- Amazon.co.jp ・本 (250ページ)
- / ISBN・EAN: 9784006000097
感想・レビュー・書評
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まだ分からない。まだ分からないけれど、ようやく存在とその周辺の時間性がかすめるようになってきた。もう少しだ、もう少し
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本格的な哲学の話にはまったく疎く用語や概念・論理が頭に入ってこず、日本語を読んでいるとは思えない歯痒さの中で一応読み終えた。最後迄字面を追えたことで良しとしよう。木田元はわかり易く書いているが、概要を纏めてコメントするまでには理解できていない。しかし諦めるつもりはなく、哲学と仏教は読書活動の最終領域として読力と思考力が続く限り追求していく。このハイデガーの『存在と時間』、本質的な問題であることがわかってきたので「ぶつかり稽古」のように読み続ける。
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現象学関連の翻訳者として著名な木田元による『存在と時間』の解説書。ただし、ハイデッガー(本書ではハイデガーと表記する)の哲学思想をある程度咀嚼できていないと、本書の読解は難しいだろう。「存在と存在者」、「時間という概念においてのみ存在を存在たらしめる」ということの理解が前提となる。
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2010/08/15読了
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ハイデガーの『存在と時間』は二十世紀最大の哲学書として名高いが、これが実は未完であることはあまり知られていないのではないだろうか。
ハイデガーが目指したのはあくまでも「存在とは何か」という問いであった。しかるにその存在を了解しているはずの人間――現存在――を準備作業として分析しているうちに、『存在と時間』は慌しく幕を閉じてしまう。長い前置きの後に待っていたはずの本論を、ハイデガーが書き継ぐことはついになかった。
そのことによって『存在と時間』に代表されるハイデガーの前期思想を実存主義と呼ぶことが多いが、それはおかしいと木田は指摘する。『存在と時間』を書き始めたとき、ハイデガーの頭の中ではすでに後半部の存在論が出来上がっていたはずである。否むしろ後半部が完成していたからこそ、その準備としての前半部を書くことができたのだろう。思索の順序と著述の順序が逆転しているのであり、書き終えた部分だけを拾い上げて実存主義と命名するのは不当である。そして木田はハイデガー研究家としての豊富な知識と洞察力を駆使して、あろうことか『存在と時間』の未完部分を再構成してしまう。
木田によればハイデガーが企てていたのは「存在」概念を覆すことであった。西洋哲学全体は非本来的な時間性に基づく通俗的存在概念(存在=被制作性)を基底として形成されてきた。西洋文化の行き詰まりを打開するためには、ニーチェを起源とするあらたな存在概念(存在=生成)を構成するしかない。しかしながらその試みは、人間中心主義的な文化を人間中心主義的なやり方で克服するという自己矛盾を含んでおり、だからこそ『存在と時間』は挫折したのだと木田は分析する。
「実存は本質に先立つ」とサルトルは言った。それは「本質存在(エッセンティア)が事実存在(エクシステンティア)に先行する」と言ってきたプラトン以来の形而上学的命題の逆転であった。しかし最大の問題は本質存在(デアル)と事実存在(ガアル)がなぜ分岐したのかということである。その分岐と共に、すなわち存在(ガアル)に対する驚きと共に、哲学が始まったのだ。そうハイデガーは考えていたと木田は敷衍する。
個人的に興味深かったのは、世界内存在という概念は生物学に起源があるという解説の中で、シグナルとシンボルの違いについて触れられている点であった。動物はシグナルは理解するがシンボルは理解できない。シンボル機能とは関係を関係づけるメタ構造化機能であり、言語を扱う人間のみがその能力を持っているという。ハイデガーに興味のない読者には退屈かも知れないが、優れた研究書としてお薦めしたい一冊である。 -
7.4.26
著者 梅沢さん推奨 -
そもそも大著「存在と時間」が未完だったとは…
というそもそもの驚きのところから読み始めた。本来予定されていた目次に目を通すだけでもわくわくしてくる。
だけど何回読んでもすべてはわからない。
存在の帰結が有限な時間性にあるとしよう。
では現存在が時間的動物になったのはいつからだろう。
近代以前のキリストの教えの中では死後の復活があり、当時はそこまで時間的動物である必要があっただろうか。
など際限なく思考を広げさせてもらった。 -
ハイデガーの『存在と時間』の未刊部分を構築するという意図で書かれた本。著者は、『現象学の根本問題』などの講義録を渉猟し、この時期のハイデガーの企図を推測している。
著者のハイデガー解釈がすばらしいことはもちろん認める。だが、これまでさまざまなところで著者が論じてきたことからの、大きな発展が見られるわけではない。とりわけ、『わたしの哲学入門』(新書館)との重複が目立ちすぎる。
『わたしの哲学入門』はあくまで「哲学入門」という位置づけであり、ハイデガーの「存在の歴史」の構想を紹介することで、西洋哲学の主要問題を読者に分かりやすく提示することが目的であるのに対して、本書はあくまでもハイデガーの思想そのものを論じているといわれてしまえば、それ以上文句はつけにくいのだが、どうにも納得がいかない。 -
これから何度目かの通読をしようと思う。頭の中をすっきりさせて、自分のフィールドに集中するためだ。渡部昇一先生のいうところの「古典」となりつつある同著をしっかり自分のものとしたい。
この後、木田元先生の「反哲学入門」を再読し、和辻哲郎著「人間の学としての倫理学」や「アリストテレス倫理学入門」J.O.アームソン著に取り掛かりたい。
どうも社会的排除や社会的包摂という概念を理解し、実践するには哲学における倫理学の理解が不可欠だと思うからだ。当然、社会学の知識も動員しなければならないので、しっかりと時間をかけて取り組みたい。