道徳を基礎づける: 孟子VS.カント、ルソー、ニーチェ (講談社現代新書 1614)

  • 講談社
3.19
  • (2)
  • (3)
  • (14)
  • (1)
  • (1)
本棚登録 : 98
感想 : 8
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (306ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061496149

作品紹介・あらすじ

井戸に落ちそうになった子供を助けようとするのはなぜか-。誰にでもある経験を起点に、カント、ルソーや孟子を比較検証。洋の東西を軽々と超える、現代フランス哲学の俊秀の快著。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 10日ほどまえ千葉雅也氏から勧められたフランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける』を読み始めたのだが、いったいなぜぼくはこれまでこの本を読んでいなかったのか・・・。カント、ルソー、ニーチェ、そして孟子の「憐れみ」の比較哲学。これ必読書じゃないか!(自分の不勉強に驚愕)
    https://twitter.com/hazuma/status/889170050829230081

  • 面白かった。同じ問いへの回答として西洋の哲学者と孟子をできるだけ対応させようとしつつ、違いも浮き彫りにさせる。いくつかの論点。
    ・道徳的に振る舞わせるところのものは何か。ルソーは自己愛と憐れみにそれを基礎づけるが、それは自己愛の限界に囚われてしまう。カントは道徳と理性を一致させたが、それによって道徳に従うよう動機づけるものがなくなってしまう。孟子もルソーと同じように憐れみに基礎づけるが、孟子の場合は個人と社会という対立がそもそもないため、ルソーが直面する自己愛の限界という問題は避けられる。
    ・西洋の責任意識というのは弱い者の欠落・罪と結び付けられるが、中国の責任意識は強い者の過剰・過剰ゆえの愁いと結び付けられる。
    ・「道徳性の条件設定についての考察にはすべて、あるモデルが潜んでいる。それは、植物の発育のモデルである。それがモデルになるのは、植物の発育に対する経験が一般化できるからだ。草木を引っ張って、無理に発育させることはできないし、根もとの雑草を取らないで、放置しておくこともできない。」
    ・西洋は人間の道徳性を行為に結びつけて考え、行為の始まり・「なぜ」を問うようになった。中国は人間の道徳性を連続的なプロセスと考えたため、「なぜ」という始点の問題は生じず、「いかにして」ばかりが問われるようになった。
    ・「中国思想は、それ自体としての悪を認めず、困難を調整する理の内に、苦もなく吸収する。なるほど、中国思想は、神話や不安、そして問いかけから来る眩暈を免れている。アダムを必要としていないのである。だが、これではやはり困難を巧みにかわしているだけである。」
    ・徳と幸福の話も面白い。孟子はカント(力virtuに対する徳vertuの優先)とマキャベリ(徳に対する力の優先)を両立させようとしていた。孟子とマキャベリは、どちらも徳と力を一致させる点で共通しているが、マキャベリのように力が徳を事後的に正当化するという形で一致を説明するのではなく、力を持つからには始めから徳が備わっていたはずだ、と説明する。孟子の世界観には徳が敗れるということがない。だが、もし正義が破れたら? そこで限界を迎えるのだと言う。

  • 道徳を基礎づけるという大まかすぎるテーマを基に、西洋代表としてニーチェやカント、ルソーを、東洋代表として孟子の教えを比較しながら検討するという次元を超えた偉業の書とも言うべき一冊です。
    が、カントやニーチェやルソーの思想はおろか、孟子の教えも碌に知らない僕(一知半解)が挑むのは厳しいものがありました。
    木を見て森を見ず。『神は死んだ』と聞いてもちんぷんかんぷんですが、その言葉の背景を理解していないとその真意が把捉できません。それと同じで、この本を読んでも一知半解は続きます(笑)。
    理性による道徳の基礎づけは限界がある。
    そして最終的には神や、孟子の言う天や聖人の存在に頼らざるを得なくなっています。
    井戸に落ちそうになった子供を見ると思わず手を伸ばしてしまう条件反射の説明を、その根源には神や神秘だとしか言えない…。

