チャールズ・ダーウィンの生涯 進化論を生んだジェントルマンの社会 (朝日選書) (朝日選書 857)

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  • 朝日新聞出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (331ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022599575

作品紹介・あらすじ

ダーウィンの生涯は、イギリス・ヴィクトリア時代のジェントルマン(上層中流階級)の生活そのものだった。医師で資本家の父ロバートの下、ケンブリッジでジェントルマンとしての教養教育を受け、国教会の牧師になるつもりだったが、海軍の調査船ビーグル号に艦長の話し相手として乗船することになり、その機会に取り組んだ自然史研究によって、その一生は大きく変わる。帰国後のロンドンでの科学者仲間との交流から、進化論への歩みが始まる。ウェジウッド家のエマとの結婚や、その後の生活と研究は、裕福な資産に支えられていた。ヴィクトリア朝の世界帝国イギリス、その繁栄を担ったジェントルマン層、その一員だったダーウィンが、その時期に、その場所で進化論を生み出したのはなぜか。近年、進展著しいダーウィン研究の成果を織りこんで描くダーウィンとその時代。

感想・レビュー・書評

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  •  この本は、チャールズダーウィンの生誕から200年、種の起源の出版から150年という記念的な年に刊行されたダーウィンの伝記である。

     偉大な功績を残した彼であるが様々な誤解もされており、この伝記を書いた松永氏は、それを払拭するため徹底した文献調査と事実の列挙でダーウィンの生涯を追っている。そのため、事実の正確さと十分さを信頼できることは間違いない。

     私は、『種の起源』の背景知識を得るためにこの本を読んだ。これで準備は整ったと思い、光文社古典新訳文庫版の種の起源を読んだ。結果、本文内容のいくつかの具体的な記述と訳者の解説を読む上で背景知識が実際に役に立った。特に訳者の解説を読む上で、記述の細かいニュアンスを拾うことに関して威力を発揮した。
     
     このような経験を踏まえ、種の起源に挑戦しようとする読者に向けてアドバイスするなら、種の起源をダーウィンの来歴と社会背景まで踏まえて読もうとする本格派の人にはこの本をオススメする。一方で自然淘汰説自体に興味がある人には、あまり向いていない。本書はその目的にしては過剰なボリュームだからだ。そのような人は、100分で名著の種の起源の解説本で予備知識を得ることをオススメする。それでも十分ダーウィンを感じることができると私は思う。

  • 著者は生物学史の教授で、これ以前にダーウィンの本を3冊発行している。ひとりの人物の伝記としては内容が綿密で、周囲とのやり取りからはダーウィンの人柄も伝わってくる。

    祖父エラズマスは医師として活躍し、3万ポンド以上の遺産を残したほか、王立協会の会員となって科学者としても活躍した。父ロバートも医師として働いたほか、それ以上の収入を資産運用から得ていた。残した遺産は20万ポンド以上だった。エマの祖父ジョサイア・ウェジウッドは陶器製造業で成功し、遺産は50万ポンドあった。

    チャールズ・ダーウィンは、6人兄弟の5番目の子供として、1809年イングランド西部のシュルズベリーで生まれた。16歳でエジンバラ医学校に入学したが、医学には意欲を失い、地質学や無脊椎動物学に関心を向けた。卒業後はイングランド教会の牧師なることを目指してケンブリッジ大学に進んだが、自然史を教えるヘンズロー教授のもとに入り浸るようになった。ケンブリッジの最後の年には、フンボルトの「南アメリカ旅行記」やハーシェルの「自然哲学研究序論」を読んで関心を持ち、カナリア諸島に行く計画も立てていた。

    ダーウィンは、ヘンズロー教授の紹介で、船長フィッツ=ロイの話し相手としてビーグル号に乗船することになり、1831年から1836年まで航海した。航海中にヘンズローに送った手紙から、地質学に関する部分を抜粋したものが地質学会で報告され、学会誌に掲載された。帰国後、航海中に記した日記を基にした「ビーグル号航海記」を1839年に刊行し、動物標本の研究をまとめて1838〜1842年に刊行された「ビーグル号航海の動物学」では、編集のほか序論や地質学概論などを執筆した。1842〜46年にはサンゴ礁や火山島などの三部作を発表するなど、地質学者として活躍した。

