- Amazon.co.jp ・本 (376ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061961012
作品紹介・あらすじ
『芸術的抵抗と挫折』『抒情の論理』の初期2著からユダヤ教に対する原始キリスト教の憎悪のパトスと反逆の倫理を追求した出世作「マチウ書試論」、非転向神話をつき崩し"転向"概念の根源的変換のきっかけとなった秀作「転向論」、最初期の詩論「エリアンの手記と詩」など敗戦後社会通念への深甚な違和を出発点に飛翔した吉本降明初期代表的エッセイ13篇を収録。
感想・レビュー・書評
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今年3月にお亡くなりになられた「戦後思想界の巨人」吉本隆明の初期の文芸評論と詩を所収。
あまり詩を読まない自分にとって冒頭の詩からがつーんときた。特に「エリアンの手記と詩」は失恋の痛手からの逃避と再生の物語で、詩からほとばしる熱い情念に当てられました。ラストはミリカの視点で熱い想いを柔らかく包み込むような終焉。
「マチウ書試論」は吉本初期の代表作とのこと。新約聖書のマタイ伝(マチウ書)がその比較分析からユダヤ教教義の稚拙な剽窃とした上で、弾圧され続けた原始キリスト教がユダヤ教への憎悪のパトスと反逆の倫理で対峙しなければならなかった「関係の絶対性」論理を導き出している。その鋭く容赦のない切り口と舌鋒はとても清々しく面白かったが、生の人間社会秩序の矛盾を鋭く抽出してみせ、マチウ書の作者の意図の分析を通じて、自由意志での選択を幻想として、その人間間の関係性を基本とする論理展開がとても魅力的でした。
一連の詩人論として、西行、宗祇、蕪村、鮎川信夫などを対象にした評論は第Ⅱ部として収載。自ら創造した理論や意識がないただの時代迎合詩人とした宗祇論もなかなか興味深かったが、個人的には日本語の内部感覚の論理化に取り組んだする蕪村論が面白かった。第Ⅲ部の「芥川竜之介の死」は芥川の中産下層出身というコンプレックスからの破滅とした分析が興味深いが、第Ⅲ部の魅力は何と言っても「芸術的抵抗と挫折」「転向論」「戦後文学は何処へ行ったか」の一連の文芸評論であろう。戦前の世界共産党組織であるコミンテルンでの三二テーゼが下層社会の現実から著しく隔絶し、当時の日本における「封建性の異常に強大な要素」と「独占資本主義のいちじるしく進んだ発展」との一体支配構造を見誤った結果、彼ら文芸者たちが挫折・変転・体制協力し、また逆に改めることなく現状姿勢に安住した非・転向者も同類として、強烈に批判を加えた評論群となっている。戦中・戦後を経てそうした過ちの上で、思想信条を変節した人々の背景と論理を示した「転向論」をはじめ、著者の戦後文学における政治との対峙姿勢について問うた「戦後文学は何処へ行ったか」などその熱き想いを語った作品たちは現在も光り輝いている。
著者の反骨の精神と論理化を追求した本書は、社会秩序の中で人間の生きる姿勢を示した試みとして読み継がれなくてはならないだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
頭を使って本を読むということをたまにはしないと自分が馬鹿になる。
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マチウ書試論・転向論
(和書)2009年08月16日 22:54
1990 講談社 吉本 隆明
柄谷行人はよく読むのですが吉本隆明はなんだか体質に合わないような気がして読まずにいました。最近「関係」というところが面白く感じて読み出すようになりました。マルクスの宗教の批判に出てくる一切の諸関係というところと統合失調症における関係妄想、吉本隆明のいう秩序という関係とを関連付かせると面白く感じます。それなりに刺激を受けることが多くて読んで良かったと思います。統整的理念に関しては柄谷行人に補完をして貰いながら読んだらいいなって思いました。 -
初期に相当する昭和30年代前半頃に発表された論考。自分が生れる前に書かれたものであるに拘らずとてもスリリングに読めた。思うに著者は、今現時点で考えていることを、鮮度を失わないうちに素早くパッケージしたかったのだろう。もちろんそれは鍛錬した知識の下地があってこそなせる技であろうけれど。動静を見守りながら機が熟するのを待って発表するのと訳が違う。ぼやかすことを厭い断定の言葉が飛び交う。この切れ味をもって時代に埋没した関係性の断層を暴く。所詮ミーハーなヤツの感想だと思うがいいさ。細部からトータルまでかっこよかった。
「転向論」での日本封建制の優性遺伝、文学者の戦争責任に関する論旨は現時代に置き換えて考えてみても、日本人の根深いコンフォーミズムという形で引き摺っている。真の意味で戦後が終息しないうちに新たなる戦争が懸念される。 -
マチウ書試論のみ読了。
探偵のように原始キリスト教を追いつめていく吉本隆明。面白かった。
「関係の絶対性」は最後のほうに少し出てくるだけ(それも突然に)。 -
関係性の絶対性、不可避なそれは、体制に反逆することが、体制に加担している逆転、体制のなかにあることが、反体制である逆転、個の逆立を見事に分析した。もちろんその反対の現象も起こるという、一見、自由な選択に対して、関係の絶対性が先立つ人間のありかたは、真実をついている。
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とりあえず「転向論」は読み終わった。
日本という環境が生み出した「田舎インテリ」が忘れかけ、いやほとんど忘れてしまったと言ってよい日本の封建的な制度という優性遺伝子の存在に足元をすくわれるという話。日本という国は日本人にとって離れようと思っても離れられない。そんな国で我々は生きていくのだ。ということを忘れてはならないと考えた一冊。 -
日本における戦後思想の巨人とも言われる吉本隆明(最近はむしろ娘さんの吉本ばななの方が有名だけど)。彼の立ち位置を簡単に言うとするなら、「お前ら、戦争体験というものをきちんと考えているのか」「知識人とかって観念的な事を適当に言ってるけど、本当に現実を見た上で言ってるのか」という感じか。とはいえ、詩的かつ難解な語彙を用いたその文章は読み解くだけで一苦労。『共同幻想論』とか本当に皆ちゃんと読んでいたのか?
で、1958年に発表された転向論なのだけど、ここで主張されているのは、戦前におけるマルクス主義からの「転向」というものは権力からの弾圧・強制だけによるものではなく、むしろ彼らが日本の社会構造の相対を捉えそこなったが故に大衆から孤立していた事に原因があるのであって、そうした意味では非転向を貫いた者でも現実と断絶し、大衆的動向と無関係なまま保持されていたのでは同種ではないかとという主張だ。
基本的に、このような捉え方に異論はない…のだが、どうしても違和感が残るのは、「大衆」という言葉を肯定的な面で用いている事。現代に於いては、むしろ大衆という言葉は"愚かな大衆"みたいな批判的な文脈で用いられる事が多く、またそもそも大衆って言った時にアンタはどうなのよ?といった具合に、正直「大衆を批判している自分」を肯定するための手段としか思えない物言いも多々見受けられる気がする。
むしろ、今、語られるべきなのは「他者」についてだ。大衆と言うものの最小単位であり、かつ自己の理解外にありながら自己と関係しようとする他者。あらゆるものが断片化し孤立化してしまっても、それでも自己の中から想起されうる他者。この他者というものについて考えてきたレヴィナス、を研究していた内田樹がこれ程までもてはやされるのも、そうした文脈があるのかも。勘だけど。