PLANETS SPECIAL 2011 夏休みの終わりに

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zerobaseさん 批評・思想・哲学   読み終わった 

宮台真司と宇野常寛のまどマギ論が面白かった。以下引用:

宮台 まどかが世界の摂理を変えることを思いつくのは、ほむらちゃんの献身に気がつくから。つまり自分自身を支えてきた関係性に気づくから。倫理学の素養がある人なら、レスポンシビリティ(責任)のことだと思ったはず。自分が世界をどう思うかよりも、他者たちがこの自分をどう思い、どう感じていたのかということに、応えようという態度です。
 自分の存在を支える関係性は空間的にも時間的も裾野が際限ない。そのことを恩義に感じるがゆえに自分の消滅と引き替えに世界を革命する。何が本物か偽物かなど知らないが、この人たちが殺されることを見過ごす自分だけは許せない。だから正しいか正しくないかなんて知らないが、この人たちが殺される世界を革命するために自分は死のうと思う……。
 こうした意味論は「イエスの贖罪」に見られます。だから『まどマギ』はキリスト教圏では理解が容易なはずです。イエスは律法を守るもの(本物)だけが救われるという旧い契約を単なるトートロジーだとして退け、他者に反応できる者だけが救われるのだと告知します。何が本物か偽物かではなく、何に反応して何をしようとするのかだけが問題だ、と。(p.44)

宮台 ジュブナイルの伝統は「子供には、大人に見えないものが見えるし、大人の聴こえないものが聴こえる」。一口で言えば「子供たちの方が大人たちよりすごい」。(…)
 『エヴァ』は逆で「大人はすごくて子供には手が届かない」です。そういう作品を見て「僕は碇シンジです」とかっていうのは暗すぎるよ(笑)。円谷的なものの復活は、宇野さんの言葉につなげて言えば、「得体の知れなさに開かれた子供の方が大人よりもすごい」という感受性の復活が必要です。そこで僕が期待するのが「魔女っ子もの」なんです。
 例えば『魔法少女まどか☆マギカ』では明らかに子供たちのほうがすごい。大人たちには全く見えない世の摂理(キュゥべえ的なもの)が子供たちには見える。そして魔女はメンヘラー化した魔法少女の成れの果て、つまり悪というよりも人々の〈秩序〉が生んだ存在です。進化しているのは、魔女との戦いから離陸して、世の摂理を変えるところです。
 宇野さんも指摘していたけど、魔女っ子ものの返信って、テクマクマヤコンから、月にかわってオシオキまで、少女がいっとき全能の成熟身体を手にすることのメタファーです。でも新房昭之の魔法少女における変身は、別の存在になること。別の存在とは、少女のまま使命を帯びることで、ジュブナイルが唱ってきた、子供が元々持つすごい可能性のこと。
 僕は『まどマギ』に、先に述べた「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という伝統的世直しモチーフに加えて、「子供たちの方が大人たちよりすごい」という伝統的ジュブナイルモチーフを見出します。ただし『まどマギ』は、怪獣や魔女を倒すことで怪獣や魔女を生み出した〈秩序〉を温存するといった後味悪さを超えて、子供が世の摂理まで変えてしまう。(p.50-51)

…『まどか☆マギカ』は、蒼樹うめさんの力もあって、「空気系」の要素を持つけど、ゼロ年代「空気系」標準と違って、ママやパパとか弟とか家族を詳細に描く。あれも伝統復帰=震災後の意味論です。ママやパパに承認されるんじゃなく、ママやパパを承認してあげている。そこは『コクリコ坂』と同じで、反抗期からの離脱の、伝統モチーフです。


宇野 「成熟の不可能性に自覚的であれ」というメッセージでドヤ顔をすることからは、すごく淡泊な自己肯定しか生まれない。結局、責任を引き受ける方向には絶対いかないですからね。
宮台 これからは、大人には見えないものが見えるすごい子供が、大人にはできない世直しをして、しかも、すごくない大人を承認してあげるんだ。そういう意味論がリアルに享受できない社会は、持続可能性を持たないし、そもそも「生きるにたる社会」でさえありません。たとえ嘘でも「生きるにたる社会」だという表現は、青少年にとって大切です。
宇野 それこそがファンタジーの描くべきことですよね。
宮台 ジュブナイルの基本だし、黄金時代のSFもそういうものでした。それが震災後の叙事詩であるべきです。そもそも東電ヤローや経産ヤローみたいな大人たちが溢れる社会で、僕は大人になれるのかな…などと不安がること自体が、滑稽なナンセンスだよ。〈承認される〉から〈承認する〉へ。〈任せる〉から〈引き受ける〉へ。火蓋が切られたと思うよ。
宇野 オタク文化っていうのはいい意味でのルサンチマンの文化であって、「ダメな俺」という自意識があるからこそ優れた作品が生まれるという立場と、むしろ現在のカジュアル化したオタクたちの「軽さ」こそが、自己目的化したコミュニケーションが連鎖する現代日本のネットワーク環境に過剰適応してユニークな想像力を生む、という二つの立場がある。僕は後者に賭けたいと思っています。後者の立場に立つことで、ファンタジーとかアニメの持っている本来持っている可能性を引き出せると思う。
宮台 僕の世代や、僕より上の世代で、後者の立場以外ってあり得ないよ。宇野さんの今の言葉でいえば、「現代日本のネットワーク環境」では、どんな営みも〈自己〉に帰属されて、それは永久に変わらない。ならば、それを自明の前提として、〈自己〉に帰属されざるを得ない世直しを、関係性の引受けによって独我論を中和しながら完遂するしかない。
宇野 承認の問題だけが物語の、特にファンタジーの描くべきものじゃない。それに気づいたのが多分『ゲド戦記』と『コクリコ坂から』の差なんでしょうね。
宮台 そう。別段、父親に承認される必要はない。父親に承認されなくても、自分自身が「承認する父親」になれば良い。そういう「引き受ける存在」となって、自己の消滅と引き替えに世直しを達成する。たとえそれが〈自己〉に帰属されても、「そういうお前は?」と問い返し、スルーすればいいだけです。(p.51)

宇野 『エヴァ』は世界の謎を自意識に矮小化してしまったわけじゃない? 「世界構造やシステムは書きかえられません。なのでとりあえず僕の自意識の問題が解決すればいいんです」みたいな(笑)。『まどマギ』がそうだとは言い切れないけど、「セカイ系」みたいに自意識の問題に矮小化するという方法でもなく、国家とかイデオロギーといったものとも違う「大きなもの」、セカイ構造やシステムにどうアプローチしていくのかという想像力がもっと出てきてもいいのかな思いますね。(p.105)

レビュー投稿日
2011年11月1日
読了日
2011年10月25日
本棚登録日
2011年9月29日
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