新版 デジタル・メディア社会

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (285ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000240017

作品紹介・あらすじ

インターネットによる新しいジャーナリズム。巨大メディア資本や国家のはざまから立ち上がる、新しいメディア表現者たち。これからの21世紀メディア社会を展望する。

感想・レビュー・書評

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  • 《はじめに》p10
    アントニオ・グラムシ「理知のペシミズム、意志のオプティミズム」

    <ソシオ・メディア論の対抗力>p20
    情報技術がいかに人間や社会に影響を与えるのかという観点に立つ技術中心的なメディア論とは違い、人間や社会が情報技術をいかに文化的に受容していくか、メディア文化がどのような政治性、歴史性を帯びて存立しているのか、さらに人間や社会の側からメディアをとらえていくものの見方を、ここでの視座としたい。
    ⇒これらの視座を初めにまとまったかたちで提示したのは、イギリスのレイモンド・ウィリアムズと、その影響をアメリカにおいて最も真剣に受け止めたジェームズ・ケアリーだった。

    ソシオ・メディア論は、これからも続いていくであろう技術中心的イデオロギーの卓越した状況に対応して、私たちの日常の思想と実践が総合的な政治力を回復することを目的とした、一つのプロジェクトなのである。p26

    【情報技術・メディア・社会】p26
    ①情報技術と社会は、たがいに独立した系をなし、対立するような関係にはない。情報技術は社会に埋め込まれて作動し、社会は情報技術によって存立している。そうしたクラインの壺のような、内と外という考え方が無効になるような入り組んだ関係性の中で、メディアはダイナミックに存在しているのである。
    情報技術と社会の関係性をとらえるためには、技術の階層性や、分節化、制度化されたありよう、生産から消費の場にいたる社会諸領域の権力関係などを多元的に、重層的に見極めていく必要がある。
    ②情報技術とメディアという概念を区別し、別の理念型としてこの力学関係の中に位置づけること。
    メディアは情報技術を内包しながら、政治的、経済的、文化的なさまざまな社会的要因の介在によって社会的様態を整えていく。
    ③メディアは多元的な実体性を帯びて社会に存在しているという認識。
    メディアは、さまざまな思惑を込められた記号の群体としてとらえられる必要がある。

    【電気メディア爆発とデジタル・メディア爆発】p31
    電信は鉄道や蒸気機関、郵便や印刷といった新しい技術体系とほぼ同時期に日本に姿を現し、社会的に展開していく。Cf. 電信基幹ネットワークの敷設と明治天皇の地方巡幸との密接なつながり、西南戦争

    日本の近代史の中でのメディア体制は、国家的ネットワークが草の根的な動きを吸収していくというかたちを取って形成されてきた。

    デジタル情報技術の特徴は「モードの融合」が技術レベルからメディア機器やインターフェイス、サービスにまで貫徹されることによって、印刷や電気をはじめとするそれまでの情報技術とは比較にならないほどの量の情報を、より高速で簡単に、しかも安く加工し、蓄積し、伝達していくことにある。
    Cf. 西南戦争が近代国家の確立の契機となったとすれば、湾岸戦争は国民国家の虚構性を露にし、アメリカを中心とするグローバライゼーションの政治の存在を明らかにしたのである。

    デジタル・メディアは新しい情報技術によって突然日本社会に現れたのではなく、およそ100年前に現れた電気メディアと社会の相互作用の歴史の延長上に位置づけられるべきものなのである。
    デジタル情報化は、電気情報化が確立した近代国民国家体制を大きく揺さぶりつつある。p36

    【歴史的構図からの補助線】p37
    15世紀にヨハネス・グーテンベルクが活版印刷術を実用化したことはヨーロッパ社会に大きな影響を与えたが、それはすぐに起こったわけではない。印刷という情報技術がゆっくりと社会化し、新聞や書物という物質的、社会的なかたちを持ったメディアとして社会に本格的に定着していくのは、18世紀を待たなければならなかった

    声というのはそれ自体電気やデジタル情報技術ではなく身体技術の一部であるわけだが、その声を用いることで歌やドラマというメディア形式が生み出されるまでには、きわめて長い時間がかかったはずである。

    このように考えてみると、たとえば今日のインターネットが、未だに情報技術の領域にとどまり、メディアとして十分に社会化していないことが明らかになってくる。
    なるほど最近はインターネットを世界規模のデータベース・メディア(クラウドへ)、電子メールのようなパーソナル・コミュニケーション・メディア、ウェブのような半公共的なメディアなどと分けてとらえることができるようになってきてはいる。しかしそれはまだきわめて流動的な段階にあるわけで、インターネットはメディアの可能的様態が混在する。原始のスープのような状態にあるといっていいだろう。p38
    ¥:SNSの隆盛は個人をエンパワーするという意味で新たな局面を切り拓く?