    今回は抜粋の量、質共に多いので、抜粋の文と私見をリンクさせながら書いていきます。

    ◎読者の中には、道徳の諸規則は理性に基礎づけられていて、自明だと考える人もいるだろう。だが、世の中を見ると、道徳の諸規則はきわめて多様であって、モンテーニュが述べたように、問題なのはむしろ、確固として築かれた慣習であり、それに慣れ親しむことで、わたしたちが「眠らされてしまう」ことである。わたしたちは先入見でしかないものを「理性」と取り違えているのだ。
    (中略)さらにもう一つ決定的な一撃が、道徳の基盤に向けられる。世の中を力関係からしか考えなくなると、道徳は一転して手段となってしまい、もはや戦略的な機能しか持たなくなる。
    (第二章 基礎づけか比較か)
    →西洋からは原罪から端を発する神の教えに従えと。東洋からは善行の積み重ねが天や聖人に導くと。しかしここで疑問が出てきます。この世にはびこる悪の現状、善悪のつけられないジレンマの存在等です。例えば戦争があります。チャップリンの言葉『一人を殺せば犯罪者となり、百万人を殺せば英雄となる。数が殺人を聖化する』が端的に表しているように。またドストエフスキーの『罪と罰』の物語、一人の老婆を殺す事で幾人もの不幸が救われると考える主人公の理論は道徳的価値観の究極のジレンマに相当すると思います。
    道徳の価値観も地域や文化に依存しています。日本では死刑制度がありますが、西洋では人権侵害として非難の的となっていますし、生贄の文化だって否定できるものではありません。絶滅危機の動物のドキュメンタリー番組では、それらが弱肉強食の世界で天敵に食べられる姿が放送されますが、『絶滅の危機なのに、暢気に撮影してないで保護しろよ!』と小学生の当時は思ったものです。

    ◎マルクスは、道徳がオカルト的であると同時に奴隷的であることをあばき、それが常に支配階級に握られていて、宗教にならって既存の秩序を固定化する役割しか果たしていないと述べた。フロイトは、道徳性を、それを産み出す心のメカニズムへと引き戻した。つまり、道徳心は、超自我が構成されたことの結果にすぎず、その超自我自体も、幼年時代に、両親やその代わりとなった人々の理想化されたイメージの投影でしかないと述べた。
    (第二章 基礎づけか比較か)
    →秩序を安定化するための手段として道徳があると考える道徳理性主義にも限界があります。
    なぜ人を殺してはいけないのか。人を殺す権利が無いからである。ではなぜ動物は殺して良いのか。それは人が生きていくために必要だから。では必要があれば人を殺して良いのか。さらに言えば、植物で生を賄えば良いではないか。しかし植物は意思を表現できないだけで、殺し易いから罪の意識が薄いのではないか。そうなればどこまで行っても生きていくためには傲慢にならざるを得ない…。
    犠牲を最小限にする。このあたりで神や天の教えが出てきそうです。

    ◎反対に、悪意が人間の根本に含まれていることは、容易に証明できる。(中略)プレス機は、木が曲がっているからこそ、それを真っ直ぐにするために存在せる。同様に、道徳という道具があるのは、人間の本性を正すのに必要だと思われたからである。つまりは、人間の本性が起源から悪であったからである。(中略)自分で持っているものならば、誰も探そうとはしない。したがって、人が道徳を熱望するのは、本来的に道徳を欠いているからである。
    (中略)荀子とホッブスも思想は同じで、すなわち、社会による規制を受け入れないかぎり、人は自然な乱の状態を克服することはできない。
    (第六章 善か悪か)(荀子の性悪説)
    →荀子やホッブスの性悪説にはもはや反論の余地が無いように感じます。ロックのタブララサも関連してきますね。
    万人の万人による闘争を避けるべく法の整備を解いたホッブス。法が整備され、安寧秩序になれば神の存在は不要となり『神は死んだ』となる。神の存在は人間を安寧に導く存在と言うニーチェ。

    ◎ニーチェが述べたように、キリスト教は、罪の感覚を育むことで、道徳心を洗練し、「精妙」にしたが、それだけでなく、道徳心が神への欲望に基づいていることも明らかにした。「神」を希求することで、わたしたちは他者と、内面から、そして無限に出会うことができるのだ。
    (第九章 天下を憂う)

