スピノザ――読む人の肖像 (岩波新書 新赤版)

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (432ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004319443

作品紹介・あらすじ

哲学者とはいかなる人物なのか。何を、どのように、考えているのか。思考を極限まで厳密に突き詰めたがゆえに実践的であるという、驚くべき哲学プログラムを作り上げたスピノザ。本書は、難解とされるその全体像を徹底的に読み解くことで、かつてない哲学者像を描き出す。哲学の新たな地平への誘いがここに!

感想・レビュー・書評

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  • 既にある著者「はじめてのスピノザ」より何歩も踏み込んだ内容でありながら、はじめての読者にも寄り添ってくれる内容だと思う。

    神の定義、
    第一〜第三認識という概念、
    受動と能動。

    自由という概念がぼくの外にあるんじゃなくて、ぼくは自由になったときに、それが自由だと気づく。自由の定義づけじゃなく、あくまで個々がぐるぐると認識を更新していく中で実践的な自由の在り方を提示する。


    ドゥルーズのも読んでみようかな

  • ◆「自己の救済」へ開く理性 [評]若松英輔(批評家・随筆家)
    <書評>『スピノザ 読む人の肖像』國分功一郎 著:東京新聞 TOKYO Web
    https://www.tokyo-np.co.jp/article/223981

    「意識」軸に思想読み解く 評・中島隆博(哲学者・東京大教授)
    『スピノザ 読む人の肖像』國分功一郎著(岩波新書) 1408円 : 読売新聞オンライン
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20221212-OYT8T50088/

    今週の本棚:中島岳志・評 『スピノザ 読む人の肖像』=國分功一郎・著 | 毎日新聞(有料記事)
    https://mainichi.jp/articles/20221126/ddm/015/070/030000c

    スピノザ - 岩波書店
    https://www.iwanami.co.jp/book/b615243.html

  • 自分にはまだ早すぎた。3年後に再読してみよう。

  • 読み終えた僕らは、岩波新書らしからぬ煽りに煽った帯コピー「この思考は、人間のすべてを根底から覆す」が、全然大げさではないことを体感する。
    スピノザという至高の読む人と、國分功一郎という気鋭の読む人との対話を通じて、読むこと、読み継ぐことの難しさと楽しさ、素晴らしさを体感できる一冊でもある。
    難解なテキストを薄めることなく、がしかし読み外さないように丁寧に根気強く、時にユーモアに時に切実に、日本語で導ききった國分功一郎の仕事、狂気の沙汰レベルに凄まじい。

    スピノザが示した道としての「方法」や第三種認識は、仏教徒の柳宗悦が民藝運動に込めてた「不ニ」や道元の悟りにも通じるのでは?と思った。だとしたら、民藝を経由して、’ものづくり”についても考えたい

  • 一歩ずつ立ち止まって、ターンイングポイントだよと言ってくれたり、後回しにしましょうと提案してくれたりと、懇切丁寧な解説をしながら伴走してくれます。
    が、理解できない。何度も読むしかない。難しい。

  • 『たとえば、三平方の定理のような数学の定理を証明する時のことを考えてみればよい。その証明が真であることは、何かに照らして真であるというより、その証明自体によって示されている。証明を終えた時、証明を行った本人にはそれが真であることが分かる。確かに三平方の定理自体は公共的に共有されうる。しかし、それが真であることは自ら証明してみないと分からない。そして証明してみれば分かる。真であることは公共的に共有されるものではなくて、各自によって経験されることだと言ってもよい。スピノザがイメージしている方法としての道もまた、それ自体で真であることの明らかな観念から別の諸々の観念が導き出され、それらの真であることが次々に理解されていく、そのような経験の連鎖である』―『第ニ章 準備の問題/スピノザの方法』