    新しいメディアはそれに先行する古いメディアのメタファーに統率されながら、その社会的様態を形成していく。

    ハロルド・イニス、マーシャル・マクルーハンなどと並んで、メディア研究におけるトロント学派の中心的存在だった古典学者エリック・ハヴロックはプラトンが文字による思考や哲学を提唱したことによってギリシャ時代の口承メディアに頼っていた文化様式に決定的な変化を引き起こしたことを指摘した。Cf. 『プラトン序説』

    <メディアをめぐる人間像への注目:構図と構成>p43
    デジタル情報化のもとでのメディアと人間の関係性に注目し、それを根本的に問い直していくこと、そしてメディアをめぐる新しい人間像を探っていくことである。
    巨視的な意味でのメディアや社会から発想するのではなく、日常実践に現れるメディアと人間の関係の仕方という、眼で見て、手で触れることができるような微視的な次元において状況を読み直し、変革していく必要がある。
    ★メディアによって未来を切り拓くという営みは、特権的な一部の人間だけに許された行為ではなく、メディア論的想像力に覚醒したすべての人々に可能な実践なのだ。

    《第一章  遊具としてのメディア》p51
    インタラクティブな無線メディアの遊具性は、無線機から送信機能がはぎ取られ、家電化された時点で途端に失われ、それ以後は一方向的な放送メディアの娯楽性が急速に発達することになった。p63

    <パーソナル・コンピュータ、テレビゲーム、ハッカー>p63
    テレビゲームの遊具性は、コンピュータの展開の道筋の真ん中に位置していた。p69

    <遊びとしてのメディア文化>p69
    【限界芸術と遊び】
    ①あらゆるメディアと人間の関係の基層には、遊びという営みが介在している。Cf. オランダの歴史化ヨハン・ホイジンガ→人間は「ホモ・ルーデンス」すなわち「遊ぶ人」としてあるという独特の文明観を打ち出した。

    Cf.  鶴見俊輔『限界芸術』⇔アメリカ・プラグマティズム

    メディア社会の状況を調査研究で解剖し、分析的に明らかにしていくという作業にとどまるのではなく、遊具としてのメディアと人間の相互作用に着目し、それを総合化し、状況を切り開いていくという、生活世界の革新を志すデザイン思想を見いだすことが出来る。p73

    【デジタル遊具の両義性】p73
    ①人間や社会に異化作用をもたらす。
    eg. インターネットはNPOにとってきわめて有効な通信手段であると同時に、自らのアイデンティティや他のグループとの関係性、世界観を形成するための媒体ともなっている。
    ②消費社会における商品としてのメディアの遊具性
    人々は流行やブームになっているものを消費することで、他者と同じでいるアリバイを手に入れると同時に、記号価値を選び取ることで他者とのちがいを獲得していくこととなる。この仕掛けの中でメディアは新しさと古さ、他者との同質性と差異性を生み出すための記号媒体なのである。p77

    <メディアと人間の新たな関係性を求めて>p80

    《第二章 メディア・リテラシーと人間像の展開》p91
    M・Lとは人間がメディアに媒介された情報を、送り手によって構成されたものとして批判的に受容し、解釈すると同時に、自らの思想や意見、感じていることなどをメディアによって構成的に表現し、コミュニケーションの回路を生み出していくという、複合的な能力のことである。

    <複合的なメディア・リテラシー>p95
    ①メディア使用能力
    ②メディア受容能力
    ③メディア表現能力
    ⇒M・Lとはただ単にメディアに関わる人間の能力を意味しているだけではなく、メディア自体を自らのものとして使えるように組み替えることや、それが媒介として成り立つ新たなコミュニケーションの場の形成、社会の変革といったプロジェクトに展開されていく潜在性を秘めた概念なのである。p100

    <メディア・リテラシー論の系譜>
    ①マスメディア批判の理論と実践
    ②学校教育の理論と実践
    ③情報産業の生産・消費のメカニズム
    ▲情報メディア関連の統計については次が便利である。
    ・電通総研『情報メディア白書』
    ・『インターネット白書』インプレス
    ・東京大学社会情報研究所の社会心理学系スタッフを中心とする「情報行動センサス」

    <メディア・リテラシー論の根本問題>p119
    メディア使用能力としてのメディア・リテラシー教育が強力に推し進められれば、既存の官僚的巨大組織に適合したコンピュータやネットワークのあり方が前提視され、個人の想像力や起業家精神は排除されていく危険性は高い。情報格差、あるいは情報弱者の存在という問題もまた、メディア・リテラシーがはらむイデオロギーと表裏一体の関係にあるといっていいだろう。