    ◎こうした道徳性の条件設定についての考察にはすべて、あるモデルが潜んでいる。それは、植物のモデルである。植物の発育に対する経験が一般化できるからだ。
    (第十章 妄想的な意志?)
    →孟子の道徳観を植物モデルというくだりには『人間形成の日米比較』を思い出します。子供の躾や教育を、アメリカが動物モデル、日本が植物モデルと述べています。子供は親を脅かす存在、甘やかしを助長すれば、ともすると堕落した人間になりかねないからムチを持って厳しく接するという動物モデル、対して、赤ん坊は好きで泣いているわけではない、かんの虫が強いだけと甘えを受容し、自然に規範を身に付けていくとする植物モデル。ここでも宗教の姿が垣間見れます。

    ◎その考察は、「なぜ」ではなく、「いかにして」を問うのだ。
    (第十一章 自由の観念無しに)
    →道徳の考察を「なぜ」ではなく「いかにして」と問うことで道徳の意義を見い出す。西洋は「なぜ」と根源を突き詰めて考えるのに長けていて、日本人は「いかにして」有用するかに長けているように(文化として)思います。明治期では、西洋からの見慣れないものを忌憚なく吸収、受け入れたり、時には加工したりしてその価値を高める。加工産業に強い日本とリンクさせると、なるほど日本人は神の存在をプラグマティックに考えていたのかも知れません。

    ◎とはいえ、孟子とカントは、価値に対しては同じ経験を共有している。両者ともに、生を犠牲にしても構わない程に、何にも増して重要だと思われるものがあると、率直に述べているのだ。(中略)また、両者ともに、道徳的価値の超越性を表すのは、その空間的かつ時間的な普遍性だと考えている。
    (第十一章 自由の観念無しに)
    →命を犠牲にしても守るもの、今の日本ではあまり見られなくなったような気がします。平たく言えばプライドの問題です。

    ◎つまり、人間と動物の違いは、たとえば人間は神の似像だと理解された場合とは状況を事にしている。公然たる本質の違いではなく、可能性の違いなのだ。その違いは、存在論的もしくは神学的(あるいは存在=神学的)なものではなく、道徳的なものであり、すべてはこの違いがどう活かされるかに懸かっている。人間は自分の心を意識しなければ、動物に戻るし、逆にそれを現に保持していれば、その人は完成されてた聖人であり、絶対者である天にまで達する。この違いは「ほとんど無し(幾希)であるのに、底知れないものになりうる。わずかな違いが無限であり、そこに道徳の無限性がある。
    (第十一章 自由の観念無しに)

    ◎神の観念の中には、神の意図は完璧であることも含まれる。そうであれば、幸福と道徳性は正確に一致するという確信が持てるのだ。つまり、少なくともこの世と別の世界には、道徳的意図に適う因果関係が存在する。ここで再び、カントとルソーは合致する。(中略)解決策は、カントが言うように、「間接的」であって、別の場所や、事後においてしか可能ではない。つまり、別の世界か、死後である。たとえば、ルソーに次の言葉がある。「ああ、まず善なる人間になろう、それから幸福になろう」。ルソーは、この解決策は、「わたしたちの理解を超えている」が、「非理性的」ではないと述べ、カントはそれを「理性的信」だと述べた。
    (第十二章 正義は地上に存す)

    ◎(孟子は)徳が、この世界、ただ一つのこの世界において、直ちに報われることを確証することである。それには、道徳の報いは内在的であり、正義は地上に存し、彼岸を望みはしないと証明するしかない。(中略)孟子はこの命題を、実用的に、現実的な論拠から主張していた。つまり、個人的な利を目指す人は、実際には本来の利に背いており、利益の追求が、結局は利益を生まないことを示すのである。(中略)利他主義は、孟子はそれを仁の徳に備わる力だと考えた。ここには、波及と誘引という、相補的な二つの力がある。
    (第十二章 正義は地上に存す)

