かかわり方のまなび方

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  • 筑摩書房 (2011年2月12日発売)
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おおむね、「枠」というか、ある「空間」を用意して、あとは参加者の自発性にゆだねるということを、自分はやっていきたいのかなと思った。

教育という言葉がここに適切かはわからないけれど、おおむね「教育的効果」なるものは、「状況への埋没」によって、自発的に獲得されるものなのではないかなと思った。状況にうめこまれたことで、主体は「環境(状況)」と「自己」との間の調整を迫られる。つまり「自己」は新たな「環境」や慣れない「状況」においては、従来の「存在様式」では、立脚することができず、「自己解体」と「変成」を迫られる。そのことをして、おそらく「学び」と言うのだろう。かつての生活においては、そうしなければ生きていけない(例えば人と一緒に何かしないととか)「環境」というものが、世界中のどこにでも存在しており、その環境で普通に営んでいることが(=埋没)、そのまま「自己解体」と「変成」を含む、「学び」として成立していたのだと思う。他方で、現在の資本主義下においては、最低限の「生存」は、社会保障の充実、医療の発展などの面から国家的に保障されており、「生存」=「状況への埋没」という図式は崩壊しているということなのだろう。

例えば参加者が既成の、自分の価値観に固執して、ある種の攻撃性をもちながら話し合いに参加している場合、それによって他の参加者が委縮するような状況がある場合には、それをさせないような条件設定を施せばよい。「状況」を作るということ。それが出来ないのは、ファシリの力量不足としてまとめられてしまう。

そう考えていくと、やはり自分は会議でうまく言葉が引っ張り出せないとか、祝祭的な空間を状況として導き出せないだとか、そういうことに大きな関心と言うか、問題関心があるのだなと改めて感じた。

●以下引用

正直じゃないと、本当の会話は出来ない。構えがあったらできません。いつも気持ちに正直で、自分の心がどうなっているかわかっていることが大切なのね。自分に対しる感性は磨いていなければならないと思っています。

聴く、正直に伝える。その他にどんなかかわりをなさるんでしょう。-待つことですね。話をしていて、相手がフッと黙ることがありますが、本当に言いたくなった時、ご本人からお話しになる時まで待ちますね。やっぱり、時があると思います。

「(自殺に関しての)あなたの決心をご尊重申し上げます」とお伝えしたんですね。-その途端、今まで噛みつくように話していた人が、「わかってくれはりますか」とおっしゃって、態度ががらっと変わったんですよ

めいめいのこたえの実現を助けるのが、どうやら傍らにいる教師の役目であるということは、ソクラテスの三馬術のように常に問い続けていればいいのだろうか

他人との関わり合いの傘の大きさは、その人の経験や幅や深さによる。経験の幅が狭いと、他人の気持ちをあまり察することができません。同じ気持ちを共有するための経験値が足りない

場に対する参加の姿勢はおのずと違いますよね。責任のある主体的なかかわりをする習慣があるかないか、この背景の有無によってファシリテーションの求められ方は違います。

集まってきたみんながそのテーマについてどんな想いを抱いていて、どうしたいかが大事なんだと思う。参加者はそれぞれの実体験を持っているのだから、そこから始めればいいんだと。

手法と、態度の二つは掛け算のようなものだと思います

小手先の技法よりも、ファシリテーターの存在そのものが、場に対して決定的な影響を与えていると思いません?

そもそも今、第一線で活躍しているファシリテーターの先駆者たちも、どこかで養成講座を受けてプロになったわけじゃなくて、自分自身で試行錯誤してきたわけでしょ?

