無関心な人びと 上 (岩波文庫 赤 713-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (316ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003271315

作品紹介・あらすじ

20世紀を代表する作家モラーヴィアの処女作。主人公の青年ミケーレは、自分をとりまく現実と自分とのずれを意識している。が、あらゆる行為に情熱が持てず、周囲に対して徹底した無関心におちこんでゆく。ローマの中産階級の退廃と、苦悩する若者を描いたこの作品は、当時のファッショ政権から発禁処分をうけた。

感想・レビュー・書評

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  • イタリアの作家モラーヴィア(1907-1990)の処女小説、1929年の作。

    作中を一貫して流れる倦怠の腫れぼったいような重苦しさ。ミケーレの倦怠は、無関心は、どこから来るのだろう。有産階級の爛れた頽廃、そこにあるのはただ二つ。実も蓋も無い即物的な慾望(金銭慾、肉慾、虚栄心・・・)と、その剥き出しの俗物性の外面を取り繕いながら同時に当の慾望を充足させるべく費やされる膨大な欺瞞の分厚い堆積(虚偽、虚飾、手練手管、駆け引き、騙し合い・・・)。ただこの二つで以て、生活と社会関係の全てが塗り込められてしまっている。そこには、それ自体として意味を持ち得る自律的な内実が、一切欠けている。内実の重みが無い。即物的な欲望との関係に於いてのみその意味を獲得し得る、即物的な目的合理性に奉仕する手段としてのみその価値を獲得し得る、相対的で空虚な駄弁と身振りの喧騒しか無い。

    自己の慾望の渇きを満たすべく他者を瞞着しようと、俗物どもは仮面を被る。しかしここで仮面と云ってしまえば、恰もその仮面によって隠蔽されている大仰な内面があることを前提としているかのようではないか。しかしその仮面の下に在るのは、ただただ即物的な欲望だけ、それは内面と呼ぶに値する代物ではない。内面というものは無い、仮面の下に在るのはただ虚無のみだ。何も無いところに仮面を被って、さもそこに内面があるかのような振りをするだけ、さもそこに誠実があるかのような振りをするだけ。もはや隠すべき内面をもたずに仮面だけをつけた無数の虚無が、内面の誠実から切り離されて、自動機械のように蠢き交渉し合う――これはまさに現代云うところのコミュニケーションなるものの実相ではないか。

    よって、もしここに内省的な人間がいたならば、その内省する内面が外部世界と関係を築き得る余地は無い。他者との関係を築く上で、内面が存在する意味がないから。しかし内面は自省する、自分はこの世界で何者であるのか、と。自らをも対象として反省するのが内面というものである。しかしこの生活に、内面の誠実に共鳴する余地は無い。即物的な欲望とそれを包装する欺瞞だけで塗り込められたこの生活の一体何処に、自己の内面を吊り支える理念がその存在を許されよう、自己の誠実を託すことができる信念を見つけられよう。内省する内面にとって、この世界は、そこにいる他者は、関心を寄せることができない物体に等しい。内面にとってこの世界が無であるように、世界にとってもこの内面は無である。この状況下で自分の生活を切り拓いていく「強さ」が、この主人公には無い。ここにミケーレの無関心と孤独が、空転するしかない自己反省の無限遂行が、発する。

    この弱くて透明な精神の行き着く先は何処だろうか。虚無に窒息して自殺するか発狂するか。自己欺瞞によって卑小な生活に自らを抹消していくか。苦悩に居直り、虚偽を自覚した上で誠実の振りを遂行する偽善者になり果てるか。或いは・・・。

    内面を世界に根付かせることができずに行き場も無く浮遊し、ついにこの世界の中で何者かとして場所を占めることができない、自己の存在証明が世界によって裏打ちされない、そんな不定態の実存の苦悩を描いた傑作。

