- Amazon.co.jp ・本 (229ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004308850
感想・レビュー・書評
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スンニ派とシーア派の違いがよくわかった。
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日本人はイスラームに対して偏った考え方を持ってしまいがち。これを読むと、一口にイスラームと言っても様々な考え方を持った人がいると分かる。
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イスラム原理主義という言葉はメディアを通して、または日常生活で何気なく用いられている。その一般的な意味は旧態然とした狂信的な集団、命を賭してもアメリカを初めとする近代的なものへ攻撃を繰り返す救いようがない野蛮人、といったところであろうか。
本書で著者はこの「イスラム原理主義」という語に潜む不明瞭さ批判し、西側メディアがいわばオリエンタリズム調のレッテルとして創り出したものであることを指摘する(これはもう死ぬほど言われたことだ)。その上で近代に興ったイスラーム側の改革運動を「イスラーム主義」と「イスラーム復興」に分けて定義し直し、真に学術的使用に耐える概念を確立しようと試みた。
「イスラーム主義」とはイラン革命に代表されるような、西洋的近代化が進むイスラーム世界であっても、あえて「真正な」イスラーム秩序によって政治を進めていこうという考えを指す。その根底にあるものとして、著者はウォーラーステインの「世界システム論」を援用し、従来はイスラーム世界内での出来事として収まっていた改革運動が、世界システムに組み込まれていくにつれ近代的要素を色濃くしていったと主張する。そしてその実例として、18世紀のワッバーフ運動、19世紀のマフディー運動、そして20世紀におけるエジプト同胞団をそれぞれ取り上げていく。
「イスラーム復興」とは現代において、イスラム法に基づいた生活を選択する社会的・文化的動きを指す。著者はここで一時期非常に少なくなっていたエジプトにおける女性のヴェール着用が、80年代以降自発的な形で復活していったことを取り上げる。著者によればこれは宗教的なアイデンティティの模索であるとされる。
だが、ここで用いられている「近代」とはなんであろうか?著者はごく当然のことのように(そしてここに私も異論はない)、西洋社会が辿った近代化を唯一の近代化への道筋とする「単線的近代化論」を否定し、その上「近代化」を「世俗化」や「工業化」といった諸要素に分解し、それぞれの文明・社会によって近代化が包摂する概念は異なるという「複線的近代化論」を採用する。これは一見、イスラーム社会の近代について考えるにあたり、適当なものであるようにも思える。
だが、本著内で用いられる近代とは、ウォーラーステインのシステム論が西洋近代世界の分析から始まったように、明らかに西洋社会に端を発した近代概念を念頭に置いているように見える。そしてその概念自体が西洋の歴史学・思想から生じたものであることを鑑みると、非西洋の工業化・世俗化段階にたいして「近代」という用語を用いるのは適切なのだろうか。
我々が問題とすべきなのは西洋的近代を善と悪、文明と野蛮の物差しとして考える西洋文明中心主義であって、「近代」と西洋社会を結びつけること自体を否定すべきではない。一方で、世俗化や極初期の工業化への
兆しは、非ヨーロッパ社会の一部でも見られた。これをその地域の「近代」への一歩と解釈すべきだろうか?当然答えは否であり、「近代modern」という語に潜在的に潜む西洋の発展類型への依存により、そうした運動は「近代」ではない。そして日本やトルコに代表される西洋の文物を吸収しようとする運動は、「近代」と呼称されるだろうし、すべきであるし。いっそ「近代」という語を捨て、まったく新しい社会変動、変化の類型として当時のイスラーム社会を捉えることはできないのだろうか。 -
そもそもイスラーム主義の定義は何か?社会学からのアプローチがなされています