- Amazon.co.jp ・本 (286ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003332313
作品紹介・あらすじ
現代仏教学の頂点をなす著作であり、著者が到達した境地が遺憾なく示される。日本人の真の宗教意識、日本的霊性は、鎌倉時代に禅と浄土系思想によって初めて明白に顕現し、その霊性的自覚が現在に及ぶと述べる。大拙(1870‐1966)は、日本の仏教徒には仏教という文化財を世界に伝える使命があると考え、本書もその一環として書かれた。
感想・レビュー・書評
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落合陽一氏が著作の中で、読むべき本として挙げた中にあったもの。
1944年12月という太平洋戦争敗色濃厚な時期に『日本的』というフレーズ付きで出版された本書は、どの程度時代の空気に逆らった(或いはおもねった)内容だったのだろうか?という興味で手に取った。
内容としては、日本人の宗教意識の基礎は鎌倉時代に築かれた、平家物語の影響が大きい、といった主張は、既に教科書レベルで定着した説になっているように思ったが、専門家から見るとどうなんでしょう。
日本仏教を考える時、サンスクリット語→漢字→日本語と翻訳を重ねる間に、表意文字の漢字を介することで、ニュアンスが伝わりやすい面もあれば、逆に、固有名詞に過ぎない単なる音に別の意味を勝手に見出してしまうケースもありそうで、こねくり回しているうちに別の学問が生まれた、というような錬金術的側面もあるように思う。(どこぞの僧侶自身がそういうことを認めていたインタビューを聞いた気がする。)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
戦前戦後の仏教学の第一人者だった著者の代表作。大学の恩師に著者の思想を紹介されて、興味を持ち読んでみました。
序盤で霊性を「宗教意識」だと定義した著者は、その上で興味深い論を展開していきます。すなわち古代日本に霊性と言えるようなものは存在しなかったこと。それが初めて自覚されたのは鎌倉時代に入ってからであること。その粋は、浄土思想と禅に見出すことができること。などなど。私は本書を読んで浄土思想のとらえ方を180度改めさせられたように感じます。浄土を求めることはつまり現存在の否定であり、そのプロセスを経てさらに自己を超越し「超個己」にならなければ霊性は得られないとする著者。頭でっかちな私はその主張を理屈でしかなぞろうとすることができませんでしたが、親鸞のいう「ただ一人(いちにん)」という言葉になぜか涙が出そうになりながら、ああ、悪人正機とはそういうことだったのか、と、すこし納得できたような気がしました。
そもそも「霊性」とななんなのか。霊性という語は一般にspiritualityの訳語として用いられます。WHO憲章の健康の定義にも含まれるほどに重要視されるこの概念は、どうも私も含めた日本人にはぴんと来ないイメージがあります。しかし、本書を通して著者が伝えるメッセージは、それが、個人が個人を超えたところで得る強烈な体験であることを教えてくれます。最近よく使われる「スピリチュアル」という言葉よりもずっとしっくりとした、馴染みやすいもののように思えるのです。そして本書の最後で紹介される市井の仏道求道者、浅原才市の歌の数々には圧倒されるばかり。彼のいう「あなたのこころがわたしのこころ わしになるのがあなたのこころ」とは、どんな心境なのでしょうか。「ただ一人」という独我論的体験と、彼のいうような自らと世界と仏とが一体となる体験が同居する世界。本書の後半はそれをわずかでも感じることができます。
著者は現代の神道には霊性がまるでないと批判を加え、神道が霊性を持ちうる可能性として鎌倉時代の伊勢神道を挙げています。地に足のついた宗教意識ははたして神道でも実現できるのか。私はその可能性を信じたいところですが、どうでしょうかね。
(2008年9月入手・2009年1月読了) -
図書館で借りた。
「霊性」とはあまり聞き慣れない。本もその説明から始まるが、英訳すれば"Japanese Spirituality"だ。冒頭でも解説されるが、「日本人の精神」と捉えればそんな間違いではない。つまり、「私たち日本人のスピリッツはどこから来ているんだろうか?」な日本学的ジャンルだ。
神道、仏教、サムライ、平家物語…。様々な入口から"日本的霊性"を掘り下げていく。
…う~ん、中々難しい。国語の試験を解いているようだった。まだまだ私にはハードルが高かった。 -
(01)
霊性という語には仏教味が少なく,著者が近代の知を浴びながら捻出した造語とも言える.しかし,精神でもなく心でもなく,ましてや無意識でもないし,もちろん物でもない霊性とは何か.
浄土真宗(*02)こそが,著者の信条を捉え,身体性に染み付いた実践でもあったと考えられる.真宗の創始にあたった法然と親鸞,そして真宗の近代的な実践者である道宗や才市の例をあげ,それが他の宗派や宗教ではなし得なかった霊性に着地した思考(*03)と実践であったと説いている.
(02)
浄土真宗の念仏は,常に問題となる.日蓮宗の「南妙法蓮華経」よりもさらにコンパクトになった名号「南無阿弥陀仏」が膾炙し,膾炙するだけの理由が語られていく.それは理論的なものでもなく,狂信的なものでもなく,霊性的な境地にのみ発せられる人間の表象とでも家るのではないだろうか.もちろん意味をなす言葉でないところにその六字の聖性があるする考えはよく了解される.
(03)
鎌倉仏教や禅宗に至るちょっとした精神史,思想史も霊性の立場から説かれており,「大地」というイメージも面白い.また,その思考は,武士道にも引き継がれ,言わずもがな,明治以降の国家神道に差し向けたアンチなテーゼとしてもとらえられる.また,キリスト教ほかも視野に入れた世界史の中での日本的霊性の位置付けもなされている. -
霊性的自覚という宗教的体験のあるものには、それをとりもどさせ、そうでないものには、そうした世界が自身に起こり得るということを分別知として頭にそっと置いていく。そんな著作、のように思う。
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自身の知識・価値観によるところが大きいのかもしれないが、論調や話の流れ、展開を追うことができなかった。理系的な?論理思考フォーマットで捉えがちな思想にとらわれてしまった自分が、流し聞きで理解できる価値観ではない、ということがわかった。日本的霊性は鎌倉仏教の伝来を機に形成されていった(もっと古代から徐々にというイメージだったけど)という説はなんとなく抑えた。
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南無阿弥陀仏
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日本的霊性は大地から始まる。
自覚されるのは、鎌倉時代。
華やかな平安は「天」、実質的な鎌倉は「大地」。
親鸞は京から田舎の地に移ったから、大地から学ぶことが出来た。 -
ゼミ用
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チマっとしかまだ読んでないけどかなり面白い。説明がわかりやすい