    □長い引用

    その日も、雑踏のなかを歩きながら、足もとの歩道に無数の足が往き交い、ぬかるみの泥を跳ねとばして行くのを、見るともなく見ていると、突然、自分の行為の空しさに襲われた。《この夥しい人波は、みな、どこへ行くのだろう? 何をしたいのだろう? はっきりとした目的を持っているのだろうか? もちろん、だからこそ、申し合わせたように急いでいるのだ、気を揉んでいるのだ。悲しそうなのもいれば、嬉しそうなのもいる。とにかく、みなが生き生きしている、ところが、ぼくは……ぼくは、それに引き換え……何の目的も持っていない……歩いていなければすわっている……ただそれだけのことだ。どちらにしても、ぼくにとっては同じように無意味なのだ》彼は地面から目を離さなかった。目の前の泥を踏みつけて行く無数の足、それらの足には、たしかに、一種の安堵が、また自信が感じられる。それが、彼にはないのだ。じっと目を凝らしていると、おのれに対する嫌悪が、胸もとに込み上げてきた。そして彼は、例の、落ち着きない、無関心なミケーレに戻っていた。目の前に延びていく雨に濡れた街路は、彼の人生そのままの姿だった。冷えきって情熱の影すらも、そこには映っていない。不信に満ちた瞳をあげて、彼は空しく明滅するネオンを見た。《いつまで生きつづけるのだろう?》天を仰ぐと、黒ぐろとした高みに、広告塔が二つ、ぐるぐる回っている。一つは歯磨きの宣伝で、もう一つは靴ずみの広告だった。ふたたび視線を落とした。無数の足の群れが相変わらず忙しげに動いて行く、踏みつけられては泥水が跳ねあがる、群衆はひた歩きに歩いていく。《だが、ぼくは、どこへ行くのだろう?》彼は我と我身に問い返した。指を入れて、襟首のカラーをゆるめた。《ぼくは、いったい、何なのだ? なぜ走らないのだ? この人たちといっしょになって、なぜ急がないのだ? なぜ素朴な本能的な人間になろうとしないのだ? なぜ持って行き場もない不信感ばかり抱えているのだ?》苦悩が彼の上に伸し掛かってきた。通りすがりの人びとのコートの襟を、手当たりしだいに摑まえて、きみはどこへ行くのか、なぜそんなに急いでいるのか、と問い質してみたい衝動に駆られた。どんな目的でもよい、たとえ偽りのものであっても、目的を持ちたかった。これらの自信ありげな人びとの流れのなかを、自分だけが、目的を持たずに、通りから通りへと、当てもなく泥水を跳ねあげて行くのは、もう堪えられなかった。《ぼくは、いったい、どこへ行くのだろう?》太古の時代には、人間にも生まれてから死ぬまでの足取りがみなわかっていたかもしれない。が、現代では、そうはいかない。頭を袋のなかに突っ込んだみたいに、あたりは一寸先も見えぬ闇だ、目はあっても見えない。が、それでも、どこかへ行かねばならない。どこへ? 家へ帰ろうか、とミケーレは思った。

  • 『倦怠と、自分が余計者であるという感覚が、ひしひしと彼の身を包んだ。敵意を含んだような客間の闇のなかを、彼は見まわした。それから、あたりの顔をじっと見つめた』―『第3章』

    陳腐な連想だけれどヴィスコンティの「家族の肖像」の一場面が頭の中で再現される。ヴィスコンティを初めて観たのはいつのことだったか。あれは確か正門からそう遠くない女子大の学園祭での「山猫」の上映会だった気がする。退廃的な美、という決まり文句の意味するところも解っていなかった頃。まだ「ベニスに死す」は観てはいなかったけれど、萩尾望都の「ポーの一族」と並べて批評する人がいることは、隔週刊の「ぴあ」を愛読していた少年としてはトリヴィアな知識として知っていた。けれどそれは「プラトニックラブの本質は男色だよ」と簑島さんが「花岡ちゃんの夏休み」(清原なつの)の中で言っていたので「饗宴」を岩波文庫で読んで確認してみた、という程度の浅知恵でしかなく、同世代の女子たちが「エドガーが!」「アランが!」と熱くなっているのを、むしろ無理解のまま冷ややかに眺めていた。その違いを当時の少女漫画で例えるなら、一条ゆかりの「有閑倶楽部」はまだ面白いと思えたけれど「砂の城」はどこが面白いのか解らない、という感じ。それくらい初心[うぶ]だった。モラヴィアの「無関心な人びと」を読みながらヴィスコンティのことを連想するのはベタな発想なのかずれた感覚なのかは解らないけれど、そんなことを思い出して考えていたら、女子大の学園祭で「山猫」を観ていた時の落ち着かなさも思い出してしまった。

    アルベルト・モラヴィアと一つ違いのルキノ・ヴィスコンティの「山猫」の公開は自分の生まれた年。翌1964年には米国カリフォルニア・バークレーであの暴動が起きている。1970年代に世界規模で活発化する学生運動が始まる直前の不穏な空気が漂っていた時代に、日本では後に無気力な若者を称して「三無主義」と呼ばれる時代の来るおよそ半世紀も前に書かれたのがモラヴィアの「無関心な人びと」。なんの切っ掛けで読書リストに入っていたのか思い出せないけれど、訳者の河島英昭といえばやはりウンベルト・エーコの「薔薇の名前」なわけで、その初翻訳の本となればどうしても読んでおかずにはいられないというところか。氏はイタロ・カルヴィーノの翻訳なども手掛けているけれど、この作品にこれほどの思い入れがあったとは知らなかった。カルヴィーノもアントニオ・タブッキも好きだけれど、本当のイタリア好きというのはやはりヴィスコンティとかモラヴィアを面白いと感じられる人のことを指すのか、などと全く作品とは関係のない感想を抱く。

