- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784044005863
作品紹介・あらすじ
電車、銀座の街頭、デパートの食堂、花鳥草木など、生けるものの世界に俳諧を見出し、人生を見出して、科学と調和させた独自の随筆集。「春六題」「蓑蟲と蜘蛛」「疑問と空想」「凍雨と冬夜」他39篇収録。
感想・レビュー・書評
-
久々に寺田寅彦に触れた気がする。
読んでいると、小学生の頃に感じていたような、季節の匂いや、人の家のよそよそしさ、祭の時の変な賑わいと一体感なんかが蘇ったのだった。
この一冊を読んでいると、色んな人が現れる。
いや、まあ、そんなことは当たり前なのだけど、腕のない人、足のない人、病んだ人、商いをする人。
それぞれにどこか、不整合な感じのする人たちが現れることに、逆説的な生を感じる。
また、家の中が見えて、声が聞こえてくる。
どんな暮らしを営み、表情をし、道端で物を売る声が響いているかが、よく分かる。
今の日本は、誰も彼も同じなのだ。
サラリーマンなんて言葉がいけないのかもしれないが、誰と誰が違うかなんて、ニュースに出て来る街並みからは見分けがつかない。
家の中も見えなければ、声もしない。
そういう、見えなくなった日々が、果たして寅彦のいた時代よりも「良い」のだろうか。
画面越しにしかコミュニケートが叶わず、そのことに便利さを感じている私たちは、ますます、お互いを見えなくしていくのかもしれない。
本当の一人は、きっと孤独ですらないのだ。
この頃に感じていた寅彦の、哀しさや寂しさを読んでいると、背景に沢山の人と生活がある。そう考えると、自分が考えていた寂しさの状態とは、もはや異質であるとさえ思う。
「騒々しい、殺風景な酒宴になんの心残りがあって帰りそこなったのか。帰りたい、今からでも帰りたいと便所の口の縁に立ったまま南天の枝にかかっている紙のてるてる坊さんに祈るように思う。雨の日の黄昏は知らぬ間に忍足で軒に迫って早や灯ともしごろの侘しい時刻になる。家のなかはだんだん賑かになる。はしゃいだ笑声などが頭に響いて侘しさを増すばかりである」
「なるべく新聞に出るような死に方を選ぶ人の心持は、やはりこの履物や上着を脱ぎ揃える心持もあるかもしれない。
結局はやはり『生きたい』のである。生きるための最後の手段が死だという錯覚に襲われるものと見える。自殺流行の一つの原因としては、やはり宗教の没落も数えられるかもしれない」
「売り声の滅びていくのは何故であるか、その理由は自分にはまだよく分らないが、しかし、亡びていくのは確かな事実らしい。
普通教育を受けた人間には、もはや真昼間町中を大きな声を立てて歩くのが気恥ずかしくてできなくなるのか、売り声で自分の存在を知らせるだけで、おとなしく買手の来るのを受動的に待っているだけでは商売にならない世の中になったのか、あるいはそれらの理由が共同作用をしているのか、これはそう簡単な問題でなさそうである」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
寺田寅彦は東大の理論物理学のセンセーだったけど、関東大震災後に地球科学者として地震に向かい、「天災は忘れた頃にやってくる」という名言を残しました。漱石の弟子で名文を書くし、俳句や短歌も上手い。今読んでも新鮮な気持ちになりますね。
(by Inokura) -
時代は違うが、科学者としても有名な著者であるが、科学者らしくない、表現豊かな文章に驚かされることばかり。身近なものに興味をもっていることも刺激的だ。読んでいるうちに今の時代との境目がなくなるのにも楽しくなってきた。
-
寺田寅彦という人を、友達に持ちたかった。
夫だともっと良かった?
お茶からお酒にかわり夜が更けても、おしゃべりしたい人。
-
寅彦自身が付けた書名ではないのだろうが、「歳時期」とあるように、春夏秋冬、四季折々の雨や風、暑さ寒さ、天候などの自然現象、植物や生き物を巡る観察や思いなどが綴られている。
科学的な記述がかなり比重を占めるものもあれば、随想的なものもあるが、こういったテーマでこんなに興味深い文章が書けるのかと、寅彦の凄さを改めて感じた。
有名な作品だが、亡き妻が団栗を拾う様子を思い出し、残された娘がドングリを拾いながら戯れる姿を見て思いを募らせる『団栗』、読む側も歳をとってきたせいもあり、読む度に沁みじみしたものを感じる。 -
どうも季節性の鬱病(までいかないかもしれないが)の気があったようで、春から夏にかけては頭が重くなるだの、脳が悪くて一夏田舎で静養したなどと書いている。(後者はちと羨ましい)