誰のための排除アート? 不寛容と自己責任論 (岩波ブックレット 1064)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (64ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784002710648

作品紹介・あらすじ

寝そべれないベンチ、禁則事項だらけの公園…。建築物が本来の目的外に使用されないようにする、「排除アート」。これらは公共空間が特定層に対して臨む、厳しい態度の表れである。なぜ排除アートは設置されたのか。果たしてアートと呼べるのか。その歴史・背景をひもとき、日本の公共空間づくりの問題点を浮き彫りにする。

感想・レビュー・書評

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  • 「“排除アート”?をたどって」 - ドキュメント20min. - NHK
    https://www.nhk.jp/p/ts/YN5YRJ9KP6/episode/te/1Y3Z1841R9/

    誰のための排除アート? - 岩波書店
    https://www.iwanami.co.jp/book/b606516.html

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      第304回:排除の国で……(鈴木耕) | マガジン9
      https://maga9.jp/240403-2/
      第304回:排除の国で……(鈴木耕) | マガジン9
      https://maga9.jp/240403-2/
      2024/04/03
  • 公園やバス停のベンチ、公共空間をよく観察すると何かの使用を禁止、または排除する意図が隠されている事が分かる。路上生活者の寝そべりを排除する突起付きのベンチ、ダンボールハウスを排除するために空間を占有するアート。誰かを排除する事はつまり私たちも不便を被る。

  • 「誰にとっても不寛容な社会」

    排除アート。
    それは特定の立場の人間を排除することを目的に造られたアート(もどき)である。
    筆者は自己責任論が蔓延するこの日本社会の不寛容さについて、この排除アートなるものを元手に追及している。

    排除アート。はて、何のことやら。
    その実態は何と私たちの身近にあるものだった。
    彼らはベンチやアートの体を成し、実に巧妙に弱者を排斥することを念頭に置かれた建築物だったのだ。

    例えば近所の公園のベンチ。
    巷ではひじ掛けが後付けされたものが散見される。
    当方てっきり座れる人数を増やすための配慮だと受け取っていたが、本著を読む限りその可能性は著しく低いらしい。
    そう。あえてひじ掛けを付けることで寝そべるという行為を拒否しているのだ。
    権力の側の人間からすればそれはホームレス排除に繋がり、街の景観の改善や治安維持に繋がるという。

    はたして、そんなことがあっていいのか。
    ホームレスをその場からは排除したところで、また違う場所で彼らは暮らさざるを得ない。問題なのはホームレスが生まれる社会状況、経済の在り方ではないか。
    それによそ見をし、ホームレスなのはお前の責任だ、だからおれの目の付く場所でうろつくなと言わんばかりに権力を行使する。
    ましてやそれに神聖なアートが利用されているのだ。
    そしてこれは社会的弱者、そしてアーティストを巻き込んだ問題にとどまらない。
    今は住む家があっても、何かの調子に社会的弱者になる可能性のあるすべての人間にとっての問題。
    つまり、私たち全員にとっての問題なのだ。

    都市空間が差別と偏見、監視と抑圧にまみれた、まるでジョージ・オーウェル『一九八四年』の世界観へと人々が隷属してしまって、果たして良いのか。
    私は危機感を覚える。


    さて、
    最後にタイトルにもある、誰のため?

    本著は文量が少ないながらそれ考えるための一助になると同時に、都市空間に対する新しい知見を与えてくれるだろう。

  • 見たくないものを見ないために使われる税金って空虚やな。政治って福祉とか人の生活のためにあるんちゃうかったっけ。自己責任っていう考えがはびこりすぎてしんどいよ。

  • 2022.6.9読了
     手すり状の仕切りのついたベンチをよく見かけるようになった。「ちょっと寝転んで仮眠を」と思っても、手すりが邪魔で寝そべれない。このようなベンチのことを筆者は「排除ベンチ」と定義する。早い話がホームレス対策で、90年代後半から徐々に増えてきたそうだ。確かにひと昔前はホームレスをよく見かけたものだが、最近はほとんど目にすることはなくなった。しかし、これはホームレスの実数が劇的に減ったからではなく、公共空間から排除された結果にすぎない。
     本来、広場や公園といった公共空間は、無目的な滞在も許されるはずだが、最近ではそもそもベンチが置かれていない公園も見かけるようになった。ベンチがないということは、高齢者や妊婦、体の調子が悪い人といった人々も潜在的に排除していることになる。それどころか、10代、20代にしか聞こえない不快な高周波音を出す商品が販売されていて、夜間の若者のたむろ対策に利用されているらしい。
     誰のものでもなくなった都市空間はもはやパブリックスペースとは呼ばれない。街は一体誰のためにあるのだろうか。
     吉田修一の小説で『パーク・ライフ』という作品があったが、日比谷公園も現在はよほど様変わりしていることだろう。