    <デジタル情報化とメディア・リテラシーの射程>p122
    ①M・L論はメディアと人間の関係性を組み替えていくための思想として、日常生活実践において活用されるものだ。そしてデジタル・メディア社会におけるメディアに関わる新しい人間像を提示してくれるのである。
    Cf. カルチュラル・スタディーズの文脈でいわれる「能動的なオーディエンス」、ネットワーク文化論が提出する「ネティズン」p125
    ②M・L論がはらむメディアをめぐる人間の全体性、循環性の回復という展望は、私たち市民が社会的構成体としてのメディアを自らのものとして主体的にデザインしていくことを促す。

    《第三章  新しいメディア表現者たちとジャーナリズム》p131
    Cf. CAJ(コンピュータ・アシステッド・ジャーナリズム)

    【「ハイパーストーリー」とジャーナリズムのアイデンティティ】p154
    Cf. "Hyperstory" by Eric Fredin

    <日本のジャーナリズムに対する根源的な問いかけ>p159

    【「マスメディア天動説」と「デジタル・イデオロギー」】
    マスメディアがメディアの中心であるという意味での「マスメディア天動説」と呼ぶべきイデオロギー。逆に新しいメディア表現者、とくにインターネットでネットワーク活動を展開する人々の間では、メディアを一枚岩の体制的構造物として敵視し、マスメディアが俗悪な資本論理を垂れ流す装置に過ぎないという考えは根強い。それに対してインターネットは新しい社会環境と民主主義を切り開く画期的なメディアであるという、いわば「デジタル・イデオロギー」がある。

    【オルタナティブなジャーナリズム主体の可能性】p165

    【メディア表現者としての市民の覚醒】p168
    Cf. パブリック・ジャーナリズム、シビック・ジャーナリズム

    【多層的な公共圏へ】p175
    重視すべきはジャーナリズムのイデオロギー体系ではなく、ジャーナリズム表現の階層構造である。
    デジタルメディア社会におけるプロと市民の関係は、対立的なものではなく、たがいに重なり合い、循環性を持つものになるだろう。p179

    《第四章 アジアに越境するメディア》p183

    【アジアのメディア、メディアのアジア】p184
    Cf. 香港のSTAR TV
    香港、台湾、シンガポール、韓国という「四匹の虎」と呼ばれた国や地域において、パーソナル・コンピュータやインターネット、携帯電話をはじめとするデジタル・メディア機器が著しく発達した。

    Cf. シンガポール「IT2000」:国家的情報化政策を掲げ、世界的な情報ネットワークのアジアにおけるハブとなることを目指した。

    デジタル情報技術が国家のアイデンティティを保障したり、国威発揚に利用されたりすることを通して、ナショナリズムと深く結びついていることが露わになってきた。p193

    【越境する小さな物語たち】p193
    Cf. エスニック・メディア

    【アジアからのネットワーク】p199
    Cf. 「アジア・チャンネル」:アジア各地のおもに大学生たちが、自分達のつくったドキュメンタリー、短編映画、絵画、アニメーションなどの作品を紹介し、売り込み、相互に鑑賞し合うためのメディア。

    【デジタル化と文化の周縁性、多様性】p203
    ①メディア表現者たちは社会の中心からではなく、周縁から立ち現れている。
    ②多文化的(multi-cultural)で混成的(hybrid)な社会状況のただ中におり、その状況に刺激を受けるかたちでメディアを活用している。

    【アジアに開かれた日本のために】p208
    明治国家は電信と鉄道ネットワークの建設によって、国土空間と標準時間を獲得することで、はじめて成立した。その後のメディア・ネットワークすなわち電話、ラジオ、テレビ、そして高速デジタル回線網はすべて、電信と鉄道が張りめぐらされたネットワーク・トポロジーを上塗りし、強化するかたちで発展してきた。20世紀前半に全国にあった、地域に自律的な電話ネットワークは電電公社に一元化され、放送の歴史の草創期にあった民間による多元的なラジオ局は、すぐさま全国組織としての日本の放送協会に吸収統合されていった。その過程で日本列島は同じ情報と時間を共有する均質な国土空間として組織され、そこに暮らす人々は天皇対臣民という中央集権的なかたちで日本人として枠付けられてきたのである。