    1839年、エマ・ウェジウッドと結婚し、42年にロンドンの東南20kmにあるダウンに転居し、規則正しい日常生活を送った。起床後、散歩をして朝食を済ませた後、8時から12時まで仕事をし、散歩をして昼食を取った後、新聞を読み、手紙を書き、15時から休みながらエマに小説を読んでもらった。16時半から1時間だけ仕事をして、再び休み、19時半に軽食を摂った後、エマとゲームを楽しんだりピアノを聞いたりして、22時に寝室に入った。チャールズは父から年間400ポンド、結婚後は年間500ポンドを支給されたほか、1万ポンドの債権による利息を得ていた。エマも父親から同様の支給を得ていた。1848年に父親が亡くなって遺産を相続すると、株や債券への投資によって、50年代に年間5000ポンド、60年代に6000ポンド、70年代に8000ポンドの収入を得ていた(当時の1ポンドは現在の1万円ほど)。研究の記録と同様の熱意で収支の詳細を記帳していた。

    航海中の南アメリカの化石やガラパゴス諸島の種の強い印象を受けて、1837年から「転成ノートブック」を始めた。1842年に学説の概要を35ページの「ペンシル・スケッチ」としてまとめ、44年にはそれを拡充した「エセー」を「種の起源」と同じ構成で執筆したが、公表はしなかった。1846年からは、航海中に発見した新種の蔓脚類を報告することをきっかけに8年間にわたって蔓脚類を研究し、飼育栽培化だけでなく自然界にも変異があふれていることに気づき、自然選択による枝分かれ的進化によって全体像が理解できることに確信を持つことになった。1853年には、地質学と蔓脚類の研究が評価されて、王立協会のロイヤル・メダルを受賞した。

    1854年に蔓脚類の研究を終えて、進化研究を再開した。1855年、ウォレスがサラワクで執筆した論文「新種の導入を支配する法則について」で生物の進化を示唆すると、ライエルはダーウィンに対して進化理論の概要を発表するよう勧め、ダーウィンは1856年に「自然選択」と名付けた大著を書き始めた。ウォーレスは1858年に、種が変化する仕組みとして分岐を提案したテルテナ論文を執筆し、それに自分の学説と同じものを読み取ったダーウィンは、友人に送った学説要旨と「エセー」の抜粋とともにウォーレスの論文を学会に送った。学会の発表後、「自然選択」の抄録を執筆し始め、1859年に「種の起源」初版が刊行された。当初はこれを非難する論調が目立ったが、生物進化の考えは急速に広まり、10年後にはイギリスの科学界では常識となった。

    1860年には、「自然選択」の最初の2章を基にして「飼育栽培のもとでの変異」の執筆に着手し、68年に刊行された。その後、「人間の由来、および性選択」が1871年に、「人間と動物の感情の表現」が72年に刊行された。1975年以降は、植物学の著書を出版し、植物の他家受精が一般的であることを証明した。1880年からはミミズの研究に没頭し、「ミミズの作用による土壌と形成」が81年に刊行された。

    1876年には「我が心と性格の発達についての思い出」を執筆したが、公開はしなかった。1882年、心臓病の悪化により死去後、三男フランシス編集の「チャールズ・ダーウィンの生涯と書簡」が1887年に出版されたが、自伝からは知人たちへの批判などは削除された。完全な自伝は、1958年に孫娘によって出版された。ダウンの自宅はしばらくの間女学校の校舎として貸し出されていたが、1927年に買い上げられて以前の状態に戻され、ダーウィン博物館として公開されるようになった。

  • 桃山学院大学附属図書館蔵書検索OPACへ↓
    https://indus.andrew.ac.jp/opac/book/501657

  • ダーウィンはなぜ、ビーグル号に乗船できたのか
    二人の偉大な祖父
    シュルズベリーの名医
    エジンバラ医学校
    ケンブリッジ大学
    ビーグル号航海
    ビーグル号航海の地質学
    独身時代のロンドン生活
    進化論への道
    エマとの結婚
    ダウン・ハウスの生活
    大著『自然選択』
    『種の起源』
    『飼育栽培のもとでの変異』と『人間の由来』
    植物の研究
    晩年
    ダーウィンは何を成しとげたのか

  • ダーウィンが研究と著作と執筆に打ち込めたのは実家が金持ちだったから。そんなどうでもいいところに着目してしまった。ただそれ以上に、ダーウィンの深い探求心や、五感を駆使した行動力には驚くほかない。

    ただの頭でっかちでは良くない。行動力も伴わないと。もちろん、金もあるに越したことはないが…。

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