    『それなのに自分は、持ち前のおどけた仕草で、その場をやり過ごしてしまった。ああいう状況のなかでは、少しおどけた滑稽な態度をとるのを、むしろいちばん自然な、いちばん適当な方法であると、日ごろから自分は思いこんでいるらしい。二言、三言、何か言い、お辞儀を一つして、あとは立ち去るだけ。しかも、それから道路へ出たあとで、自分は嫉妬も、心の苦しみも、何一つ感じなかった。ただ、移り気な自分の無関心に対する堪え難い嫌悪ばかりを感じていた。無関心に引きずりまわされ、服を着替えるように、日夜、信念や態度をめまぐるしく取り替えてゆく、そういう自分だけがあった』―『第13章』

    「山猫」を初めて観た時の落ち着かなさは自分の理解を超えた価値観を見せつけられている、というところに根があったのだと今なら解る。勘違いでも何でも、自分の言葉に置き直せるなら、人は多分不安を感じない。落ち着かなさの根本には自分の言葉にないものへの恐怖心がある。「無関心な人びと」の描き出す世界の住人は、「山猫」を初めて観た当時の自分であればまだしも、世の中の不条理もある程度身に染みた今の自分にとって、全く知らない人々ではない。それ故、頽廃的な雰囲気が思った以上に伝わってきてしまう。もちろん、そうやって卑近な世界に引き寄せて作品を読んでしまうのはよくないとも思うけれど、今さらヴィスコンティを愉しむことが出来ないのと似たような印象を受けてしまうのは偽らざるを得ないところ。可笑しな連想ついでに言うなら、むしろヴィスコンティというよりはローティーンの頃に友達と連れだって観に行った「処女の生き血」という吸血鬼映画の印象が主人公の一人であるミケーレに重なる。この映画はホラー映画と分類されているけれど、当時は確か成人映画指定だったような記憶がうっすらとある(なので年齢詐称して入った覚えが、、、)。こちらは処女の血を吸わなければ生きられないという情けない吸血鬼が少女を狙うというロリコン的な、今考えればコミカルな物語。何しろ吸血鬼は死にかけているし、これはと狙って襲った相手が処女ではなくて吸った血を苦しみながら吐き出すとか、ドタバタ喜劇のような映画だった。「無関心な人びと」には翻訳家があとがきで解説するような文学的意義もあるとは思うし、カミュの「異邦人」にも似た社会の不条理に対する思いのようなものを感じたりもするけれど、青年のもやもやとした心理を疾[と]うに忘れた今となっては、どうしてもこの吸血鬼映画とも共通する陳腐な悩みを大袈裟に捉える構図を感じてしまう。もちろん、当時のイタリアの没落貴族の状況や第一次世界大戦後の時代の空気のようなものを反映した作品ではあるのだろうけれど。

  • 執筆当時のモラーヴィアから見た大人世代の登場人物たちが、極端に抑制も倫理もない唾棄すべき存在として描かれていて、うむ、モラーヴィアくんどうした、という気持ち。その一方で、同世代の姉弟は痛ましい。あの母親じゃなあ、と思いつつ、健やかな自己肯定力を育むにはいったいどうしたらいいんだろう、とぼんやりした。自分は幸せになる権利がある、と信じる気持ちを持つには。

  • 4/77
    『二十世紀を代表する作家モラーヴィア(一九〇七‐九〇)の処女作.主人公の青年ミケーレは,自分をとりまく現実と自分とのずれを意識している.が,あらゆる行為に情熱が持てず,周囲に対して徹底した無関心におちこんでゆく.ローマの中産階級の退廃と,苦悩する若者を描いたこの作品は,当時のファッショ政権から発禁処分をうけた.』(「岩波書店」サイトより▽)
    https://www.iwanami.co.jp/book/b248358.html


    原書名:『Gli Indifferenti』(英語版『The Time of Indifference』)
    著者:アルベルト・モラーヴィア (Alberto Moravia)
    訳者:河島 英昭
    出版社 ‏: ‎岩波書店
    文庫 ‏: ‎316ページ(上巻)


    メモ:
    ・西洋文学この百冊
    ・死ぬまでに読むべき小説1000冊(The Guardian)「Guardian's 1000 novels everyone must read」

  • 働かずとも生きていける中流家族。他人に自分達の運命を預けてしまったから漠然とした不安しか残らなかったのではないかな。無関心というより虚しさが哀しい。品がある分自暴自棄になるにも時間が掛かるところも辛いなぁ。ずるい人はこの手の人を敏感に見抜いて利用しようとするし、そこに助けも来ないところがリアル。カルラを救ってあげたいけどもう無理かな? 下巻はどうなる?

  • 内容(「BOOK」データベースより)
    20世紀を代表する作家モラーヴィアの処女作。
    主人公の青年ミケーレは、自分をとりまく現実と自分とのずれを意識している。
    が、あらゆる行為に情熱が持てず、周囲に対して徹底した無関心におちこんでゆく。

    ローマの中産階級の退廃と、苦悩する若者を描いたこの作品は、当時のファッショ政権から発禁処分をうけた。

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