  • 排除アートは日本人の生き様なんだな。

  • 街中で見られる真ん中に余計な仕切りのあるベンチ、座りにくいベンチ、地面に並べられた突起物。排除を目的としたそれらを事例を挙げながら論証する。
    想像力の欠如は思考停止を促し、誰もが不幸せになる社会を作るのだろう。

  • 読んでてずっとイライラした。もちろん国に。「敵は外からやってくるのではない。代わりに、まわりにいる人が犯罪をするかもしれないという恐れから、一般市民の自己防衛のための排除が求められる。」←前文に"見えない戦争"とあるようにこの傾向は強まっていくんだろうな。

    排除を目的とした建築物か否かを見分けるには署名プレートを探せばいい、という話になるほどと思う。排除アートは作者が責任をとらない「アート」だからって。

    全ての人間が尊厳を保つことのできる社会で生きたい。

  • ●=引用

    ●言うまでもなく、本来、ベンチは座るためにデザインされたプロダクトである。だが、通常は複数人で座ることも想定し、細長くなっていることによって、その上部で寝そべることも可能だ。これは本来、意図されていなかった用途かもしれない。だが、行き場を失ったホームレスにとっては、冷たい地面の上で寝ないですむ台として活用できる。そこで座るという役割だけを残して、寝そべることを不可能にしたのが、仕切り付きのベンチなのだ。増え始めた頃のベンチをよく観察すると、仕切りは明らかに後から付加されたものが多く、行政や管理者の公共空間に対する考え方の変化が可視化されていた。すなわち、誰もが自由に使えるはずの公共空間が、特定の層に対しては厳しい態度でのぞみ、排除をいとわないものに変容している。おそらく、通常の生活をしている人は、仕切りがついたことを深く考えなければ、その意図は意識されないだろう。言葉で「~禁止」と、はっきり書いていないからだ。しかし、排除される側にとって、そのメッセージは明快である。つまり、排除ベンチは、言語を介在しない、かたちのデザインによるコミュニケーションを行う。(略)排除ベンチは「進化」し、やがて仕切りをあらかじめ備えたプロダクトが登場するようになった。
    ●ベンチはベンチである以上、座るという機能は残る。ベンチはアートではなく、デザインされたプロダクトだからだ。したがって、人間にとって座りやすいかたちを追求するのもデザインだが、一方でホームレスに対し、いかに寝づらいものにするか、居心地を悪くするかを造形化するのもデザインなのである。だが、これをさらに「進化」させると排除アートになるのだろう。
    ●筆者は、排除アートは個人の表現としての芸術ではなく、目的を持つデザインだと思うが、「アート」と呼ぶことが定着したのは、日本におけるアートの受容と関係があるかもしれない。なんだかよくわからない、不思議なかたちをしたものを、とりあえず「アート」と呼ぶという風潮だ。例えば、2020年にオープンした渋谷のミヤシタパークには、通路に不定形のフォルムをもったベンチ、仕切りはないが、途中に二つのリブが入るメッシュ状のベンチなどが存在するが、いずれも長居したくない、あるいは寝そべることが難しいデザインである。しかし、これらを紹介していたネットのレポートなどを読むと、「アートがたくさん!」という風に、一般的には見た目が楽しいオブジェ的なベンチとして受容されているようだ。排除ベンチが、アートという美名のもとにカモフラージュされている。
    ●注意すべきは、現代社会において排除されるのが、ホームレスだけではないということだ。例えば、隣接する公園の子どもの声がうるさいという苦情を受けて、ブランコやジャングルジムなどの遊具を撤去する事態も、すでに発生している。(略)保育園や幼稚園も、運動会や音楽の音に対し、近隣住民が自治体に苦情を寄せるため、解説計画が延期や断念に追い込まれるケースがあるという。(略)住民の苦情によって、若者も公園から排除されている。多くの大人には聞こえないが、10代、20代だけが聞こえる不快な高周波音、すなわち「キーン」というモスキート音を発生する機器の導入によって夜間の防犯に効果をあげているという。(略)都市を独自の身体感覚で読み変えるスケーターも、迷惑な存在とされている。(略)スケーターは「モダニストの計画が取り残された空間」に注目し、自らの行為を物体に刻み込む。例えば、機能的に設計された手すりの上をすべることによって、「突発する意味の爆発」が起きる。そして建物に引っかき傷、こすり傷、ボード・ペイントなどの痕跡を残す。→深夜の公園にたむろす若者、公共施設を破損するスケーター。特に後者は、公金、納税によって設置・管理されている物を、意図的に破壊する者から保護すること目的なのだから、排除されるホームレスと同列にあつかうことは違和感を覚える。
