- Amazon.co.jp ・本 (640ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003400777
作品紹介・あらすじ
イギリス社会が新興の中産階層の力で近代的市民社会へ脱皮してゆく時、その政治思想の代表者がロック(1632‐1704)であった。君権神授説を否定し人間の平等と人民の政府改廃の権利を明らかにした彼の「政府二論」-特にそのうちの後編に当たる本書は、アメリカ独立宣言の原理的核心となり、フランス革命にも影響を与えた。
感想・レビュー・書評
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前半がまるまるフィルマーの王権神授説を批判することにあてられています。明らかに論理的に破綻しているフィルマーの説を論破するわけですが、彼の根本の前提を否定してはい終わり、というわけにはいかないらしく、仮にそれが正しかったとしたら、と仮定を置いてその後の議論も全て論駁していくというスタイルです。とても長くて読みにくかったです。そうでもして徹底的に批判しておかないといけないほど、一般的にフィルマーの説が信じられていたということなのかもしれません。
後半はいよいよロックの社会契約説が展開され、面白くなります。論の展開は明確でわかりやすく、現代の視点で読んでもおおむね納得できる気がします。
ホッブズとは違い人間が基本的には理性によって自然法を守る、という性善説よりの前提に立っていて共感できました。ただ、自然法の根拠がキリスト教の神にあるとするところが個人的に腑には落ちませんが。
所有権の根拠を労働力の付加においているところが面白いです。もしロックが現代のようにほぼ全ての土地に労働が投下され、所有権があるような状況でどう言うのかが興味あります。
終盤、統治が必要な理由の説明にあたって急に性悪説よりの論調に切り替わるところに多少違和感があった一方で、罪人も必要以上に罰せず実害がない限り保全するべきだという考えがあまりに現代的で驚きました。
日本人に生まれて以来漫然と今の統治体制を受け入れてきていましたが、その法律や制度にどんな意味があるのか、改めて考えさせられるきっかけになりました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
自然状態は平和であるが、たまに徳のない人間がいるため、人々がお互いの安全のために結び付き、国家を作る。その後、統治する者と統治される者の関係を決める。統治する者は人民の福祉を促進することを約束し、統治される者は服従を約束する。統治する者(主権者)は絶対ではなく、法によって拘束される。ザムエル・プーフェンドルフPufendorf『自然法と万民法』1672
神はアダムに一切の事物を支配する権限を与えた。アダムの権限はその子孫である各国の君主に代々受け継がれてきた。だから人間は生まれつき自由ではなく、人間はアダムの子孫である国王に服従すべきである。王はアダムに与えられた現世の支配権を継承しているため、王の権力は絶対である。ロバート・フィルマーFilmer『パトリアーカ』1680
※名誉革命(1688)。権利章典で王権は制限されうると規定。絶対王政が改めて否定される。
自然状態は完全に無秩序ではなく、人間として守るべき最低限のルール(自然法)がある。他人の生命や財産を侵害してはならない。また富は労働で無限に増やすことができるため、パイの奪い合いにはならない。人間はせっせと働き、富を増やして平和に暮らすことができる。ただ一部の怠け者が働かずに、他人の財産を奪う。争いを仲裁する権力・奪われた者を救済する権力が必要。より確かな平和を得るため、国家を作ることになった。▼人間として守るべき最低限のルール(自然法)は神により与えられる。人間はこれに従うことを義務付けられる。神の存在を否定する者はこの最低限のルールを否定する者であるから、国家はこれに介入できる。▼人民が契約によって国を作ったが、それは権力を王に預けただけ。王は人民を守るために存在している。人民の同意なしに私有財産に課税できない。▼人民を守るために国家を作ったのだから、国家が人民を守らない場合は武器をとって抵抗または打倒してもよい。人間はこの世界を良くしていく義務と権利がある。政府の解体で権力が再び政治社会の多数者に戻る。自然状態に戻るわけではない。ただ、革命はあくまで最後の手段。革命権があると、国家の側も横暴を控える。ジョン・ロックLocke『統治二論』1689 -
自然状態→共同体→立法権力の構造がよくわかった
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アメリカ独立宣言の理論的基礎となったとされる本書(1690)については、同じ岩波文庫で『市民政府論』としてかなり若い頃に読んだのだが、これは原著の後編に当たる。
