人は語り続けるとき,考えていない: 対話と思考の哲学

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000245395

作品紹介・あらすじ

アクティブ・ラーニングの推進や産業のAI化のなか,創造的な思考力や対話力の育成強化が重視される.しかし,対話とは,また考えるとはそもそもどういうことか.対話において,私の中で誰が話し,誰が思うのか.対話する身体はどのように考えているか.「子どもの哲学」「哲学カフェ」の実践をふまえて原理的に追究.

感想・レビュー・書評

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  • 対話とは、自分と他人をつなげるとともに、自分と他人が異なっていることの価値を知る行為だ。

    対話は、自分と他人との距離を知ることで、自分の存在を知る行為だ。
    それはすなわち、共同体の中で、自分を切り取る行為だ。
    全体の中で自分が位置付けられ、意味づけられるのだ。

    そこからさらに、自分を含む共同体を俯瞰できた時、
    新しさが発現され、新しい組み合わせが生まれる。つまり守破離である。

    対話の目的は、したがって、進化発展ではなく、変化更新だ。

  • 時々読み返したいなと思う。

    私たちが語る言葉は、他者の言葉を借りたものに過ぎないのかもしれない、言葉は流通しているだけかもしれない、という。そうなのかもしれない。ただ筆者の言葉を借りれば、我々の言葉は一種の借り物でもあったとしても、色々なものを組み合わせて、色々格闘してその本人の言葉(って何?そもそもそんなのあるのって話なのだろけど)になっていると感じるか、誰かの何かの安易な完コピに近くてすごく嘘くさい感じがしてしまうかっていうのは、あるような気がする。生成AIなんて出てきて、オリジナルってなんだってことになりそうだし、自分らしい言葉を格闘して表現しようとする文化はますます衰退している感じもあるのだが・・。

    問いと共にいきるべき、という言葉が印象に残った。その姿は不安げで人に不安を与えるか、否、「…(それは)事象と対象にどこまでも付き合おうとする愛に満ちた態度である。」という表現に救いを感じた。

  • 少し難しくてしっかり理解できていない部分も多いけれど、「対話」を考える大切な手がかりが幾つもあった。

    ・対話の終着点、あるいは目標とは、新しさの発現である。
    ・私の中で生じるとされている「思い」は、本当に自分から発しているものなのだろうか。話しているのは、本当に「私」なのだろうか。…思いや考えは「借り物」「通過物」なのではないか。言葉は多声的なもの。
    ・対話は身体なしではありえない交流。哲学対話では、ただ言葉による表現だけでなく、意識的・無意識的な身体的反応もひとつの表現として捉えて対話を行う。
    などなど

  • ・問いに関する筆者の考え方が面白い。哲学的な問いと、科学の問い、これらをごちゃごちゃにしていたのかと気づかされた。主題は何か?という問いは、いわゆる前者にあたるのかと。または、その中間か?

  • ・対話とは、芸術なのだなと思う。自分を超えていく、自分を書き換えていく技法。生命を推し進めていく技法

    ・対話=ポイエーシスなのだなと思った。あるものが未だそのものとして存在していない状態から、実際に秩序化された状態へと移行させる術。無秩序のうちにあるものを秩序へともたらすこと、推し進めること。

    ・対話における参加者の実感の極北は、「自分にふれる(自分で居る/自分になる)ことのよろこび」に尽きるのだろうな。良いファシリは、その媒介者になれる。これはいかえれば、自分から離れて、外にふれている喜びがあるということ。自分の外にいることと、自分の中心にふれことはおそらく同じ。無がそこにはある。

    ・対話における充足感の背後には「中心への参画」がおそらくある。つまり、それぞれが脱自した構えの中で生命を推し進めたり、越境することができること。

    ファシリに求められるのは、自分を「非ー知」へととどめておくこと、ないしは「非ー知」を基盤に、いつでも外へと連れ出される用意ができていること。参加者とともにつくりあげる場において、自分が書き換わるという準備ができていること。それが必要なのだと思う。「一緒に真理を探究する=いつでも非ー知であり、声を聴き、書き替える準備ができている」こと。

    ・対話における「無の分有」。その対話における主体、対話の展開力が「無」としての生命になっている対話。その場の中で、人は個になる。無を分有した個が、ひとつの共同性を立ち上げる。

