで何だかちぐはぐで、このシリーズに相応しい事件だった。

同じ人物の身の上話が場面によって妙にズレはじめ、名前が騙られ出したあたりからややこしくなってきて、京極堂シリーズ読んでるなーという妙な昂揚感に包まれる。
個人―世間―社会―世界という世の中の構造を常に引き合いに出しながら物語は進む。榎木津家への陰謀説から始まって、いくらなんでもそりゃないだろうと高をくくってたのにやっぱり榎木津への陰謀に帰結する真相、いくつかの事件が時系列を多少混乱させながら複層的に同時進行する展開、えっ大鷹出てきたよ大鷹と毎度ながら驚いてしまうかつての脇役を引っ張り出してきて過去作品をまんま伏線にしてしまう手法、元カノ神崎って名前じゃんなんで気づかないかなぁ益田!と突っ込まずにはいられない恣意的な綻び、重要な事実を中禅寺が「調べました」って言って済んじゃう警察の立場まる潰しのご都合主義的処理(褒めてる)、どれもひっくるめて京極小説の王道が詰まっている。

いつもながらシリーズを読んでなくても分かるように書かれてはいるけど、これまでの各物語が有機的に絡んでいたりするので、読んできた人たちは何倍も堪能できる。
例えば、警察関係者の大半をもう知ってるので親しみが湧くし、そもそも中禅寺が繰り返してきた「邪な思いが実行に移されるか否かの境界は、ほんの些細なきっかけに過ぎない」という主張を実践して見せるかのように、「雫」は境界に立つ人間の背中を次々と押してしまう訳で。
物語の語り手は西田と神崎の一人称と、江藤、益田、青木、大鷹視点の三人称が交代で担うのだが、逆に、今回は関口視点すら全然無いため、レギュラー陣の――榎木津の、中禅寺の、そして関口の各場面での言動は客観的視点で観察されるのみで、その心情は読者が慮るしかない。
でも、シリーズを読んできた身には、行間に込められた彼らの感情がびしびし響いてくる感じがする。

満を持して大磯に現れた榎木津の普段とは異なる態度は、益田を困惑させ、関口を漠然と不安にさせ、付き合いの浅い青木にさえ違和感を抱かせ、読者(私)の妄想をどんどん増長させる。
そこへ、憑き物落としを依頼されたという言い訳を引っ提げて中禅寺が(珍しく派手に)乱入し、「この間唆されたお礼だよ」とか言って、誰かを頼ったりは絶対しない榎木津の懐にスッと入り込む。
やっぱり榎木津と中禅寺はお互いの理解者なんだよな。
暗黙の了解を前提とした二人の短い会話に、友人思いの中禅寺の本質を見る。

ああ中禅寺イイヒトだ…と浸っているところへ、
中禅寺が極めつけの台詞
「榎木津に――辛い言葉を言わせたくなかったからです」
を投下し、
京極夏彦は腐女子を完膚なきまでに殲滅する。

なにこれ。(褒めてる)


最後の最後で榎木津と神崎宏美はやっと、やっと再会を果たす。
ここでも榎木津は宏美視点で観察されるだけだから彼の心理は全く見えないのだけど、シリアスに、でも榎木津らしく神崎宏美の一縷の望みを断ち切ることで、結局自ら引導を渡す。

もはやミステリじゃない。
大きな事件の発端が、たった一個人の「好きだから失いたくない」という感情だなんて、結局邪魅の雫は誰もが持ち得てるんだ。
ちっぽけなはずのものが強靭な原動力に変わる。
人を好きになるということ、好きになることで生まれる邪な想い、語り手を担った人物達、そして語り手にならなかった人物達の胸の裡についてその都度考えさせられ、読了後には怒涛の感慨が襲ってきて、ずっと作品世界から離れられなかった。
読む前に全く評判を聞かなかったせいで、正直期待しないで読んだ反動も大きかったかもしれない。
個人的には『魍魎の匣』『鉄鼠の檻』に迫るほど好き。



以下、さらに細かい雑感を徒然なるままに。

無駄に長いと言われてるみたいだけど、そうは思わなかった。
のっけから石井さん出てきて同窓会みたいだったし、エピソードごとに章立てされてたのがすごく整理されてて読みやすかった。

今回は青木が良かったなぁ…。
『魍魎の匣』あたりから聡明さは描かれていたけど、ちゃんと己の器を把握した上での、温和にして気骨ある人格がよく出ていた。
特に、木場とのシーンで滲み出る木場への信頼感(木場修ここにしか出てこなかったけど、らしくて良かった)、郷嶋とのシーンで怯むことなく対峙する勇敢な一面(ここすごく読ませた)がすごく良かった。
榎木津とのシーンに至っては、初めて話しかけたって言ってるけど、きちんと榎木津の置かれた状況を察知して会話を成立させてる。
地に足の付いた人だ。
もう青木なら安心して敦ちゃん任せられるよ。貰っちゃいなよ。お似合いだよ。

益田は…軽口のノリで誤魔化してたけど関口寄りの陰キャラなことが明かされてちょっとショックだった。
それに思ってたより愚鈍で、しかも迷いっぱなしで、私の中で評価が著しく下がってしまった。
正直、古巣に合流してる時の方が生き生きしてた。実は刑事の方が向いてるんじゃない?