ということで、前編を読んだのは初めてだが、ロバート・フィルマーとかいう人の、王権神授説の流れを汲む著作に対する執拗な批判がもっぱら展開される。フィルマーの『パトリアーカ』はもちろん読んだことないが、本書を読む限り、かなり恣意的に聖書を曲解し、父権と王権を同一線上に置くなどと言うヤワなことが書いてあるらしい。ロックの批判はじゅうぶんに論理的である上に、ところどころユーモアさえ交えて、面白い。
さて後編はロック自身による統治論が展開される。これは「社会契約説」の嚆矢となったものなのだろうか。彼は、なんびとも政治統治体と「合意」によって結合するのだと説く。
人は生まれついての「自然状態」の自由をむざむざ放棄して、権力的統治のもとに入るわけだから、そこには「同意」がなければならない。
生まれついた統治体が不服であれば、これに同意せず、別の統治体を探すか、もしくは自ら新たな統治体を作れば良い(そう簡単に言うけれども、現代においてはそれはかなり難しい)。
そのかわり、統治体の権力は、共同体の成員の「合意」(それは多数決により決まる)に沿って行使されなければならない。従ってロックは絶対王制のような体制を否定している。それは合意に基づかない、単に暴力的な、服従の強制である。
統治体が構成される目的は、諸個人の固有権(プロパティ)の保全にある。権力(政府)側がこれを逸脱することは許されない。もし本来の目的を離れて権力が人々を強制するならば、住民は「抵抗」することが許される。この辺は、事実上主権在民の原理を示しており、ロックはそうと明言はしないものの、民主主義の基礎となるような考え方である。
ロックはまた、立法府を最高権力としながら、行政府との分立を提言している。当時としてはかなり先進的な考え方と言えるだろう。
ただし難点は、「多数決」がすべてを決めてしまい、それに全員が服従しなければならないため、マイノリティの立場がこれだけでは保障されない点である。
さらに、たとえば一国が他国に侵略戦争をしかけたとき、敗者の国民は「抵抗しなかった場合は」服従を強制されないが、抵抗し、「交戦状態」となった上で敗北した場合は、略奪されて良い、という、なんともドライな、西洋植民地主義のエゴのような考え方も示している。
さてこのような契約説の「同意」なるものは果たして本当に存在するのだろうか? 若い頃これを読んだときと同様の疑問が残る。だがたぶんそれは、「権利」という用語と同様、自然界に実在するわけではないが、理論体系構築のためにあえて定義された概念なのだろう。
それでも疑問が残るのは、現代の複雑きわまりない多義的な社会にあって、「国家」の意向にそうそう「同意」などできはしないということだ。
さて、ルソーの契約説はロックと対比してどのような様態を示すのか。次はルソーに取りかかる。 -
彼の特徴は、
労働をもとにした所有権、
自己保存の目的を徹底した抵抗権の主張にある。
前者はどういう発想から来たのかいまいちわからないが、
後者について言えば、人民の抵抗権はホッブズが渋っていたように、平安を希求する目的が初発にあるにもかかわらず、統治に不満があれば騒乱となりうるため、容易に認めるべきではない、とこれまで見られてきたように思われる。
ロックは、そのことについて自覚的であるために、革命権を認めたところで、頻繁に革命が起るわけではないことを力説する。
ロックのその弁に説得力があるかどうかは別にして、
社会統治の方法やその都度の判断に関して、別の可能性を常に残しておくことは必要である、ということは拭いえない。
ホッブズはその点では、制度に任せて強権的、絶対的君主制に固定せざるをえなかった。
より柔軟であるのはロックであり、その革命の方法はここでは示されないが、
政治に対して人民がどのように関与できるのか、という問いの萌芽はここにしっかりとあるように思う。
最後に1つ、デカルト以降、神に依拠しない形で人間社会を構築しようとする風潮が顕著になってくる。
これは、人が社会を切盛りしようとする態度に他ならない。
(もちろん、ヘーゲルまで「神」を根底的に据えているが) -
固有権。
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新書文庫
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美しい世界観。小気味のよさ。
神がいる人にとって、世界はこんなにも明るいものなのだな、と感じる。
神、身体と理性とを与へ給へり。
肉体労働、価値物うみいだす。
理性、自然法を教ふ。
政、法によりて身体と財物とを保護す。