概念化は大事だと思いますよ。複雑な体験を言語化して、他の人と共有できる形にするのは大事なことだと僕も思います。でもねえ、なにかこう「学んだような気」にさせちゃうのはどうかなあと思うんですよ。

ファシリテーターはね、場に決定的な影響を与える存在です。とはいえ、場に何か与えているわけでも、その場を進めているわけでもない。彼がコトを起こしているわけじゃなくて、起こしているのはプロセスであり、その「場」なんだよ

ある存在感を持つ人が一緒にいることで、場の空気や質感、気持ちの集まり具合が変わる

コミュニケーションというのは器なんです。器が出来れば、中身は自然に満たされてゆく。コーチングにせよ、カウンセリングにせよ、プレゼンテーションにせよ、メンタルヘルスでも、リーダーシップでも。どれも要は、「コミュニケーション」です。

●話し方や身の振るまい方なんて、一番最後でいいんですよ。まずは自分たちがお互いにどんな枠組みの中にいるのか。どのような立場や関係をとっているのか。あるいは囚われているのか。そこが認識できないまま発生が出来るようになったところで、相手の眼を見て頷いたところで、意味ないです。

予定調和的な意味合いで言う「落としどころ」は軽いけど、状況を十分によく見て、落とす直前に判断するようなそれには、まるで違う重さがありますよね。

僕の方では、みんなが僕のことばを待ってしまったんだよね。

次はどんな言葉が聞けるだろうって。ただすらすらやればいいってもんじゃない。

僕には彼に対する信頼感がある、それは彼が語る言葉や態度の中に、自前の結論を固定的に持たず、いつも寸止めのところで留保しながら、揺れて、その場の最新の自分をもってかかわってゆく姿勢を感じているからだ。その在り方はこちらを自由にしてくれる

「ハンバーグ」にまとまっても、「何がいるんだっけ」という感じで、スタッフは作り方を教えようとしない。むしろリードの手綱を少しずつ話してゆく

教えなくてもいい、学ぶ主体はあっちだし

従来の絵画教室だと教えちゃうわけよ。子どもたちが自分の中から、何を描くか、どう描くかということを取り出してくる、その支援をするほうが大事なこと

昔のお母さんにして、くっついて一緒にやっているうちに大事な部分を体得して、ものにしてきたわけで。教えることより、どう共感するか、エールを送ったか、どんなフォローのやり取りをしたか、どう肯定されたか、、、

自由だっていうけれど、決して自由じゃないですよ。「何をしようか」というテーマは、こちらからしっかり提示しています。

テーマを具体的に示しつつ、「あなたはどうしたいの?」ということを、手を替え品を換えながら何度も問い直していく

作曲行為どのものが楽しいのであって、曲を完成させて発表会を開くのは寧ろ苦痛のほうが多い

学校の先生を対象にやる時には頼りない感じを少なくするようにしている

すでに見えている場所へたどり着くのは面白くないです

一人で引っ張るわけでもなく、参加者に預けきるわけでもなく、「一緒に」場をつくってゆくような関わり方をしている

教えたり導くための空間でなく、めいめいが自分の「なにか」に取り組める場をつくりたいのなら、主役がどうのこうのといったヒエラルキーの入り込む余地は、そもそもハナからないはずだ

知的な好奇心を作りだすこと、その支援が大事です

人を名前で呼ぶのは大事なことです

学習の場づくりは、その準備段階からプロセスが始まっています。集まったこどもたちをただ自由に野放しにするのではなく、彼らが自分で「意味」を見つけ出すための学習環境づくりに注力する

●教えることがまるで悪いことのように語られる時さえあるのだが、さまざまなファシリテーターの働きに触れてきて思うのは、どちらの方向性にせよ、「こういう関わり方をしてはいけない」といった行動規範を持つより、ファシエイテーターが本人の持ち味を殺さずに一致感の高い関わり方さえしていれば、

一致というのは、自分が思っている自分と、現実的・客観的に周囲の人が判断している自分が一致しているということ。それがファシリの絶対条件

歪みが生じて一致しないというのは、なんていうか、自分の中に欺瞞性を感じてゐる状態。客観的に見たらそうでもないことについて、「自分はこうだ」と思い込んでいる状態。その悪循環が進むと、ますますずれていく。

自分のありようを受け止め、そこで自分を肯定している人、人が人にかかわるのは、ものすごく大事なこと

自分の人となりに疑問を抱かず、素直に動ける人。自分のことを好きな人

笑いをとりに「行く」は自分から離れている。Iメッセージではない。

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感想投稿日 : 2014年11月29日
本棚登録日 : 2014年11月29日

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