    対話がポイえーシスであるという観点に立てば、制作と、対話はおなじだなぁと思った。良い制作においては、世界という根源主体の、開示(更新)過程に参画しつつ、未だ秩序化されていないものの現出に、両者が巻き込まれている。ともにつくるとは、その根源主体をともに分かち合いながら、しかしお互いはばた全く別の存在として、未明の他者への変容へといざなわれているということだなと。


    以下引用

    対話とは真理を求める会話である。対話とは、何かの問いに答えようとして、あるいは、自分の考えが正しいのかどうかをしろうとして、誰かと話し合い、心真理を探究する会話のことである。

    空間的にも時間的にも広大な枠組みに投じられ、きわめて異質な意見に出会い生産的な揺さぶりをかけられたのである

    当然視された文脈や慣習から見ればまるで異質であり、一見すると無関係とも言えるような非常ん異なった考え方の人たちが、まったく予想もつかなり角度と発送から、突然に議論に参加してくる

    哲学は既存の知識の再検討を主な任務としている。それは、社会に存在している常識や知識や技術を、人間の根本的な価値に照らし合わせてあらためて検討すること

    哲学は、既に存在している知識に対して、距離をとって判断するメタの立場をとる

    哲学はもっとも素朴であると同時に、もっとも高次の視点から世界を捉える学問。その際に哲学が撮るべき視点は、いかなる専門家からでもない、いかなる職業や役割からでもない、ひとりの人間ないし市民からの視点である。

    18世紀までは、哲学は、対話を内容としている著作が多い

    対話的な全体性とは、むしろ個人の差異化を意味する、対話は独立の存在の間でしか成り立たず、異なった考えの間でしか成り立たない

    哲学の根本的な特徴は、批判的態度にある。批判的とは、考え方や行動の根拠を検討するという意味である。

    哲学的な批判の特徴とは、単に根拠を検討するということだけでなく、自分が普段は気づかなぬままに従ってしまっている常識、自分が無自覚に依存している思考の前提、あるいは、検討することなく受け入れてしまっている慣習を、意識的に吟味することにある。自分の足元にある前提には気が付きにくい。だから、哲学的な思考には、他者との対話が必要とされるのである。

    対話は「非知」へと向かわせる行為

    ソクラテスが行ったのは、非知に至ろうとする反教育だという解釈である。「反教育」というと誤解が生じるなら、「脱教育」、あるいは英語で言えば、「アンラーニング」だといってよいだろう。さらに言い換えれば、ソクラテスが対話でおこなったのは、「浄化(カタルシス)」だということでもある

    ソクラテスが、相手と問答を行い、その人の思い込みや間違った考えを指摘しても、最後になって積極的な持説は持ち出されない。→【非知】に放るということに対話の真価がある

    全体から切り離された専門知は、自己目的化して、自己錬磨を継続する。そうしてますます全体を見失っていく

    専門家した知は、全体的なもの、相互に強い関連性を持った状況に対しては役に立たなくなる。対象をそれぞれの分野に断片化して扱い、問題に解を与え、他の部分に新たな問題を生じさせてしまう

    ソクラテスは、学んだものを、脱学習すること、非知へと至らせることを目的としていた

    対話とは、事実や真理や善の共同の探求のこと

    ★★対話では、話していく内容が深まり、それぞれの参加者は、相手との言葉のやりとりにより、自分の考えがかわっていく。話す内容が深まるというのは、ある人の発言について他の人から質問や意見が生まれ、またそれに対して質問や意見が重ねられて、ひとつの発言について多角的な応答が連なる状態。最終的に対話を経て、自分の物の見方や態度、行動までもが変容したときに、その対話は深いものだったといえるし、その変容が広範で根本的なものであればあるほど、対話は真に深かったということになる。この内容の深さが、ときに参加者の人格にあまりに大きすぎる影響を与えることもないとはいえない

    対話による知の協同作業。真理の探究。互いが気づかなかった論点が出され、検討すべきものとしてテーマに取り込まれる。ひとりの意見が複数の視点から吟味されていき、提示すべき主張は疑問や反論に対してうち鍛えられていく。

