ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫 JA イ 7-7)

著者 :
  • 早川書房 (2014年8月8日発売)
4.18
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本棚登録 : 5497
感想 : 382

読んでしまった。
三年ほど前、一度文庫化された時にポップとその真っ白い表紙といかにも牧歌的なタイトルにつられて、軽くはじめとラストを立ち読みしたことがあるのですが、その時の感想は「うわっ、気持ち悪い。無理だわ、これ。理解不能。意味不明。恐い」だったため、以来、ずっとあれは手にしてはいけない書物だったのですが、この度表紙のイラストにつられ……たつもりはあまりないのですが、いや、イラスト見て、ようやくどれ系のお話しか見当がついたのもあったり、いつも楽しみにしてるレヴュアーさんが殿堂入り宣言していたりするのを見て、そんなにすごいのか? 気持ち悪いだけでなく? だって世界の意識統一でしょ? いやだよ、そんなラスト、という生理的嫌悪感を好奇心が上回り、ついうっかり、いや、やっぱり表紙のイラスト描いてるのギルクラのキャラ原案の人だよね? とそれを確かめるためにぺらぺらとめくって、やはり意味不明なhtml言語と、のっけからなんか隠微な少女たちの会話にやられて、百合無理~って、一応ラストも二、三ページめくって、やっぱバッドエンドと思ってぱたんと本を閉じ、棚に戻したのですが、どうしても、ね、その夜からハーモニーの世界のことが頭を離れなくて、翌日結局月曜日にポイントつけられる書店に行く前にポイントつかない書店で買ってしまったのです。
 結論から言うと買ってよかった。
 最近欲していた骨太の世界が待っていました。
 きっと三年前はまだ手にとれる時期ではなかったのでしょう。
 ずぶずぶと沼にはまるように彼女たちの世界にはまり込んでいき、優しさと善の押し売りで成り立つ世界に息苦しさを覚え、常時体内を監視されるシステムに狂っているとさえ思いつつも、伊藤氏が描き出したそんな社会構成の内包した核戦争後の世界から逃れられなくなっていました。
 伊藤氏の書いたものを手に取るのをためらっていた理由は、すでに氏が若くして亡くなられている、というその喪失感――もう別の物語を読むことができないのだ、という絶望感、同じ時代を生きながらその先に行くことができず、今はもういないという空虚感が常に頭の中にちらついていたこともあったと思います。
 「ハーモニー」を読みながらも何度、どうして死んじゃったんだよ、どうして死ねたんだよ、もっと書きたいものがあっただろう? と、どちらかというと読者という立場というより物書きの立場で見てしまって、胸の底に忸怩たる思いが糸を引きながら頭をもたげていました。
 それでも、そんな思いをねじ伏せるかのように、いや、まさにこれが氏の生き様なのだといわんばかりの筆の乗りに、もう事実を受け止めるしかないのだと言い聞かせながら読んでいました。
 あの<html>ではなく<etml>でくくられて始まるこの文章や、ところどころにさしはさまれる<>の英単語の内容が、位置や形式を表す言語ではなく、感情を表す言語であることに気付いたのがおおよそ195ページあたり。
 そこではじめて、この小説自体が実験的に書かれている、というどっかで聞いた話の意味が分かりました。
 これ、ログだったんです。
 一人称で語られているけれど、おそらくここに主人公は直結していない。
 「記憶」ではなく、「記録=ログ」がこの小説だったのです。
 そう気づいてからは、<>で挟まれた感情言語が意味を持って感じられるようになり、その代償に、ああ、実はこれはとても無味乾燥な感情の始まりと終わりをロジカルに決定したものにすぎないのだと気付いて、このログを残す世界に絶望したのでした。
 だってそうでしょう?
 感情には起伏がある。
 ため込んでいたものが爆発することもあれば、少しずつ増幅していって強さを増していくこともある。その逆に、突如終焉を打たれることもあれば、徐々に収束していく感情もある。
 <anger>台詞や行動の記録</anger>
 これでは、主人公はここから怒り始め、ここで怒りはおしまい、という、ざくっざくっと仕切りを設けただけにすぎず、</anger>の後のセリフにだってまだ怒気は残っているはずなのに、おそらく、これをログで読む人類にはそれがわからないのだ。
 おそらく、生体内の監視機構が感情に対しても精神的な見地から言語化できるパターンを設け、既定の閾値を設定し、その数値を越えたところからその「感情」を適用し、閾値の範囲外になるとフラットに戻る。感情すら数値に基づいて言語化するとこれほど味気ないものになる。
 エピローグ時の世界において、おそらく行間にさしはさまれている主人公や彼女を取り巻く人々の気持ちを読み取ったり察することのできる人類は残っていないのだろう。
 意思や意識をフラット化され、魂という個を奪われることに対する恐怖。
 それは主人公と同時性を持ちながらのシンクロ感情だったが、これが残された旧世界の記録(ログ)であり、それを言語としてしか認識できない人類の誕生という未来は、二重の意味で恐ろしいと思った。
『さよなら わたし』
 それは個の滅亡であり、死である。
 肉体的な死、人間的な死。
 そう、人間的な死といった場合、意識の消滅を連想するように、共同体という機能を極限にまで引き上げたハーモニクスなこの新たな世界には、人間はいない。
 動物という範疇を越えたというが、個の意識をなくすることはむしろ動物に回帰することではないだろうか。
 私にはこの新たな世界が人間の滅亡した世界にしか見えない。
 そこにあるのは理論値に基づいて行動するコンピューターとおなじ人工知能の塊たちだ。
 おそらく今後、彼らは肉体すらも必要としない段階を迎えることだろう。
 でもきっと、そこに揺らぎが現れるのではないかと思う。
 消しきれなかった個の意識が一つ目覚め、二つ目覚め……若い世代に自殺が多発し始めたように、おそらくきっと、この世界の行く先には再び個への回帰が待っているような気がする。
 作中において極端な状況になると事後の振れ幅は大きくなる旨の記述があるが、おそらく、エピローグの世界の社会の完成度はもはや理論値であり、極限状況であると思われる。
 複製されていく記録にバグが生じることもあるだろう。そのバグの積み重ねが、再び「わたし」を取り戻してくれるのではないか。
 私はそう信じている。
 そう信じないととても怖くて、未来(さき)に進むことができそうにない。

 アバタール・チューナーが好きな方は、きっとこれも同じかみごたえのある読みがいを得られると思うのでお勧めです。
 余談だけど、アニメ化するならあの<>で区切られた無味乾燥な感情表現はどうするんだろう。
 でも、結構見てみたいです。音楽は今回澤野さんをかけながら聞いていたらぴったりだったんだけどな。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: SF
感想投稿日 : 2014年8月31日
読了日 : 2014年8月31日
本棚登録日 : 2014年8月31日

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