西田幾多郎の憂鬱 (岩波現代文庫)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006002503

作品紹介・あらすじ

西田幾多郎(一八七〇‐一九四五)の人生。それは一人の人間の個別的な営みを超え、明治から昭和に至る奔流のただなかに姿を見せ始めた「日本」を集約し、体現するものだった。同時代の多彩な資料に基づく実証的手法によって克明に描き出される哲学者の苦悩と格闘の人生に、近代日本の成立過程に現出した幾多の問題系を照射する斬新な評伝的批評。

感想・レビュー・書評

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  • 西田幾多郎の憂鬱
    (和書)2012年08月22日 15:29
    2003 岩波書店 小林 敏明


    西田幾多郎記念哲学館(石川県宇ノ気町)が表紙に使われているが打ちっ放しのコンクリートのピーコンなどが写っているだけでどういう建築だか解らない。それでgoogleの画像で検索してみた。それでどういう建築なのだか知ったがシンプルな表紙の写真もそれなりの意図があって採用されたのだろう。

    西田幾多郎は幼少の頃より名前だけは知っていた。父の蔵書に「西田幾多郎全集」がどっさりあったからだ。あまり読む気は起こらなかったが、岩波文庫の「善の研究」だけはよんだことがある。こういった本を読む時、僕自身はどうしてこんな自明なことを考えることが凄いのだろうかとあまり理解できないことが多い。そしてそういったことを考えること自体がそれなりに価値があることだろうとそして自分自身もそういったことを考えること自体が答えが出ずとも価値があるものの一つだろうと考える。

    西田幾多郎さんの評伝の様にも読めて、今まで知らなかったこと誤解していたことが明確になった。なかなか有益な読書だと思う。

    西田幾多郎さんに興味がある人にこの小林敏明さんの本はかなりお勧めできます。他にも小林敏明さんの西田幾多郎の本があるとのことですが図書館に蔵書がないので未読です。

  • 近代日本を代表する哲学者・西田幾多郎。その”人間性”に迫ります。次々に家族を亡くすなど、苦しみに満ちた私生活。「憂鬱の人」として、新たな人物像が浮かび上がります。

  • 解説:熊野純彦

  •  西田幾多郎はいうまでもなく日本を代表する哲学者。「自覚が自覚において自覚する」みたいな人だ。本書のジャンルは、著者あとがきによれば〈評伝の形式を取った新たな「批判」形式の模索〉であり、新たな西田像を提示する目論見である。

     まず、著者は、西田の和辻哲郎への書簡中にある自己描写に「生来の無精者であり且つmelancholyに陥りやすいもの」とあることなどをひきつつ、「西田幾多郎のメランコリー」あるいは「憂鬱な人・西田幾多郎」というテーゼを呈示する。そして、没落する家・父のもとに出自し、その人生のなかで多くの肉親の病気や死にあった生活誌的事実を記す。それからの記述は編年体で進むわけではなく、20の章それぞれで、西田の生活誌的事実に即しながら、様々な観点からその思索の跡を追っていく。ドイツ・ロマン主義との関係、宗教との関わり合い、外国語との格闘、慰戯としての和歌などである。
     著者は〈なければならない〉の頻出する西田独特の文体を、強迫性格と関連づけ、自分が考えているのか、他のものによって考えさせられているのか区別できないような強迫思考から西田哲学の思索の「必然性」が生じてきたと論ずる。

     他方、西田が『善の研究』を書いた明治末頃は、学術的研究書が文語ではなく口語で書かれるというのはいかにも異例のことであった。著者は『善の研究』を「初めて日本語で書かれた日本のオリジナルな哲学書」ではなく「初めて新しく作り出された日本語口語文体によって書かれた哲学書」であると喝破し、西田の文体を「グロテスク」「奇怪」(小林秀雄)などと評する批判が正鵠を誤っていることを指摘する。
     また、西田の「絶対無」の概念が数学への関心から影響を受けているのを指摘する章も興味深い。無理数という「無限に近づくことはできるが到達することはできない極限」は絶対面に接する円錐、反省の消磨点を思い起こさせる一方でラカンの対象aを連想させるし、西田の「無」の概念の矛盾した性格は数学、とりわけ集合論の「零」の逆説的なあり方から迫ると納得しやすくもなる。しかし、ゲーデルにおいて「無」は「解体」であり、「父の名」の解除であるのに対して、西田の「無」は「起源」を志向する無であって、「父の名」は解除されなかった、と著者は論ずる。
     著者の筆が冴えるのは「父殺しを試みる弟子たち」と題された章である。本書全体を通して「父」というテーマで貫かれていると著者も述べるのだが、西田自身と父とのアンビヴァレントな関係と裏腹に西田の性格は家父長的であったようだが、西田の多くの弟子たちが「父殺し」できずに自立に失敗していると指摘するのである。

     さて本書は終局に向かって、右翼、軍、第二次世界大戦下の政府との関連に焦点が絞られていく。西田は戦争協力者であったのかという問いに対しては、時に迎合のそぶりを見せて右翼や軍の批判を何とかかわしつつも、狂信的な皇道主義の軍政府とは一線を画していた、と著者は推測する。西田は、天皇制を「一地方国家の郷土意識」ととらえる一方で、「皇室は文化のPatronとしたい」と述べており、戦後の新憲法の象徴天皇制は西田の系譜にあるとみるのである。ここにおいて、西田のトラウマ化された「父」が今や象徴天皇制として昇華された、というのが著者の結論である。

  • 哲学者の思想もまた、生活や性格に影響されるんですね。「善の研究」を紐解く前に読めば、もっと理解度が上がるでしょう。
    「象徴天皇」という考えが終戦を知らず亡くなった西田幾多郎にあったという発想はおもしろいと思いました。

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著者プロフィール

ドイツ・ライプツィヒ大学教授を経て執筆活動に専念

「2020年 『闘う日本学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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