    ★★ソクラテスの対話の本質とは、問いに解答を見つけたり、問題を解決したりすることではない。対話を続け、問い続けることにある。芸術家が新しい表現を作り出すために、どこまでも表現することをやめないように、哲学者は問いを創造し続けるのである。問いのある生だけが、生きる意味のある生であるかのように

    これまで蓄積された知は非知へと転落し、教育された者は脱教育される。こうして、脱教育化された者は、つねに子どもの状態に留まり続け、自らの無知、いや非知を自覚するのである。

    ★思考とは、どこかの結論に達するための手段でも、知識を生み出すための方法でもない。つねに自分自身を取り壊し、新しくしていく生のあらわれそのもの

    ★★対話では、いまだに答えがどこにあるか分からない問いに相対して、教師とクラスメートは互いに、かならずしもうまくいくかどうかはわからないセオリーや手続きを試してみたり、別の考えを思い浮かべるように示唆したり、別の立場ではどうなるかと問うてみたり、絵や図や式などを黒板に書いてまとめてみたり、身振りをしてみたり、互いに刺激を与えあって、なんとかよい解答を見つけ出そうとする。思考とは、これらのことをあなたがあなた自身に行っている状態のこと

    私たちが何かを考えるのは、習慣的なやり方やその場での調整ではうまく物事の処理ができなくなったときである。思考の起源は、困惑や混乱、疑いである。

    思考力は、批判的思考、創造的思考、ケア的思考の3つの側面がある

    ケアとは、思考が思考する対象への気遣いであるとともに、思考の仕方への気遣い。

    こどもを気遣うと同時に、自分の態度がどのような変化をこどもにもたらすかを気に掛けることがケア

    教師は教えることができない。子供と一緒に問いを探求し、思考が促されるように対話をファシリするだけ

    哲学対話を、問題解決型学習の中に導入すると、ある時点で結論を出すような対話になり、一定の目標に貢献する発言だけがなされるようになる。対話が収束してしまう

    哲学対話ではあえて、持説を検討し合うことを目的としている。ディベートが持説を擁護して相手を説得することに目的があるとすれば、哲学対話で重要とされるのは、相手の話の傾聴、そこで得られた視点や立場から自分自身の考えを検討し、必要とあれば、それを変える姿勢でいること

    哲学とは、自分の前提や習慣、信念をっ自己吟味し、場合によっては自己変更する試みである

    参加者は自己束縛を解いて、自由になる。

    人は自分の意見にしばしば固執している。自分の意見が批判されることは、自分が否定されているかのように感じるかもしれない。

    ★グループでの対話が新しい意味と目的を創発して、個々の自分から自由になることができるならば、その対話は成功したのである。哲学対話には、あらかじめ決められた到着点も方向性もない。重要なのは新しさ


    教育の目的とは、成長そのものである

    対話には、特定の目的地があってはならない。もし対話の目的があるとすれば、新しさを追求すること以外ではない。それは地上に新しい生き物を生み出す共同行為なのである

    諸行為を協調させる核が個人の内側に存在する。そういう仕方で個人は生活の主体である。意識を間主観的なものとしてみることは、こうしたものの見方を放棄することである。その代わりに、多声的な自己を記述する

    私は自己のうちに複数の自己を養っているからこそ、他者の中の複数の他者と響き合い、共感し、反発しあうことができる

    患者自身を含む医師と家族のミーティングの場では、患者の抱える問題は、患者だけに帰属される症状としてではなく、家族を交えた周囲の人々から多声的に意味付けがなされていく

    ★★わたしたちが発話するときには、自己の内部にあって、完結しない何ものかが、まるで自分の居場所を他者の中に見つけに行くように飛び出していく。内的なる発話である思いや考えは、結局は自足することができず、他者に向けられ放たれ、対話を求めていく。私は自分の内なる声が他者の口から出ることを期待する。いかなる内的経験も他者との境界に顔を出して、他者と出会う。ここにこそ、内的経験の真の本質が存在する
    →作品だすときもそうだな。作品は、その意味で、未明の他者に捧げられた発話行為だということかな。

    ★対話において実現され、対話において実感されるべきことは、他者を制御できるという幻想を離れて、不確実性と曖昧さ、多義性に耐えて互いに生きていくこと。それは自分の発話すらも、完全に専有化できないことを学ぶことである

