現代の批判 他一篇 (岩波文庫 青 635-4)

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  • Amazon.co.jp ・本 (221ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003363546

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  • 19世紀前半デンマークの哲学者セーレン・キルケゴール(1813-1855)による「現代」批判の書、1846年。ここでいう「現代」とは、1848年革命にも先立つ北欧デンマークの「現代」のことであるのだが、その批判の射程は21世紀の「現代」にも届くものである。

    □ 「革命時代/現代」

    キルケゴールにとっての「革命時代/現代」の対照は、「情熱/反省」「行動/おしゃべり」「決断/逡巡」「あれかこれか(質的弁証法)/あれもこれも(量的弁証法)」「感激/冷笑」「内面的/外面的」「直接的/媒介的」「当事者的/傍観者的」「正真正銘/代用物」「目的/手段」「英雄/大衆」「主意主義/主知主義」の対照として敷衍できるだろう。

    「革命時代は本質的に情熱的である、したがってそれは激越、奔放で、自己のイデーのほかには一切考慮しない」(p11)。

    「現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激にぱっと燃えあがっても、やがて小賢しく無感動の状態におさまってしまうという時代である」(p23)。

    □ 言葉、反省、直接性

    21世紀の「現代」は、かつてないほど大量の言葉が、かつてないほどの広範さで流通している。なぜなら、それまでは個人個人の頭の中に現れたままで表に出ることなく消えてしまっていた無数の言葉が、電子の海に撒き散らされて顕在化し、さらにその言葉に対する応酬が無際限に続いていく、というような状況であるから。こうして無際限に増殖し続ける言葉によって、またそうした言葉を用いてなされる反省=対象化=概念化によって、存在や世界そのものは何か不透明で分厚い皮膜に覆われてしまい、人間にとってますます隔てられたものになっているのではないか。実在に直接触れようとすると、その瞬間に反省が実在と人間との間に言葉を差し挟んでくる。このように、言葉や反省が、実在との直接的な結合を阻害しているのではないか。学生だった2000年代初頭に、そんなことを考えていたのを覚えている。

    19世紀の「現代」、合理主義が浸透し、新聞など新しいメディアも勃興しつつあった状況を前にして、キルケゴールも同様の苛立ちに襲われたのではないかと想像する。別の作品のなかで、「反省は直接性を殺す」(訳注p165)という強い言葉も残している(尤も、キルケゴールは単純に反省を否定しているのではなくて、「逆に徹底的に反省し抜くということこそより情熱的に行動するための条件である」(p117)としており、さらにのちには「信仰は反省の後にくる直接性である」といって、反省に一定の役割を認めているが)。

    「革命時代」というのは、自己の理念というものが内面において確立されており、それへの確信によって、自己の生の意味を実現しようと英雄的な行動に打って出る決断が可能になった。しかしながら「現代」は、言葉による反省の時代であり、言葉はひとつの事象に対しても同時に真逆の解釈をもっともらしく提示することが可能なのであって、そのために「あれかこれか」の先鋭的な対立が曖昧化され、自己の生の意味を確信することもできず、行動への決断はどこまでも先送りされてしまう。

    「反省は悪ではない。しかし、反省の状態にいつづけたり、反省のなかですっかり立ちどまってしまったりすることが、困ったことであり、危険なことなのである。それは行動の前提条件を逃げ口上に変えてしまって、後退へと誘うことになるからである」(p86)。

    認識における非直接性と実践における優柔不断と、これら理性にその責めが帰せられることになったふたつの事態への苛立ちが、「生の哲学」「主意主義」という非合理主義的な傾向を生み出し、ひいては「実存」という人間の根源的な在り方への覚醒を促したのではないかと思う。

    □ 沈黙の内面性

    言葉は、匿名多数へ向けて流通に乗った瞬間に、駄弁に堕してしまう。なぜなら「衆のあるところはすべて虚偽である」(解説p216)から。では、言葉の真実性を確保するにはどうしたらいいのか。それは、自己の内面に深く沈潜し、その静寂のなかで匿名多数の喧騒を雪ぎ落して、単独者となり、自己の内発的な声に耳を澄ませて待ち続けるしかない。自己から湧き出るものである、という一点に真実性を賭けるしかない。こんなこともまた、学生の頃に考えていた。それから折に触れて、自己の沈黙のうちに耳を傾ける、ということをしてきた。「沈黙は内面性である」(p88)という一節を読んで、当時のことが思い出された。