    《デジタルメディアと公共圏》p223

    <21世紀前半のメディアと社会>

    【デジタル情報化の大きな物語】p226
    93年のクリントン政権下、副大統領のゴアが中心となって「情報ハイウェイ構想」を提唱した。
    それは高速デジタル・ネットワークを全米に張りめぐらせることで、教育、福祉から産業まであらゆる社会領域において情報化を進め、社会構造を変革し、情報産業を中心としてアメリカ経済の復興を図ろうとしたものだった。
    →「マイクロソフト」「ディズニー」「AOLタイム・ワーナー」「ニューズ・コーポレーション」「キルヒ」「ベルテルスマン」などの欧米の巨大メディア資本が積極的なグローバル展開をはじめ、その中でマスメディアと情報産業の複合的結合関係が確立した。
    ⇒「情報ハイウェイ構想」が提唱したNII(全米情報基盤)はさらにGII(地球情報基盤)へと拡大展開されるようになった。

    【草の根の小さな物語】p228
    アメリカでは1990年代半ばから「コンピュータに媒介されたコミュニケーション(Computer Meditated Communication:CMC)という言葉が流通するようになり、理論的にも、マスメディアの中でも使われるようになった。p229

    <デジタル・メディア社会の特性>

    【技術革新とバージョンアップの日常化】p232

    【政治性を帯びるメディア・リテラシー】p236
    Cf. 情報格差の南北問題
    一般的にいって経済格差が情報格差、メディア・リテラシーの有無に色濃く反映しているという現実から目をそらせてはならない。

    <制度的思考とメディア論的実践>
    デジタル情報化のもとで公共圏を生み出していくためには、いかなる手立てがあるのだろうか?
    ①公共圏を形成していくための仕組を積極的に検討し、実現していく活動である。
    花田達郎は個人の自由な表現がおこなわれるためにはそれを保障する制度的空間が必要だとし、ハバーマスの知見を援用しつつ、それに公共圏という名前を意識的に与えた。
    ②私たち市民が主体的にメディア実践活動に参画する、小さな物語を生成し、維持し、発展させ、それらを無数に積み重ね、結びつけ、その中から公共圏を立ち上げる試みが重要になってくる。すなわち市民のメディア論的実践からのアプローチである。
    ⇒メディア論的実践は、制度的思考に裏打ちされ、制度的思考がメディア論的実践によってアクチュアリティを獲得するという、相互作用的な関係性の中で、私たちははじめてバランスの取れた展望を持つことが出来るだろう。

    <インターネットの大衆化現象>

    【マスメディア化するインターネット】p243
    ①ポータルサイト eg. ヤフー、グーグル
    より多くのトラフィックがより多くの利益に結びつくことが明らかになってきたため、巨大メディア資本、マスメディアはもちろん、ブラウザ・ソフトや基本ソフトのメーカー、インフラ事業者などがこぞってポータルサイトの開設に力を入れ始めた。cf. アクセッシブルなGUI
    ②WWWが起爆剤となって普及するインターネットにおいては、利用者の視聴者化が進行している。
    もともと水平的なコミュニケーション活動を前提に発達してきたインターネットの世界において、音声や映像をまるでテレビのように楽しむことができるWWWが発達し、資本力やブランド力のある巨大な送り手機構とアトム化した受け手という対抗図式が生み出され、固定化されていく傾向が見て取れる。

    【インターネット技術の政治経済的存立】p247
    Cf. シリコンアレー
    インターネットを支えるTCP/IPというプロトコルが事実上の技術標準となる背景には、東西冷戦構造後のアメリカの情報産業と連邦政府の強大な政治力があった。

    <表現への欲望とシンパシー>

    【表現への欲望と周縁性】p251
    Cf. 鶴見俊輔「限界芸術(marginal art)」:伝統的に権利づけられた純粋芸術からもマスメディアや産業に枠づけられた大衆芸術からも相対的に切り離された私たちの日常にある表現様式としての芸術。

    【シンパシーと共同体】p257
    Cf. ジェームス・ケアリー『文化としてのコミュニケーション』、クロポトキン『相互扶助論』↔ダーウィンの進化論
    クーリー(シカゴ学派、プラグマティズムの始祖)の「第一次集団(primary group)」:顔と顔をつき合わせている親しい結びつきと、協力によって特徴づけられる集団であり、シンパシーに満たされた、私たちの社会生活を基礎づける人間性の養成所。

    《終章 メディア表現、学びとリテラシー―メルプロジェクトという試み》

    【デジタル・メディア社会の中のギルド】p270
    メルプロジェクトはメディアに媒介された表現と学び、そしてメディア・リテラシーについての実践的な研究を行うための、ゆるやかなネットワーク型の研究プロジェクト。

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著者プロフィール

水越 伸(みずこし・しん):1963年生まれ。東京大学大学院情報学環教授を経て、現在、関西大学社会学部メディア専攻教授。

「2023年 『メディアの生成』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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