    共通一次世代の理系少年であった自分にとって社会科系の暗記を前提とする学科は敬遠の対象だった。数学や物理の公式や化学でも周期律表とかイオン化傾向とか暗記しなくてはいけないことが結構あるじゃないかと反論する文系の人々も多いだろうけれど、それはレゴのブロックの特徴を理解するような作業であって、肝心なことはそのブロックを使って何かが作り出せることに満足感が伴うということなのだ。ブロックを文字と言い換えてもよい。文字を覚えることが目的になるのは嫌だが覚えた文字で文章を読んだり書いたり出来ると面白い、ということ。そういう訳で(って、どういう訳だ?詳しくは池田央(1981)『得点の分布と科目間の調整―共通―次学力試験を例として―』[行動計量学8巻1号]を参照」)五教科七科目の内の社会科系二科目の選択はリンシャセイケイ(倫理・社会、政治・経済。後にこの二科目の同時選択は不可となる)だったのだが、高三の選択授業で受けたのも倫理・社会で、そこで覚えたスピノザといえば、神は至る所に存在する、という「汎神論」というやつだ。当時は「スピノザ=汎神論」という符合として覚えていたのだが、汎神論って結局八百万の神々みたいなこと言ってシャーマニズム的だなあなどと勝手に考えていても点数は取れたのだから、やはり当時の社会科系の試験には問題があったのだと妙な感じで思い返してみる。その反省という訳ではないのだが、歳を取ったせいか実際にスピノザは何を言っていたのかが気になって本書に手を伸ばす。著者の國分功一郎には「中動態の世界―意志と責任の考古学」や「暇と退屈の倫理学」で馴染みがあったこともきっかけの一つ。しかし、この探求の徒の主たる研究課題がスピノザだったとは知らなかった。

    「中動態の世界」で、言語に残る先人達の思考の痕跡を考古学よろしく探ってみせた著者の思考はとても数学的だ。数学的という言葉で自分が意味したいのは、ユークリッドの示した思考方法に倣ったものということで、「点」や「線」などの「定義」を示した後、誰もが真理と考えることのできる「公理」を構築し、そこから「定理」を導き出し「証明」する、というもの。哲学といえば「デカルト」な訳だけれど、デカルトもまたそのような「公理系」に則した思考をした偉人だし、いわゆるXY座標系(Cartesian座標系などとも言われるが、DesCartes[ラテン語名Cartesius]が提唱したことに因んでの名称)で知られるように数学にも足跡を残している。哲学的な考察を重ねることとはすなわち普遍的な真理を求めることであり、その為には不動の一点(デカルトにとっての「Cogito ergo sum」のようなもの。実際にはフランス語で記した「方法序説」の中の「Je pense, donc je suis」らしいが、どうしても「コギト」と参照されるよね)から命題を証明していくという道筋は数学的になる訳だ。その國分が「読む人」と称するスピノザもまたデカルト的な(すなわち数学的な)思考を積み重ねた人であったことが本書からこれでもかと伝わってくる。

    ただし、この一冊は(他の國分の著作同様、と言ったら言い過ぎかも知れないが)判り易い入門書ではない。よく理系の人々の書き物に対する警句として「数式を入れたら誰も読まなくなる」とか言われるけれど、差し詰めこの本もそんな一冊である。理系の癖として、判り易くする為に(そしてその意図は論理を丹念に追う者にとっては確かにその通り)数式の展開を記す訳だが、そこで拒絶反応が起きて論理展開を追わなくなってしまった読者には、その先の理屈が解らなくなるという状況を生み出す。さすがに本書に数式は現れないが、スピノザの論理を追う為に一つひとつの言葉の定義を見定め、解釈(証明)をしていく本書の構成は、すらすらとその流れを追えるものでもない。何度も同じところを読み返しては、ああそうか、と納得するという行為が求められる(そんな苦労をしなくても読み通せる読者も居るとは思うけれど)。