    ◎徳には、成功に導く力があるのだ。ところが反対に、世俗的な成功を目指し、利害関心によって道徳的な価値を修めても、その成功は一時的なものであり、真正のものではない。それは、利害関心にもとづくため、背徳的で、意図的で、駆け引きから生じるため、人為的であり、したがって、最初からうまくいく見込みがない。その反対に、徳がもたらす間接的な成功は、完璧に道徳的であると同時に、絶対に自然的である。ここで「天」という絶対者に再び結びつく。
    (第十三章 地は天に肩を並べる)
    →道徳的善を繰り返すことの意義やその報いを、西洋ではこの世以外かも知れない(来世や死後)と言い、神の存在と密接になっている。一方の東洋では、道徳の報いはこの世で必ず起きると言う。どこで報われるかは分からないから、更なる善行を奨励しています。まさに情けは人のためならず。

    ◎ここまでの孟子の議論をまとめよう。原則的には、徳が報われることは、不可避的なプロセスに属していることであって、経験においても検証される。しかしまた、徳が報われないということも、ストイックな無関心さで受け入れなければならない。こうして孟子は、不幸をも視野に入れるところにまで来たわけだが、それ以上進もうとはしなかった。
    しかしこれだけでも、王道による勝利といった道徳性の純粋な産物や、確実なその帰結として体系的に告げられてきた絶対者が、もはやこの世界においては保証されないことがわかったのである。絶対者は、歴史の中には完全に現れず、計り知れない「天」として、最後には再び登場したのである。
    (第十五章 道徳心は無制約者(天)に通じる)


    さて、本書の後半はその殆どを孟子の思想で埋めています。その中でも頻出した言葉が「仁」です。
    仁とは簡単に言えば思いやりです。相手を気遣う気持ち。
    新渡戸稲造の名著『武士道』にも詳細がありますが、ここでは割愛します。
    その「仁」という徳が最上の徳であり、それをもって善行を施しなさいと君子に言います。
    その思想は君子に留まらず広く一般大衆にも金言として受け入れられています。


    総評として…
    言うことを聞かない人たち、悪いことをする人たち、そういった人達にいったいどうすれば更生することができるのか、
    そのようなことを考えて手に取った本ですが、残念ながら処方箋や特効薬的なものは載っていません。
    道徳の本質、根源を東洋と西洋で比較した内容なので抽象的です。
    抜粋の文章でもわかる通り、難しい文章が随所に表れてきます(これでも分かりやすい内容を抜粋したつもりです)。
    約300ページにわたる優れた内容に、新書とは思えない鋭敏な考察や新たな発見があり、こういった内容に興味を持つ方には自信をもってオススメできる一冊です。
    …しかし今では廃番になっているので入手は難しいでしょう。
    僕の評価はAです。

  • 【図書館本】実にむつかしい本であった。道徳って大切だけど、人それぞれ持っているもの違うし、それを外から取得するのか、内から取り出すんか。カント、ルソー、ニーチェという西洋哲学の巨人たちと、孟子という東洋哲学の人を対比しながら。東西を並べて考えるっていうのが新鮮でした。
     

  • [ 内容 ]
    井戸に落ちそうになった子供を助けようとするのはなぜか―。
    誰にでもある経験を起点に、カント、ルソーや孟子を比較検証。
    洋の東西を軽々と超える、現代フランス哲学の俊秀の快著。

    [ 目次 ]
    1 憐れみをめぐる問題
    2 性と生について
    3 他者への責任
    4 意志と自由
    5 幸福と道徳の関係

    [ POP ]


    [ おすすめ度 ]

    ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
    ☆☆☆☆☆☆☆ 文章
    ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
    ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
    共感度(空振り三振・一部・参った!)
    読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • 中国哲学が、どう西洋倫理思想を刺激できるか、可能性を示している。中国思想はジェノサイドにはとどかないという点が印象的。

全8件中 1 - 8件を表示

著者プロフィール

1951年生まれ。フランスの高等師範学校で古典学を学び、ギリシア哲学研究の後、中国思想に取り組む。パリ第八大学教授、国際哲学コレージュ議長を経て、現在、パリ第七大学教授。著書に『無味礼讃』など多数。

「2017年 『道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

フランソワ・ジュリアンの作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
フランツ・カフカ
ヘミングウェイ
三島由紀夫
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×