    「わたしがそのために生き、そして死のうと思うようなイデーを発見することが必要なのだ」。「真理とはイデーのために生きること以外の何であろうか」(訳注p163)。

    □ 政治化

    大衆社会が勃興して以降、こうした「現代」批判というのは多くの人間が考えてきたことなのだろうが、キルケゴールがその嚆矢なのだろう。とはいえ、堕落した「現代」社会のなかで自己の本来性を回復するために、自己を他者から切断して、孤独な単独者として神と向き合うという議論は、パスカル『パンセ』とも共鳴しているようにも思う。また、「現代」の人間の生は日常生活のなかでその全体性が損なわれているため、頽落した日常性から在るべき本来性へ回帰しようという議論は、ハイデガー『存在と時間』に継承されている。

    一点気になるのは、日常性から本来性へと非合理的に「突破」しようとする思想には、それが政治化すると途端に暴力と直結してしまいそうな怖さがある、ということだ。尤も、「政治化」という場面では、キルケゴールが虚偽とした匿名多数の存在が引き入れられることになってしまうのだが。

    しかしいずれにせよ、「自己の純粋な内面性に真実性の根拠をおく」という思想は、単純に正当化できるものではないのだろうと思う。

  • まさに”機知に富んだ”表現の数々(訳者桝田先生の名訳)。キルケゴールの、時代に立ち向かう、情熱が伝わってくる。

    「政治家」「新聞」への批判は、とても痛快。コミュニケーションツールが拡張している現代では、もっと注意深くなる必要がある。
    一方で、自分自身の、”勇者””に対して距離を置く態度、水平化の一員になってしまう態度も、振り払い難い。反省や分別と上手に付き合っていくのは、本当に難しい。まずは、謙虚であることを忘れないでいたい。

    初心を忘れそうになったとき、もう一度、何度でも、読み返したい一冊。

  • ほどほどに賢く、ほどほどに愚か
    よく言えば中庸、悪く言えば中途半端

    血の無い時代 
    われわれはいつの間にか
    手はポケットの中か交差させているべきものだという
    認識を作り出して言ったのかもしれない
    習慣が常識を生み、秩序を作り上げていく

    ほどほどに賢い者たちは
    己の思慮の浅さは棚に上げ(それも上段に置くことで見えない状況を作り上げているにもかかわらず蒲ととぶる始末)先人たちの英知をちょこちょこと摘みとってきては他者の前にひけらかすことによって己の存在を、己の賢さ(?)を承認することを共用する。

    学問が人類を堕落させました。
    どうでしょう?
    教育では?さぁどうでしょう?
    誰を犯人にしましょうか?
    よく言う、こういうのを生み出したのは空気・雰囲気それ自体にあるってやつでしょうか?
    一固体の責任から連帯責任に移していくことで
    なにかが解決するのでしょうか?
    そもそも解決する気持ちなどあるのでしょうか?

    「私たち一人一人が悪かったのよねぇ、反省しなきゃ」
    さてどうでしょう。経過観察してみましょうか?


    民衆は己の能力を過大評価していたのかもしれません。
    弱者であった「消費者」や「ブルジョワ」が
    擁護されていくにつれて権利に類するものを
    弱者たちは獲得し所有していく。

    付け上がらないことがありましょうか。
    彼らは被害者というものにさえ権利という称号を与え
    横行闊歩しています。何かいたずらをしては弱者に変わり相手に謙るよう要求します。悪しきとこまで行けばお金さえも巻き上げる次第です。

    インテリ意識は自己愛を助長させます。
    己が賢いということを信じて疑いません。
    なにせ彼らは時に応じて己を阿呆に才人にも仕立て上げる次第です。
    かつては他者の助言は真に受け止めていました、が今では反論・反駁できるかもしれないという思いが専攻するがために絶えず言い訳で逃れようとしています。自己防衛もいいところでしょう、他者の助言はもはや忠告になり説教にまで下がってきました。近隣の人々と校長先生の口から出るものは違いがわからず同じにしか認識できないのでしょう。

    否、同じなわけないじゃないか?だって....」

    言い訳は弁証法的循環のうちに流動します

  • 生きるための古典

  • 『成功はすべてコンセプトから始まる』木谷哲夫 著 ダイヤモンド社 参考文献

  • デンマークの哲学者、セーレン・キルケゴールの著作。

    革命時代と、現代を比較して、現代というのは「水平化」された時代であるという。
    そして、情熱を失った現代という時代に対し一種の危惧と批判を加えている。

    これはわずかおよそ100年前に書かれたものであるが、今私たちが生きている「現代」にも相通じるものがあるのではないだろうか。

  • 課題でなければ確実に読まなかった。
    全くわかんない。いろいろ足りてなかった。

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