    『ここからスピノザは、『エチカ』においてある意味で最も有名なテーゼを導き出す。自由意志の否定、あるいは意志の自由の否定である。論証は次のように進む。虚偽の観念は何かそれを虚偽たらしめる積極的なものをもっているわけではなく、観念の混乱や欠損のゆえに虚偽である(第二部定理三三、三五)。人間は自らの自由意志によって行為しているという「意見」こそ、そのような虚偽の一例に他ならない(第二部定理三五備考)。意志の自由という考えは原因についての認識の欠損にもとづいているからである。「そうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識する [conscius]が彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らない[ignarus]ということにのみ存するのである」(第二部定理三五備考)(中略)同じことは第一部の付録でも指摘されている。「彼らは自分の意欲および衝動を意識しているが彼らを衝動ないし意欲に駆る原因は知らない」(第一部付録)』―『第四章 人間の本質としての意識/自由意思の否定』

    最新の科学的事実に基づく解釈によれば、人間の行動の始まりに際して、左脳を中心とした意識が立ち上がるより先に意識下の脳の活動があり、それによって次の行動が決定されるという。意識は気付くだけなのだ。著者は、これを(現代科学の新常識とスピノザの論理展開から導き出されるものの奇妙な呼応を)指摘するのだが、それによってスピノザの見立てを現代科学で権威付けするかのようでもある。そしてそんな例が幾度か出てくる。それが少しばかり気になる。基本的に著者の読みが論理的に展開するのを追うことは気持ちの良いこと(そう言えば内田樹のレヴィナス論考も似たような読書感を与えてくれる)なのだけれど、もちろん、スピノザの慧眼は当時知り得なかった科学的事実を先取りしていた可能性もあるのかも知れないけれど、それが如何に優れた観察と推量から提唱されていたものだとしても、証明可能な事実の積み重ねが在った訳ではない。なのでそんな風にスピノザを持ち上げることは行き過ぎのようにも感じるところがある。

    そんなことをしなくても、スピノザの徹底した原点の定義の明確化への志向と論理展開の凄みは十分に伝わってくる。特にそれがよく表れていると思ったのは「エチカ」の執筆を中断してまで記したという「神学・政治論」で示される、エデンの園のリンゴの実の逸話だ。スピノザは神を「完全なる存在」と規定し、もしリンゴの実を食べることが真に禁忌であったのなら神はアダムがそれを食べることを容易に阻止出来た筈だ、と結論する。だとすればアダムがリンゴの実を食べたこともまた神の意図の一つであったと解釈されなければならず、そうであるなら、その行為に託された意味(神の意図)とは人間が持つ特質の表れの一つである筈で、それが自由意志への希求(欲望)あるいは好奇心ということへ繋がるのだと展開する。そこからはパンドラの箱を開けたように権威主義的教会の一般的な聖書解釈・教条との摩擦が生じるのだが、それでもスピノザは完全なる存在の神という定義とその神からアダムに託された人間の自由な意思を求める精神という特質こそ信仰なのだと主張する。それは無神論者であると非難されることへの反証であった筈だが、スピノザの聖書解釈が権威主義とは相容れない解釈であることをいよいよ明白にもしてしまう。その展開を読み説く國分の文章を辿ることは非情にスリリングである。

    もちろん、本書を読んだからと言ってスピノザの哲学を理解したとは到底言い切れないが、判り易い入門書ではなく、こんな解説書を読むことで開ける地平というのも確かにあると実感させてくれる一冊だと思う。因みに、本書で得た知識を基にいわゆる一つの生成AIとスピノザについて会話したら、驚くほど面白かった、ということを記録しておこうと思う。たとえAIが神の如く振る舞ったとしても、それを面白いと思えることこそ人間の特質に違いないのだから。(この文章は、一部あるいは全て、生成AIが作成したもの、ではありません)

