- Amazon.co.jp ・本 (122ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003366110
感想・レビュー・書評
-
弓道の世界がこれほど高い精神性を持つものとは知らなかった。しかも日本語を解さないドイツ人が、その精神をここまで理解するとは。師との交流がストレートに記録されている。
弓と禅も読んでみたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
自分が弓道をはじめたので興味があり読んでみましたが、弓の知識がなくても全く問題なくすぐに読めてしまいます。経験重視、全て理屈や分析を必要とするカント哲学者のヘリゲルが、説明のつかない神秘的な禅の世界や師匠とのやりとりから混乱しながらも自分が“無我”の境地に入って弓が打てるようになるまでの体験談。日本文化や侍魂など忘れ去られた現代人をヘリゲルに置き換えて読め、なかなか深い本です。が。。。いろいろな方が書いていますが、深い内容の本だけに翻訳のひどさが残念でなりません。。。
-
論理的なドイツ人哲学家が、日本の不可解な哲学に出会い、理解を深めていく話。
弓術の師匠と海辺の避暑地で、片言のドイツ語と片言の日本語で語り合う場面はBL的な世界を連想してしまう。 -
非常におもしろい。日本的なものをドイツの人が解明していくという内容が、日本人にも新鮮。ここで書かれていることは、今でもいろんなところに顔を出しているのではないでしょうか。暗闇の中で矢を2本的に射るところが圧巻です。そしてこの著者の文のあとに、通訳の方の文章がついているのがまた面白い構成と思います。ただ、前半のヘリゲルさんの文章の訳文がちょっと固くて、意味のわかりにくいところがあるのが残念です。あと、最終的にこの師匠が弓道から宗教的な方向に行ってしまうのが、なんともまあ、そうなっちゃうのね、という感じである意味納得したりします。
-
〈弓術〉と〈弓道〉は別である。
タイトルとしては〈術〉と書かれているのだが、この場合〈道〉という方が相応しいように思う。
ヘリゲル氏が弓と出逢ったことは、彼にとってどのような人生の変化をもたらしたのだろう。
無我でいること。
心で引くこと。
自分を射ること。
今の日本人でも疑問に思うに違いない。
最初、ヘリゲル氏は上手く出来ないことで技術を磨く方に躍起になる。
しかし、彼はその「?」から逃げることなく、悪戦苦闘しながらも「なぜか分からないけれど、なんとなく出来る」ようになっていく。それが、すごい。
そして、夜の場面。
真っ暗闇の中で、阿波師範が放った二本の矢に、読者も同じ驚きを覚えるのではないだろうか。
河合隼雄は、これを読むと日本人がオリンピックの場になると勝てないのは当然ではないか、と書いていた。なるほど。
向き合うものは、己自身である。
私たちはかつて「道」に関わることで一つの精神・心の在り方を学んできたと書かれている。
阿波師範は言葉で表すことは難しいとし、姿勢を見せ、型を真似ばせることで多くの人にそれを伝えた。
「技」というものがどれもスポーツ化していくことで、そうした形のないものの継承は、潰えていこうとしているのだろう。
非常に薄い本なのだけど、分かりやすく(けれどあっさりとは掴みにくく)、身が引き締まって、深く呼吸をし、自身ときちんと向き合いたくなる一冊である。
こういう本に出逢えることは、喜びではないだろうか。 -
そこで私は、「無になってしまわなければならないと言われるが、それでは誰が射るのですか」と尋ねた。すると先生の答えはこうである。ー「あなたの代わりに誰が射るかが分かるようになったら、あなたにはもう師匠が要らなくなる。経験してからでなければ理解のできないことを、言葉でどのように説明すべきであろうか。
森博嗣の「喜嶋先生の静かな世界」にてこの新書が引用されており、興味を惹かれた。
弓道を通して、ドイツ人から見た日本の神秘主義、禅に基づく精神性を探る旅である。
今まさに愛国心という言葉が議論されている。
戦後のジレンマにより、私達は愛国心とは、日本人とは、という議論を凍結してきたが時代は変わった。
私は海外に出て自分の無知を恥じ、やはり日本を知りたくなった。そういう若者は少なくとも私の周りには大変多いのだ。
精神性が失われつつある現代。
大正時代の日本を興味深く思索していたドイツ人の著書は、私たちの思考に割りと近いのではないかと感じる。
一読の価値ある書である。 -
「技術論」にばかり目がいき、「道」という考え方を見失いつつある日思考が西洋化してきているわれわれ日本人にオススメの一冊。こういうものが感じ取れる日本人でありたいと思う。
-
明治の初期に、ドイツ人が弓術を習う。そのときの様子がよくわかる。どのようにして「道」を西洋人が把握していくのか(理解できるのか)、その過程は今の時代にも使えそうな話である。
-
奇跡的な名著です。
一方、歴史的にはじつに不幸な運命の書でもあります。
「弓術と言えば弓を一種のスポーツの意味にとり、したがって術をスポーツの能力の意味にとるのが、まず手ぢかなところではないだろうか。」
と、はじまる本書は、1926年(大正15年)たまたま来日していたドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル氏が弓道家阿波研造氏に五年間「弓道」学んだを体験を母国ドイツで行った講演録の翻訳です。
ですから平易な文章でわずか一時間たらずで読み終えてしまいますが、
そこは当時一斉風靡した新カント派の哲学者、「弓道」修行から「禅」に至るまでの道程を西洋人に語っています。
鈴木大拙の「禅」岡倉天心の「茶の本」にもひけをとらない名著といえます。
歴史的な不幸の始まりはこの講演が1936年に行われていることにあります。
1936年といえばベルリンオリンピックの年、ニュールンベルクで悪名高いナチス党大会のあった年です。
また本書の日本語版初版は1941年ですので太平洋戦争開戦の年です。
1945年日本ドイツの敗戦は哲学者オイゲン・ヘリゲル氏の運命も狂わしました。
自宅は接収され多くの財産も略奪され、阿波研造氏から贈られた師愛用の弓も没収されました。
もはや新カント派は完全に抹殺され、哲学者へリゲルは原稿のすべてを焼却しました。
ただ1954年に「弓と禅」刊行し、
1955年「花びらが木から散るように」71歳で逝去しました。 -
著者のストイックさに頭が下がるぞ。
日本人は無意識に分かってること…。今は必ずしもそうでないね。