    ●2009年に渋谷区が老朽化した宮下公園を、ネーミングライツ契約によって、ナイキパーク化する再開発がもちあがったとき、反対運動が起きたことだろう。ここも1990年代頃からホームレスが集まり、小屋がつくられるようになっていた。だが、十分な説明がないまま、計画が進行し、改修費用を負担することによって、公共の場が大企業のものとなり、ホームレスが排除された。その後、同じ場所は本格的に商業施設と一体化した立体的な「公園」、すなわちミヤシタパークになっている。確かに税金を節約して人が賑わう場所が誕生した。しかし、誰にでも開かれているわけではない。あくまでも、お金を払って楽しめる人たちのものである。
    ●しかし、実際に日本の都市で進行しているのは、真逆の事態ではないか。目につくのは、商業化されたSDGsだ。「我々は貧困を終わらせることに成功する最初の世代になり得る」という宣言に向かうどころか、コロナ禍において格差はさらに増大し、排除ベンチや排除アートは貧困から目をそむけることに貢献している。そしてバリアフルな社会を目指しているかのようだ。
    ●排除アートは、われわれが使えるはずだった場所を奪う。本来、広場や公園などの公共空間は、有料で入場するテーマパークと違い、未定義の部分があり、様々な可能性に開かれている。それをあらかじめつぶすのが、排除アートなのだ。
    ●他者を排除していくと、誰にもやさしくない都市になる。われわれはすでに気がつかないうちに、そうした環境に順応させられているかもしれない。
    ●筆者が『美術手帖』に寄稿した論考に触発されたという小寺創太の「調教都市」展 (Token Art Center、二〇二二年)も興味深い。都市に存在するいくつかの排除アートを彫刻の台座に見立て、拘束器具を身につけた作家が横たわることで、あえて「アート」として完成させるアイロニカルな作品群だった(本書で紹介した渋谷や新宿の排除アートも含む)。しかも会期中はギャラリーの一階に再現した排除アートを舞台に、ずっと作家がパフォーマンスをしている。すなわち、排除アートを直球で批判するのではなく、むしろそれによって肉体に苦痛を与えられる状況を可視化したものだ。いや、逆説的にアーティストは快感を得ているかもしれないことによって、身体を躾けようとする倒錯した都市環境を提示する。が、それこそがわれわれが知らないうちに享受している、いびつな現代日本の公共空間だ。なお、会期の当初は、道路からパフォーマンスを見える状態にしていたら、警察に通報され、シャッターを閉めて開催することになったらしい。現場での写真撮影時にも、警察から質問を受ける事態が起きたという。
    排除アートから考えるべき課題は、住みやすい街とは何か、という根源的な問いでもある。

  • どこかで紹介されていた排除アートの本。他人に不寛容な日本人という表現に納得。自分を含め、排除すればいいという感情と、そうなってしまった現代社会について問題提起された感じ。今年出た同著者の本も読みたい。

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著者プロフィール

1967年パリ生まれ。東北大学大学院工学研究科教授。博士(工学)。建築史・建築批評。1992年東京大学大学院修了。ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展2008日本館コミッショナー、あいちトリエンナーレ2013芸術監督。
主な著作に『過防備都市』(中公新書ラクレ、2004年)、『建築の東京』(みすず書房、2020年)、『様式とかたちから建築を考える』(菅野裕子との共著、平凡社、2022年)がある。

「2022年 『増補版 戦争と建築』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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