  • 『エチカ』を主軸に据えながらスピノザの構築した哲学の内容に迫るとともに、彼の思索の方法論から、その独自で徹底的な哲学に対する向き合い方も浮き彫りにした本。

    スピノザは先人の哲学を徹底的に批判的に検証することで、自らの哲学の土台を固めていった。その意味で、本書ではスピノザを「読む人」と呼んでいる。


    スピノザが特に徹底的に「読んだ」のが、デカルトの哲学である。そしてその有名なテーゼである「私は考える。故に、私は存在する」というコギト命題を検証し、論理の出発点となるべきこの命題にも、前提となる命題が含まれていることを発見する。

    この命題が「考えるためには存在しなければならない」という大前提を出発点にした三段論法になっていることを発見したのである。

    そして、スピノザはこの命題を「私は考えつつ存在する」という命題に書き換えるところから彼の哲学を出発させる。

    デカルトにとっては哲学の出発点は懐疑を突き詰めた先にたどり着く原点であったが、スピノザのこの命題を見ると、彼の哲学の原点は「考える自己の存在を認める」というような、認識の実在を認めるところから議論を始めようという態度に感じられる。

    「他者と共有できる真理の基準は存在しない」、「真理であること、確実であることを人間が知るのは、ただ、その人自ら、真の認識、確実な観念を得た時だけである」という考え方は、一見客観性を欠くようにも感じられるが、デカルトの懐疑論を徹底的に検討した上で、スピノザはこのような基盤の上にしか哲学を構築することはできないという考えに至った。デカルトとスピノザのこの違いは、印象的であった。


    一方で、スピノザはデカルトから総合的方法という証明の方法を受け継いでいる。総合的方法とは、分析的方法と対比される方法であり、原因あるいは原理から諸々の結果へと論理的に推論を重ねて行く方法である。

    デカルトも、結果を分析することで原因を把握する分析的方法では真理を発見することはできないとして、総合的方法を重視したが、スピノザもこの考えは踏襲している。そして、このような発想から、『エチカ』の幾何学的様式による論述の方法は生まれた。


    それでは、このような土台と方法論の上に、スピノザはどのような哲学を構築したのか?『エチカ』は第一部で議論の土台となる定理、定義を述べた上で、神の存在証明を行い、そのことにより、彼の考える実体論を明らかにする。その上で、第二部において、我々の精神や身体と認識の関係性について説明する。そして、第三部ではそれをさらに我々の感情や意識に対する理論へと敷衍していく。

    『エチカ』はその神の定義の独自性においても非常に有名である。神の本質はその存在にあり、そして全ての存在は神が多様な形で現れたもの、神の変状であるという考え方である。これはスピノザの神に対する考え方を述べたものと捉えることもできるが、本書によるとより本質的には、スピノザの存在論であるという。

    彼にとっては、真理とは何か、存在の本質とは何かということが根本的な出発点であり、そのことを「神」と呼んだということではないか。これは彼の『エチカ』が神学ではなく哲学であるということの重要な意味ではないかと思う。

    そして、このように実体(=神)とその変状としての様々な存在という構造を、彼は認識論や人間の精神に関する議論へと展開していく。

    人間を含め、様々な存在は神の変状、一つの様態であるが、我々自身はその全体像を認識することはできない。ではどのようにして我々が少なくともその中の「自己の身体や精神」を認識するかというと、それは身体や精神に生じる差異を知覚することによってであるとスピノザは考えている。

    例えば、体が何かにぶつかれば、我々は刺激を受ける。このような刺激が生む差異が、徐々に我々に自己の身体に対する観念を形作っていくという考え方である。そしてそのような形で身体の観念を知覚しているという状態を認識する時に、我々は自己の身体というものを認識する。

    そして、我々が自己を認識することができるということが基礎となって、第三部では認識論から、感情と我々の本質という議論へとスピノザは進んでいく。

    第三部でまず定義されるのは我々の感情である。スピノザの定義によれば、感情は身体の変状であり、同時にその観念である。この定義は、第二部の認識論から連続的である。そして、スピノザはこのようにして生まれる感情が、我々の活動能力を増大させるプラスの方向と、減少させるマイナスの方向を持っていると考えている。