関口は良かった。
著作評価を巡っての中禅寺とのやりとりは、日常の二人を垣間見てる気分になれた。中禅寺相手だと、けちょんけちょんにけなされてもちゃんと反論する(できる)ところに、根本で分かって貰えてる安心感を感じる。
益田との道行きで、どす黒い自分語りをその内容に反してやけに軽やかに流暢に披露するのは、益田に同じ性質を感じ取ってのことだろうか。まぁ、歳下の知人に対してはいつも割とそんな態度かもしれない。
鞄の例え話も面白かった。
今回の関口はほとんど益田視点で描写されていたせいか、ちょっと頼もしく見えたり、地頭(じあたま)の良さを感じさせたり、榎木津と会話出来てたりして、いつもと感じが違った。
榎木津を心配する関口、可愛い。
その気持ちはちゃんと榎木津にも伝わっていて、一端サガシを諦めてご飯食べて帰ろうとした時に関口の後頭部を小突いくシーンで、榎木津の関口愛を感じた(妄想です)。

今出川の小父貴は…なんていうか、榎木津ばかり家族出てくるよな。
西田画伯は、由良元伯爵っぽかった。世間は若干広かったけど。人を殺すのに第三者の話を鵜呑みにして本人に確認しない、ってのは解せなかった。世間の狭さゆえか。
大鷹は、地の文に、中禅寺に、真壁恵=神崎宏美にと、徹頭徹尾容赦なくディスられててさすがに不憫に思えた。
終盤フェイドアウトしてしまった郷嶋、ガラ悪かったけどイイヒトそうだったから、またどこかで会えることを期待する。
原田美咲=神崎宏美のついた嘘が、間に真壁恵という架空の人物を入れて来るかなり高度で複雑な嘘で、自分なら途中で整合性が取れなくなりそう。
(それにしても、京極夏彦の描く女性ってどうしてイマイチ魅力的でないんだろう…。男性キャラはこんなに素敵なのに。不思議)

神崎宏美にとっての「雫」は、榎木津のあの眼だったのかな。
己の内部に受け入れ難い邪心を抱える人間にとって、常に正しくどこも疚しくない榎木津の存在は恐怖でしかないだろう。心を読まれる訳じゃないにせよ、視覚体験を視られてしまうのは、少しでも疚しい気持ちがあったら耐え難いに違いない。
ましてそれが好きな人なら尚更か。
それにしても、その事実にたどり着いた榎木津は、一体どんな気持ちになったのだろう。

最後の、榎木津に視られることを恐れる神崎宏美を読みながら、榎木津と付き合っていくのは実は相当の覚悟がいることなんだろうと考えた。
だから益田なんかじゃ真剣に榎木津と向き合えないのだ。
中禅寺くらい人間というものを客観的に分析できているか、関口くらい胡乱な自分を他人にまで包み隠さず見せているか、木場修くらい一途でないと、難しいのかも。あの人達の縁は伊達に腐ってるわけじゃないのだ。



今回感想がうまくまとめられなくて結局3回読んだんだけど、読めば読むほど読後のモヤモヤが止まらなくなってしまった。
なんで榎木津は復員後すぐ宏美に会いに行かなかったんだろうか。
宏美が神崎グループの総帥に収まっていることを知って、身を引いたのだろうか。いや、そういうタイプの人じゃないよな、じゃあ会うほどの気持ちがもうなかったのだろうか(写真の罹災を回避したくて中禅寺に預けたくらいなのに?)。
宏美も、去年榎木津の無事を知ったんだったら、その時に連絡取れば良かったのに。活躍著しい榎木津に会わせる顔がないと思っちゃったにしても。片思いだったわけでもないんだし。

まぁ、どちらもそんなに簡単なことじゃないんだろう。
なんていったって戦争を挟んでるんだから。



蛇足:読んでる途中で中禅寺に作品批評に対して牽制されて、レビュー書きにくいなぁと思ったんだけど、読み終わったらあの牽制はどこかへ吹っ飛んでしまった。別に私はこれで飯食ってる訳じゃないし、そもそも自分のために書いてるんだから、いいのだ。


更に蛇足:レビュー書き終わってから先人のレビュー読んでみたけど、軒並み辛口ですね。当時は満を持して刊行されたろうから期待値高まっちゃったのかな。
2020年に本屋で買った私の文庫版、カバーは新装版だったのに本体は初版だった(!)。売れなかったんでしょうか。講談社ノベルズで続編を出さなくなったのはその辺りが影響してたりするのかな…と邪なことを考えました。
シリーズモノって難しいね。新たな読者を獲得し辛いだろうし。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 京極夏彦
感想投稿日 : 2020年7月12日
読了日 : 2020年6月1日
本棚登録日 : 2020年7月12日

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