〈私〉だけの神――平和と暴力のはざまにある宗教

  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (338ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000257763

作品紹介・あらすじ

近代化は、世界を脱魔術化し合理化する普遍的な過程だったのか。宗教への原理主義的な回帰現象は、その本質的必然なのか。リスク化する世界のなかで、グローバル・アクターとしての宗教の可能性を問う。

感想・レビュー・書評

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  • 宗教は、仏教にしても神道にしてもキリスト教にしても、「それは所詮宗教でありフィクションだ」と、一歩引いた視点から見られており、本気で信じる対象ではなくなっている。このような所謂古典的宗教は「枯れた宗教」となってしまっており、人々が信じているのは、例えば「リベラリズム」であったり、「科学万能主義」、「資本主義」、「エコロジー」、「スピリチュアル」などという、狭義の宗教ではない宗教なのではないだろうか。これらは現代的「宗教」と言って差し支えないのだろうか、または「宗教」として相対化された途端、それらは信じる対象ではなくなり、逆に「宗教」と言えなくなってしまうというパラドックスを孕んでいるのではないだろうか。などという疑問を最近抱いていたのだが、本書の中で論じられる「個人化された宗教」はその疑問にも一部答えて、視座を与えてくれる。

  • グローバルアクターとしての宗教が
    どのような変容をしていくかについての展望と期待が描かれている。

    宗教は宗教だけで成り立つわけではなく、
    社会的な基盤との関わりの中で信仰の表れは変わってくる。

    近代化の中で宗教は世俗化の傾向を見せているようではあるが
    一向に宗教の話は消えそうもない。
    それは近代化が十分に進んでいないからではなくて、
    近代化がもたらす個人主義が
    個人の信条の拠り所としての宗教の価値を再提示しているからだ。

    これは「再帰的近代化」という著者のアイデアの一つで
    近代化という過程が「近代化」そのものに影響を与えているという見方を示している。
    (より一般的に「進行過程の再帰性」という発想は
    社会関係による創発を重視する社会学的な発想で、何かの変動の観察の中で重要なものだろう)

    もう一つの著者の大きなアイデアは「コスモポリタン的寛容」で、
    他者の信仰を受け入れる宗教の自由との兼ね合いと、
    個人を赦す宗教自身のあり方との重なり合いを含めたジレンマがここに現れる。

    著者はここにおいて「真理のかわりに平和を」と言うけれど
    これはもはや検証や推測でもなく、希望である。
    ただし、「宗教」が今後生き延びるためにはそのように振舞う他はないだろう。


    >>
    「自分自身の神」のどこに「独自性」があるのか。第一に挙げられるのは、個人が伝統的教会への結びつきとその権威から解放されている点だ。ルターが求めたように、個人は「母」なる教会の保護から離れなければならない。個人とその神の間をとり持つ、保護者としての代理人はもういない。「伝統はほとんど存在しないか無に等しい。「啓示された言葉」の直接性ないしは神の直接性がすべてだ」。(p.158)
    <<

    個人個人が原典となる文章との関係を築く、教会の相対的な地位低下。
    ここから世俗化とコスモポリタン化が同時に進んでいく。

    ところで、教会とは神と宗徒のインタラクションであり、宗徒相互のインタラクションであると思えば
    インターネットの相互性と同時性の高まりは別の教会を建設しているかもしれない。

    >>
    ウェストファリアの平和は各宗派が内発的な平和への意志に基づいて相互承認を受諾、決意した結果として実現したものではなかった。むしろ政治権力の方が、宗派と一緒になって紛争を武力解決することに疲弊したのだ。(p.235)
    <<

    著者自身はこれに触れた上で、世界政府がないので
    これはどうやって再現できるのだというけれど、ウェストファリアの時にもなかったのだから
    この形の方が平和の実現としてはあり得そうなところだ。
    ただし、これは犠牲を払っており、手遅れと言えばそうなのだが。

  • 帯にある通り、脱魔術化・合理化を図るとされる近代化の
    有り様や、テロなどに代表される原理主義的な宗教の回帰
    現象、そしてグローバル化し、リスク化する世界における
    宗教の可能性を説く。響くところ多かったのは確かで、
    非常に良い読書だったと思うのだが、なぜだか感想を
    上手くまとめるのが難しい。それほど手に負えない大きな
    テーマということか、あるいはこちらに消化するだけの
    準備が足りなかったということか。

    エティ・ヒレスムの日記は読んでみたい。

  • 社会学的な懐疑主義につきまとう非宗教性・反宗教性を乗り越えようと試みた労作。上記テキストの「宗教的」とは神秘的と同義であり、非科学的と言い換えてもよいだろう。ウルリッヒ・ベックは宗教社会学の空白を埋めようと意気込んでいるわけだが、出発点からして方向を誤ったように見える。相対主義的観点からは新しい統合的な発想は生まれにくい。宗教と科学を相対的に捉え、聖俗を分けて考え、学問や科学を高みに置く考え方そのものを疑うべきだろう。
    http://sessendo.blogspot.jp/2014/03/blog-post_31.html

  • ドイツの社会学者であり、リスク論を展開するベックが、ポストモダン社会における、コスモポリタン化した宗教について述べる。

    「社会哲学」の授業で、私は「宗教と公共性」を扱う際にこのテクストを取り上げた。

    ナチに殺害されたユダヤ人、エティ・ヒレスムの、「<私>だけの神」から、他者へと開かれていく公共性について端を発し、寛容と暴力の間にある宗教の問題について述べる。
    「信じる者」と「信じない者」、異教や不信仰者における非寛容性。
    組織や制度としての「宗教」から、個人の自由の依って立つ「宗教性」へ。
    異端か、「自分自身の神の発明」か、神の「個人化」か「私人化」なのか。
    また、近年における、新しい新宗教運動と、伝統的宗教の相互関係について。
    真理と平和、寛容と暴力のはざまにある宗教を社会学者の視点から論じる。

    宗教やスピリチュアルにおける暴力は、オウム事件のみでなく、何も今始まったことでもないし、匿名のインターネット、mixi上のことのみではなく、中世時代から異端審問などあったのである。

    キリスト教は、樹立当時からグローバルであったが、また、歴史の中で「非信仰者」「異端者」に対して非寛容や暴力という手段を用いてきた。

    エティの「自分自身の神」の在り方が、ポストモダン社会における、コスモポリタニズムのモデルとなれるように願いたいものだ。

  • 宗教間対立の解消への提言とされるウルリッヒ・ベック『〈私〉だけの神』(岩波書店)読了。世界宗教の文明化(宗教を集団より個人の営みに重点移動、宗教的真理でなく平和と寛容を重視すべき云々)を説く。圧倒的に正しい。しかしなんだこの違和感は。恐らく模範解答すぎる点にがっかり感が強いのか。

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著者プロフィール

1944~2015年。元ミュンヘン大学教授

「2022年 『個人化の社会学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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