    そして、スピノザは、ここでコナトゥスという概念を導入する。コナトゥスとは、「その個体が自らの存在に固執しようとする傾向性」のことである。様々な刺激との相互作用において感情という形で変状する我々の存在であるが、それを受動的に受け取って影響を受けているだけではなく、コナトゥスによって能動的にその刺激を感情に繋げている。コナトゥスはその意味で「変状する力」とも言うことができる。スピノザは、全ての存在にはコナトゥスがあり、その物の「本質」を表しているという。

    そしてまた人間に関してコナトゥスを別の角度から見ると、「欲望」ということもできるとスピノザは述べている。人間は自らのコナトゥス(変状する力)を意識することができ、そのような意識を持った衝動は、欲望と呼ぶことができるというのである。この「欲望」は人間に特有の感情である。

    彼はこの後第四部、第五部で、この「欲望」を基盤として、人間の意識が何をなしうるか、我々はいかにあるべきかということへと、論を進めていく。

    存在論から認識論へと展開し、そこから感情、特に「欲望」を人間の本質と位置づける議論の流れは、スピノザの『エチカ』のとても独創的なところであり、また『エチカ』が哲学であると同時に人間の倫理のあり方へと展開していく上で、非常に重要な道筋となっているように感じる。


    第四部と第五部では、いよいよ『エチカ』が目指す倫理について最終的に述べられることになる。

    ここでスピノザは、善と悪について語っている。スピノザにとって善とは、「我々の形成する人間本性の型にますます近づく手段になることを我々が覚知するもの」である。そしてこの「人間本性の型」とは、第三部で取り上げられたコナトゥスに沿った方向性であり、我々の活動能力をより高めることにつながる。

    そして、コナトゥスは「欲望」ということもできるのであった。したがって、スピノザの考える倫理は、我々の自己の利益とも密接に関係がある。

    しかし、『エチカ』は快楽主義の書ではないと筆者は述べている。そうではなく、コナトゥスに沿って自らの活動能力をより高めるよう行動すること、「自分を知ること、そして自らの本性に従って行動できるよう、すなわち有徳的であるよう、『自己の利益』を求めることが肝心なのである」。これは、我々自身の能動性を高めるということにもつながる。

    また、そもそも我々は完全な存在である神の様々な変状の現れの一つなのであるが、我々自身はそういう意味で神ともつながりを持っている。そして、人間が「神への知的愛」を持つことによって、自分自身の能力を高めることによる満足と無限なる神の観念を意識することがつながる。

    このことにより得られる喜びは、人間が望みうる最高の喜びであると、スピノザは考えている。人間自身の能動性を高めることと、彼が神と呼ぶ完全性への観念を一致させること、これが、スピノザが目指した倫理であり、徳であるということだろうか。


    スピノザは、その主著『エチカ』によって、人間が持つ感情を駆動力とした能動性を基礎にした倫理のあり方を構築した。本書では『エチカ』を読み解くことで、その論理の流れを丁寧に追いかけている。

    さらに本書では、スピノザのその他の著書にも言及をし、人間の個としてのあり方だけではなく、社会や国家についてのスピノザの論考も紹介している。中でも特に、『エチカ』と共にスピノザの主著と言われる『神学・政治論』は、スピノザがその哲学を宗教や社会に関する議論に展開したものとして、興味深い。

    この本の中で、そのタイトル通り彼は、神学についてと国家について論じている。

    スピノザは23歳でユダヤ教のシナゴーグから破門されたのであるが、この本において神学を論じる中で、彼は宗教を人間の生活や国家の平和のために不可欠なものと位置づけている。そして、迷信に陥ることなく聖書から一人ひとりがそのポテンシャルを最大限に引き出す読み方を、様々な歴史物語の読み解きを通じて、語っている。

    このような姿勢やその中で語られている聖書の解釈は、正統的なユダヤ教の解釈とは異なるものではあり、そのために彼は既存のユダヤ教のコミュニティからは拒絶されたのであるが、彼自身の宗教への向き合い方は、現代のわれわれにも示唆するところが多い。

