- Amazon.co.jp ・本 (151ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003106228
作品紹介・あらすじ
著者「君あしたに去りぬ。ゆうべの心ちぢに何ぞ遥かなる…」の詩を引用し、作者の名をかくしてこれを明治の新体詩人の作といっても人は決して怪しまないだろう、と本書の冒頭で述べている。蕪村をいち早く認めたのは子規だが、郷愁の詩人として、蕪村の中にみずみずしい浪漫性を見出したのが朔太郎(1886〜1942)であり、その評価は今もゆるぎない。
感想・レビュー・書評
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芭蕉が調べとして音韻を使うのに対して蕪村はイメージ印象を現すための音調
古今新古今は音楽第一主義
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萩原朔太郎による与謝蕪村論。蕪村の作品を新体詩に比するものとして位置付けている。彼の蕪村評価がどの程度正確なのかを評価する知見は私には全くないのだけれど、朔太郎の「創造的誤解」という観点から論じた解説は、腑に落ちるものだった。
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以下引用
俳壇のいわゆる俳人たちは、彼らの宗匠的主観に偏して常に俳句を形態上のレトリックのみ皮相な手法的技巧観で鑑賞する
単にこれを形態上のレトリックでのみ、皮相に解釈している
春の暮れ家路に遠き人ばかり
花に寝て我家遠き野道かな
春の夜や盥を捨つる町はずれ
春雨や小磯の小貝濡るほど
春水や四条五条の橋の下
春の海終日のたりのたりかな
橋無くて日暮れんとする春の水
★陽炎や名も知らぬ虫の白き飛ぶ
★鶯の鳴くやちいさき口開けて
★行く春や白き花見ゆ垣の隙
菜の花や月は東に日は西に
菜の花や昼ひとしきり海の音
行く春や逡巡として遅桜
人間に鶯鳴くや山桜
★★畠うつや鳥さえ啼ぬ山影に
★鶯の声遠き日も暮れにけり
★★閣に座して遠き蛙をきく夜哉
★古寺やほうとく捨てる芹の中
★骨拾ふ人に親しき菫かな
梅遠近南すべく北すべく
★★愁ひつつ丘に登れば花茨
★広庭の牡丹や天の一方に
★夕立や草葉を掴む群雀
★門を出て故人に逢ひぬ秋の暮
★門を出れば我れも行人秋の暮
冬近し時雨の雲も此処よりぞ
小鳥来る音うれしさよ板庇
★うら枯やからきめ見つる漆の樹
柳散り清水かれ石ところところ
★冬ざれや北の家陰の韮を刈る
★冬ざれや小鳥のあさる韮畠
★葱買て枯木の中を帰りけり
蕭条として石に日の入る枯野哉
★寒月や鋸岩のあからさま
★木枯らしや鐘に小石を吹きあてる
★蒲公英の忘れ花あり路の霜
この村の人は猿なり冬木立
秋近き心の寄や四畳半
★秋ふかき隣は何をする人ぞ
★秋さびし手毎にむけや瓜茄子
★塚も動け我が泣く声は秋の風
★★笠島はいづこ五月の泥濘道
★枯枝に鴉の止りけり秋の暮
何にこの師走の市へ行く鴉
★日の道や葵かたむく五月雨
山吹や笠に挿すべき枝の形
★大風の朝も赤し唐辛子 -
朔太郎は昔よりニュートラルに評価できると書いてるが、今はさらにニュートラル(子規の影響がない)。その立場から読むと当たり前のことが書いてある感じ。むしろ朔太郎に誤読があったりする。
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読むのを中断する。
やはり、解説を読むのはいかんな。
つまらない。
萩原朔太郎と言えども。
本人のものに直接、あたらないと。 -
おのが身の闇より吠えて夜半の月
与謝蕪村
萩原朔太郎という詩人が、
与謝蕪村という詩人について理論的にまとめています
わたしは彼の孤独がすき