サウンド・コントロール 「声」の支配を断ち切って

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  • 角川学芸出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (252ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784046532398

感想・レビュー・書評

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  • どちらかというと、エッセイ?

  • 2012 9/17読了。筑波大学図書館情報学図書館で借りた。
    "声"の支配=音声メディアや語り方・音響等など、聴覚が人の精神にどれだけ影響するか/支配するか、という主題を一本通した上で、ルワンダでのジェノサイドとその加害者に対する市民裁判の様子、キリスト教と教会・聖堂音楽、日本の石山本願寺や能・猿楽、「お白州」、オウム真理教に入信しサリン事件の実行犯となって死刑判決を受けた元同級生についてと模擬裁判員裁判を見た際の感想など、様々なトピックを扱っていく。
    主題は呆れるくらいはっきりしている一方で、著者の関心に従って話が縦横に広がるので関連が見えにくかったり、もっとストーリー組み立てればなんの話がしたいのかわかりやすいだろうに、と思うような部分も多い。
    あとがきで著者自ら「フィールドノートのようでもある」と言っているが、然り、と思う。

    ただ、話し方はじめ聴覚に如何に人が支配されるか、そして実際に聖堂や過去の司法の場であるお白州が音響装置としてどのように権威者の声に力を与え、それ以外の発言権を奪っているかの解説部分はとてもおもしろい。
    その支配から脱するための文字メディア、という部分も。
    文章の流麗さとか以前に、単に声の大きさとか聞こえ方って部分がどれだけ影響力を持ってしまっているかは、「声の大きい奴の意見が通る」とかよく言う割にはあまり意識してなかったので、とても面白かった。

  • 伊藤乾「サウンド・コントロール」読んだ。権力/指導者のツールとしての声/響きと、音を最大限に利用するための構造を持つ建築物。おもしろかった。1冊の本としては散漫な構成だけど、裁判員制度や全体主義も扱っていて、自分で考える契機としてはいい。ぽんと素材を投げ出されたような。

  • タイトルを見る限りでは、ラジオを使ったものなどのサウンドによる脳へのコントロールだと思っていたのだが、まったくそういうものではなかった。若干最後のほうでは触れているのだが、全体を通してみて歴史というほうが近いのではないかと思う。始めのところで、動物のほうが人間と違い何倍も感覚器官が発達しているということを言っており、その例として白鳥をあげて所々に挟んでいるが、一体どういうことを言いたいのかあまりよく伝わってこなかった。歴史の著として読むのなら、そう違和感はないのだが、これを洗脳、マインド・コントロールを理解しようとして読むのならば、大いに期待を裏切られるに違いない。

  • 耳の機能は、目と比べると無防備なものである。いつだって「声」は、気付きに先だってやってくる。意識的に立ち切らないと、価値観や正義、善悪、自由と思っている自分自身の判断にまで、号令をくだしてしまうこともあるという。それがサウンド・コントロールである。いつの時代も民衆の絶大な支持を集めたのが、「声」の支配によるものであったことは歴史が証明している。カエサル、ナポレオン、ヒトラー。

    本書はそんな「声」の権力構造を、フィールドワークによる観察と、音楽的思考によって解き明かした一冊。著者は「行動する音楽家」として名高い、伊藤 乾氏。大学時代に物理学を専攻した後に、指揮者へと転身という変わったキャリアの持ち主である。

    ◆本書の目次
    第1部 南へ 一九九四/二〇〇七年、ルワンダ 草の上の合議
    第1章 サバンナの裁判員
    第2章 雨のガチャチャ

    第2部 西へ 司教座と法廷 ローマからギリシャへ
    第3章 ガリレオのメトロノーム
    第4章 官僚アンブロジウスの遠謀
    第5章 王座は蜂を駆逐する

    第3部 東へ 白い砂の沈黙 日出づる国の審判で
    第6章 石山本願寺能舞台縁起
    第7章 銀閣、二つのサイレンサー
    第8章 裁きの庭と「声」の装置

    第4部 北へ メディア被爆の罠を外せ! サウンド・コントロールと僕たちの未来
    第9章 確定の夜を超えて

    「サウンドコントロール」によって引き起こされた近年最大の悲劇は、ルワンダのジェノサイド(虐殺)である。ラジオの音楽番組によって煽りたてられたフツ族が、かつての支配層トゥチ族を「ルワンダに巣食うゴキブリ」と称し、祭祀の興奮状態のうちに虐殺を行った。100日ほどの間に80万とも130万とも言われる人が、鉈やハンマーなどの凶器によって命を落とした。まさに、「人民の人民による人民を対象として大虐殺」である。

    著者は、ジェノサイド事犯を裁く伝統法廷「ガチャチャ」の現場に出向く。元来文字を持たず、高度なオーラルカルチャーを持つルワンダでは、裁判のやり取りも口頭ベースで進んでいく。論理的に覚つかず、まるでちぐはぐなやり取りを目にし、文字を持たなかった時代の「裁判」のあり方に思いを巡らせる。そこから、著者の長い旅が始まる。

    ◆本書で紹介されている「声」の権力構造の一例
    ・ミラノの聖アンブロジウス大聖堂
    聖アンブロジウス大聖堂は、バジリカの中心に「司教座=トリビューン」が置かれている。比較的背の低い、石造りの天井を持つ「司教座」は何を意味するのか?石造りの「司教座」は固有の共鳴空間を持っている。その内部に立ち、低い天井に向かって発される大きな声は、他の人物の発言を排除して、ただ一人「大きな声」としてバジリカ建築物の中にろうろうと響く。一方で、バジリカ聖堂の中央、身廊部に立ち、祈りの言葉を発してみるとあらゆる言葉は聖堂の高すぎる天井に吸いこまれ、まったく響かないのを体感する。市民裁判員たちの声は「その他大勢」の雑音として排除され、特権的な聖座から響き渡る、大きく正しい声がすべてを覆い尽くしてしまう。

    ・長崎奉行所
    お白州と奉行の御座所との間は、一種の巨大な「縁側」になっている。この縁側は二段に段差がつけられており、左右は漆喰と木の壁で囲まれている。奉行の声はこの漆喰と木で作られた大きな空間を通り、縁側全体が一種の共鳴箱、つまりマイクやスピーカーの役割を果たしているわけだ。奉行の声は、「有無を言わさぬ威圧感を持った声」として響くように設計されているのだ。一方で玉砂利の「白洲」は音を吸収するサイレンサーだ。白洲の場に立たされた時点で咎人はもちろん訴人すら発する声からエコーが剥ぎ取られている。

    その他の場所も何箇所か訪ねているのだが、著者が最も注目していたのは、この二ヶ所ではないだろうか。それは、著者自身が地下鉄サリン事件の豊田被告と大学時代の同級生であったことと無縁ではあるまい。人の生死を懸けた判決が、どのような非対称な場で定められたのか追体験したい、そんな強い思いが伝わってくる。

    興味の対象を、専門性を持つ視点から観察し、総譜のテキストを編み出す。奇跡のような一冊である。

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著者プロフィール

1965年生まれ。作曲家=指揮者。ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督。
東京大学大学院物理学専攻修士課程、同総合文化研究科博士課程修了。第一回出光音楽賞ほか受賞。東京大学大学院情報学環・作曲=指揮・情報詩学研究室准教授。『さよなら、サイレント・ネイビー』(集英社)で第4回開高健ノンフィクション賞受賞。

「2009年 『ルワンダ・ワンダフル!』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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