    また、この本の後半は政治や国家のあり方を論じている。この中でも彼は、法制度や理性的な計算だけでは政治秩序は作り出せず、そこには神に対する意識が必要であると述べている。ここで神に対する意識と彼が呼んでいるものは『エチカ』と対照して読むと、完全性を持った実体である神に向かって自らの能動性を働かせることを至上の喜びとするという姿勢であると考えることができる。

    ホッブズからロックやルソーへと続いた、自然権を基礎とした社会契約論では、人間が自然権を社会契約によって国家に移譲することによって社会が構築されていくことになるが、スピノザは、自然権とはその個体に与えられた力そのもの、つまりはその物の本質であるため、これを他に移譲することはできないと考えている。

    そのため、彼は自然権を委譲するのではなくそれをいかに働かせるべきかというところから社会論を構築した。このことは、彼の社会論、政治論の非常に特徴的なところであると感じた。


    彼の哲学は、その神の概念の独自性や、我々の感情、特に欲望の働きに立脚した倫理学という組み立て方のために、非常に難解と言われている。本書ではそのような彼の論旨を、非常に丁寧に説明してくれている。また、それを我々の生き方や、社会論とつなげて考えることで、現代の我々にとっても開かれた問いとして、この哲学を位置づけている。

    スピノザ自身が、デカルトを徹底的に読むことで自らの哲学を構築し、また聖書を徹底的に読むことの重要性を述べているように、我々自身もスピノザを読み、それを自らの意識や問題に引きつけて考えることが大切であるということを、感じさせてくれた。

  • スピノザに惚れ込んでから、手当たり次第スピノザ本を読んできたが、この本は新書の体裁ながら、第一級のスピノザ研究である。現時点で日本語で読める最上のスピノザ解釈ではないかと思える。
    著者が10年以上かけて書き上げたというのは、むべなるかな。
    一切の外的なるもの=超越的なものを必要とせず、すなわち目的論を徹底排除し、内在的なるもので世界と人間を語り尽くすスピノザ。
    この哲学の射程は驚くほど広大である。

  • p.2022/10/24

  • スピノザに興味があったわけではない。國分さんの本ならということで読んだ。「あこがれの連鎖」ということで、好きな人が好きなものだからどんなものか見てみようというわけ。これがいつもうまくいくというわけではなく、好きな人の好きなものを好きになれるとは限らないのだ。さて、正月休み1週間かけて読み切れずに、あと3日、通勤途中に読んだのだが、またしても頭に残っているのはほんのわずか。スピノザの生涯を読むという部分ではある程度意味はあったが、その思想を知るという部分はさっぱりであった。かろうじて神のとらえ方が頭に残っている。正しいかどうかは別として。物理学との類推で言って、神は空間、つまり宇宙すべてを占めている。そしてその外には何もない。この宇宙の中で何かが生成し消滅していく。総質量は保存している。これは完璧な神だ。神はすべてを知っている。一時にすべてを把握できる。未来永劫、宇宙が膨張しようとも、はたまた収縮に転じようとも、あまねくすべてを埋め尽くしている。僕なんかが想像する八百万の神とはほど遠い。そして意識。意識と良心はもともと同じことばだったという。conscientia 共通の知というようなところ。それが正しい知であれば良心と考えてよいということだろうか。間違った知を持つ人々は昔からいたとは思うけれど。ところで意識は人間に特有なものか。人も寝ているときには意識をなくしている。そういう意味では寝る生き物は意識を持っているということになる。これは養老先生から聞いた話(YouTubeで)だが、そうするとAIには意識が生まれないということか。政治のこと国家のことなども論じられていたようだが、総体的にはところどころ頭に残っていながらも全体像はまったくつかめないまま読み終わったという感じだ。そして、コナトゥスの意味はやはりつかみ切れない。

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科准教授

「2020年 『責任の生成 中動態と当事者研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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