- Amazon.co.jp ・本 (460ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003102329
作品紹介・あらすじ
新しい思想を持ち、人間主義の教育によって不合理な社会を変えて行こうとする被差別部落出身の小学校教師瀬川丑松は、ついに父の戒めを破って自らの出自を告白する。丑松の烈しい苦悩を通して、藤村は四民平等は名目だけの明治文明に鋭く迫る。
感想・レビュー・書評
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穢多の存在は知っていたが、差別の中身については初めて知った。穢多であると告白するかしないか、それは自分とは何者なのかを告白することである。主人公がぐるぐる考え続ける薄暗い作品だった。
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破戒
(和書)2009年02月12日 21:00
2002 岩波書店 島崎 藤村
以前から読もうと思っていて、でもなんだか怖く難解な本ではないかと思いながらなかなか読まずにいました。思っていたより読み易く内容的にも怖い話ではなかった。
「たとえいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅おうと決してそれとは自白けるな、一旦の憤怒悲哀にこの戒め忘れたら、その時こそ社会から捨てられたものと思え。」
この戒めを破ることを「破戒」といっている。主人公、丑松が破戒を決意し実践する場面では読んでいて目に涙を浮かべてしまいました。
ただ文学としてそれが思想・世界思想・文学として成立するには宗教の批判(マルクス)というものが必要になると思うのでこの階級闘争には普遍性があるのだろうと思う。大西巨人の作品にもこれらを扱った作品があったしこの作品に触れたものもあったと記憶している。なかなか読まずにいたので読み終わってすっきりしました。 -
穢多の差別をテーマにしているわりに、「信州の女は皆気丈だ」みたいな文章を平気で書く。ポジティブなバイアスは問題視されない時代
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実は読んだことがなかった作品。
主人公が先輩と仰ぐ人が高柳に対していう言葉に「あれ?」と思い「なんでテキサスに行くわけ!?」と思ったのだが、解説によるとなるほどそこが本作品の弱点であるのだと。
とはいえ、「真に近代日本文学史上最高の記念碑」、その通りだと思う。 -
なんという苦悩だろうか。自分では選べない出自によって、人並みの生活が送れないほどの差別を必然的に受けることになるとは。
主人公は瀬川丑松、24歳、信州で小学校教師をしています。父親から「隠せ」と厳しく戒められてきたとおり、自分が被差別部落出身の穢多であることをひた隠しにしています。
入院していた病院で穢多であることが広まり追い出され、戻された下宿でも「不浄だ」と罵られ追い出される富豪の大日向や、「我は穢多なり」の一文で始まる『懺悔録』を書いた著述家猪子蓮太郎といった人々を目の当たりにし、丑松は〈同じ人間でありながら、自分らばかりそんなに軽蔑される道理がない、という烈しい意気込を持〉ちつつも、友人知人、恋心を抱く相手や、慕ってくる生徒たちのことを思うと、自分が穢多であるとは言えず、苦しみは増すばかり。
信州の長く厳しい冬の描写が、丑松の不安に同調し、読んでいる者の心も鬱々とさせます。しかし、ある出来事をきっかけに丑松が目覚めてからは、なんとまあハッキリしっかりくっきり、冬の朝日のまぶしいこと。
ラストは、そう来ましたか藤村さん、という感じ。瀬川丑松の再スタートとして、新たな人生への旅立ちとして、素晴らしいラストだと思います。ただ個人的には、こうなって欲しかったな、こうなったところを見てみたかったな、という思いもあります。ま、想像と違っていたというか、想像を超えたラストだった、と書いておきましょう。
全体的に文章のリズムが良くて、声に出して読みたくなりました。
読書力養成読書、12冊目。
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世間が作り上げた軛があまりにも大きすぎて、自らもそれを打ち破れない。
自分を認めるというそのことですら、自分の価値を認めるという意味とは全く違う。
そして、その軛に苦しむ彼らですら、「女は」とまた別の差別を当然のように行う。
それが当時の世間が作り上げた「普通」で、それから外れることは難しく、また考えもつかない事であった。
今を生きる私たちは、それが軛であることも、普通ではないことも知っている。
知っているが、ではその軛から完全に開放されたのかと言えばそうではない。
昔話だと笑える時代にはなっていない。
いつかこの小説が、時代背景の解説なしに読めないような時代が来るのであろうか。 -
英語でniggerという言葉を読んでも、その言葉の持つインパクトは伝わってこないが、日本語では普通使われることない差別的な蔑称が堂々と出てくると、さすがにたじろいでしまう。アメリカ人がトムソーヤーとかハックルベリーフィンとか読むときに感じる、その中で使われている用語に対する抵抗感というのは、こんな感じなのかもしれない。
日本の自然主義文学の先陣を切った作品として、この作品が日本文学史に占める位置は高く、誰でもその名前は知っている。
知っているけれども、テーマが重たいので、これまで敬遠してきた。
読んでみると、それほど難しい話ではなく、最初は単語にとまどうけれども、そんなに抵抗感なくすらすら読める。
タイトルが戒めを破るという意味であるというのも、読んでみて初めて知った(なんとなく破壊だと思っていたた)。
ただし、その限界は明確である。
被差別部落出身の主人公を描く作家の姿勢は、差別がおかしいという批判はしていても中途半端で、しかたがないのだと半分以上肯定しているようにしかとれない。だからこそ最後の教室のシーンで、丑松が生徒に跪いて詫びるのだが、いくらなんでもあんまりだ。水平社宣言が出るのが1922年、それからわずか15年しか経ておらず、時代的な思想上の制約はあるとしても、その感覚は批判を免れない。
島崎藤村は才能あふれる文学者であることは間違いないが、こうした題材をとりあげて、あえてこのような展開にしてしまうというのは、どこか欠落を感じさせる。われわれは作家に道徳家を求めているわけではなく、トルストイやドストエフスキーといった人々も別に人格者でもなんでもなく、個人生活ではかなり悪辣なところもあったはずだが、こと作品世界においては、人間の尊厳に対する感覚は信頼できる。そこのところが少し、いやずいぶん違うと思う。