- Amazon.co.jp ・本 (215ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004303152
作品紹介・あらすじ
夏目漱石の作品を、気鋭の現代作家はどう読み、創作にどう応用するのか。「彼岸過迄」「こころ」「明暗」などの作品を丹念に解読しながら、作家と語り手に注目し、登場人物たちの関係性を解明する。また作家と作品の距離を考えるために、書き手として「写生文」の方法を分析してゆく。漱石を読み、漱石を書く-。現代文学への大胆な挑戦。
感想・レビュー・書評
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小説家である著者が、漱石の主要著作を読み解いている本です。
著者は、高校時代に漱石の『こころ』を読んで不満をおぼえ、後年に小説家となってその不満を晴らすためにパロディである『彼岸先生』を執筆しました。その意図について著者は、「「漱石学」の枠内で批評的に行なわれていた漱石の偶像破壊、もしくは「脱構築」とはまったく別のレベルで、漱石を書き換えてしまいたいという欲望」があったと述べています。
ここで著者が言及している「漱石学」における「偶像破壊」の試みとは、桶谷秀昭、蓮實重彦、大岡昇平、柄谷行人らの業績のことを意味しています。かつて小宮豊隆に代表される、「則天去私」に道徳的な完成を見ようとする漱石解釈に対して、江藤淳がまったく異なる漱石像をえがきました。それにつづく上述の論者たちのしごとは、近代小説の文体と近代的自我が相互形成されていく日本文学史解釈の大きな枠組みからズレていくような契機を漱石の作品のうちに見いだし、漱石を中心とする近代日本文学史を脱構築する試みであったということができるでしょう。
著者は、そうした解釈を踏まえながら、みずから漱石の作品を読みなおすことで、著者自身が漱石に対しておこなったパロディの試みに通じるような批評性を、漱石自身のしごとの反復ないし増幅として理解するような視座を示そうとしています。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
漱石と、気鋭作家島田雅彦の意外な組み合わせ。面白い。
漱石が唱えた「写生文」を、作家目線で創作に応用する目的で読む島田の漱石論。これまで読んだそれにない自由な読み方は、私自身が、言語化出来なかったこと、まるっと代弁状態。特に「明暗」の評論。あと、考えたことも無かったが、漱石と本居宣長の日本語への態度の比較は興味深かった。
併せて、漱石の心理分析力には改めて敬服し、私も写生文という装置を備え付け、自己認識の悪循環をすり抜けるテクとして欲しく思った。
哲学、時代、自我、生死、道徳、愛、生い立ち、営み、お金、様々な諸問題を小説に投入し、全ては語り尽くせぬ、完全な共感など無いという前提のもとだからこそ、予期せぬ答え、新たな気づき、ヒントになり得る答えが導き出されること。
自律性が高い漱石の言葉の奥行きと情緒、果てない可能性。 -
資料ID:C0016792
配架場所:2F新書書架 -
作品ごとに解説がついているが、読んだ事の無い小説を「ぜひ読んでみたい」と思わせるような事が書いてあるわけでもなく、また漱石論は他に数多あるだろうから、漱石というよりは、著者に興味がある人向けの本に思えた。
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ふと思い立ち再読。
島田雅彦の本はそれほど読んだことがない(多分2冊程度?)ので、本作が作家にとってどういった位置付けにあるのか判断できませんが、漱石の一つの読み方としてありだなと素直に思う。
この本は作家の知性の成せる業だろうが、行きつくところ100年も前になろうかとする作品が今もって何ら違和感なく読むことを可能とする巨人・漱石の産物の一つというありきたりの陳腐な結論でしょうかな。
ちょっと島田作品も再読含めて追いかけてみよう。 -
漱石の小説をすべて読んでいる人は1章と3章だけ読んで十分だと思う。
この本で多くのページを割かれている2章は、作品を時系列順に取りあげていて新書の読者向けの色合いがつよい。島田雅彦のサービス精神は2章に発揮されているということもできる。漱石について書かれたものにドストエフスキーや小津安二郎の名前が出てくるのはやっぱり嬉しい。
あとは何周か回っているにせよ基本的なスタンスとして、漱石を個人主義的にとらえること、中途半端さにおいてとらえることは僕自身の嗜好にマッチした。 -
夏目漱石の「こころ」をモチーフにした「彼岸先生」を作品に持つ島田氏の漱石論。通俗小説家としての漱石に注目し、彼の作品に潜むエロティシズムを分析しています。本書の執筆時期あたりから、島田氏の作品が教養主義的な方向に傾倒していくという気がする。