    対話の第二の効果は、新しさの発現。新しさとは、それまでの自分の経験が新しい枠組みに置かれることで、これまでの経験の意味付けから自由になり、新しい自己が生み出されること。グループでの対話が新しい意味を創発し、グループとして新しい段階になっていく。

    ★★このように対話は、他者との関係性をつなげるともに、それを新しい関係性へと超出していく。それは共同体を作りながら、新しい自己を生み出していく。対話とは、複数の主語が共同して同じ目的語をとる動詞。それによる、「私たち」は、全体として新しい意味に満ちた世界を招聘できる。逆に言えば、対話なき集団は、自らを変容させ、更新することができない。対話により獲得される自己とは、自己同一的な意識ではなく、更新する自己である

    身体的な表現者としての参加者は、問いの探求という円の中心点において、互いに直接に結びつく

    思考とは、話し、見まわし、立ち止まり、探し、急に回転し、振り返り、後戻りし、寄り道し、話しあうこと

    何かの創造的な作品をつくっていて凝り固まると、気分の良い景色のなかを歩き続け、ジョギングし、アイデアが浮かんでくる

    哲学ウォークとは、場所との邂逅を経験するための散歩

    散歩はなんであるかわからないものとの出会いを求めて歩く、自分が求めているものがわからず、何に出会うかもわからないが、出会ったときにはそれを必然と感じるような何かを探して歩いている。そのさがしものは、微かな徴だけを頼りに草深いトレイルを歩いて見出すのだ

    対話的合理性の文脈でいえば、合理的な人間は、まだ自分には対話していない人、話を聞いていない人がたくさんいて、対話は終了していないと考える人間である

    共感と愛は人を結び付け、包摂しようとする、しかし人は個として、対話により合意が生まれても、その共通の価値や認識に還元されない差異にこそ、個人の個性が表れる

    笑う人は、状況に飲み込まれておらず、どこかで余裕がある

    絶対的滑稽とは、真の笑いであり、無意味な笑う、世界全体から距離をとれるという認識者の優位性。それは人間性が内包する矛盾や不合理を、そのまま肯定する態度。

    ユーモアとは、他者にも、自己にも等しく距離をとり、その弱さや愚かさ、みずめさを笑い、それでもそうした人間の業とか性とかをまるごと受け止め、肯定しようとする。ユーモアは共感性と自己反省性に基づいた笑い。

    真理を探究する共同体にだれをも導き入れ、互いが声を傾聴し、自分を変える準備をしながら、対話をおこなうこと

    民主主義とは、真理の探究の共同体である

    何も共有しない人間の間で人と人とを結びつけ、あらゆる包括できる何かが存在するだろうか。それは唯一真理の探究である。人間は真理を探究する過程を共有することによって結びつく
    →個が個になる、なり続けるという態度だけが、真に文友可能だということ。真理に臨む態度のみが分有可能であり、共同体を基礎づける

    真理探究の過程が、現代社会に生きる私たちを結びつけることのできる唯一の絆

    哲学者とは根源的にコミュケーションのファシリテーターである

  • ”真理の探究”が出てきたときにはしびれた。
    外交問題で”対話による解決”という言葉が良く出てくるが、今後は”対話”の部分を重く感じながら聞くことになるだろう。

  • 対話と会話・議論の違い、そして、対話と思考の違い。様々な違いを並べて行き着く先にある、対話という活動だけが持つ可能性を論じ上げる。
    特に前半がしびれる面白さ。

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著者プロフィール

立教大学文学部教授。NPO法人 アーダコーダ副理事。
専門は、心の哲学・現象学・倫理学・応用倫理学。社会が内包する問題に哲学的見地から切り込む。
著書に『メルロ=ポンティの意味論』(2000年)、『道徳を問いなおす』(2011年)、『境界の現象学』(2014年)こども哲学についての著者に、『「こども哲学」で対話力と思考力を育てる』河出書房新社、『じぶんで考えじぶんで話せるこどもを育てる哲学レッスン』 河出書房新社、『問う方法・考える方法 「探究型の学習」のために』ちくまプリマー新書、『対話ではじめるこどもの哲学 道徳ってなに?』全4巻 童心社、共著『子どもの哲学 考えることをはじめた君へ』 毎日新聞出版など多数。

「2023年 『こどもたちが考え、話し合うための絵本ガイドブック』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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