- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061984073
作品紹介・あらすじ
八月九日にすでに壊された「私」。死と共存する「私」は古希を目前にして遍路の旅に出る。「私」の半生とは一体何であったのか…。生の意味を問う表題作のほか、一九四五年七月世界最初の核実験が行なわれた場所・ニューメキシコ州トリニティ。グランド・ゼロの地点に立ち「人間の原点」を見た著者の苦渋に満ちた想いを刻す「トリニティからトリニティへ」を併録。野間文芸賞受賞。
感想・レビュー・書評
-
Na図書館本
たくさんの人に読んでほしい。
平野啓一郎さん講演会でおすすめされたので。
長崎に原爆が落とされたとき、作者はN高等女学校二年生。
天寿に待ったをかける命の短縮こそが、原子爆弾と人間との間に交わされた約束なのである。
被爆者は、ぶらぶら病と言われて、どこも悪うなかごとみえて体のだるかけん、ぶらぶらしとる、そんげん病気のこと。
体力なく、火傷痕のせいで雇ってももらえず。
長崎の言葉で描かれた、被爆者の姿は臨場感あふれ心に迫り来る。
トリニティサイト。
プルトニウム爆弾の実験された地。そこで浴びる放射線量は低いとは言えない。
マンハッタン計画のなかで、アメリカの保有する三つの原爆。一個はウラニウム弾で広島へ、後の二個はプルトニウム爆弾であった。
原爆について語ることは、私には重すぎる。
だから、この本をたくさんの人に読んで欲しいと思う。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
思えばかつて大田洋子『屍の街』『半人間』=原民喜『夏の花』=林京子『祭りの場』=中沢啓治『はだしのゲン』=『原爆の図』丸木位里・俊=峠三吉『原爆詩集』=井伏鱒二『黒い雨』に対して、何故?巨大な原爆に立ち向かうのにこんなにも数少ない作品でいいのかしらと疑問に思いながらも夢中になっていた頃、おそらく表現と告発の違いもまだ解っていなかったのでした。
それに、ほとんどの人がこういう傾向のものに何の興味も示さないことも。
「人間にハエがたかる。うじ虫がわき人間をつつく」
このとき、林京子の『祭りの場』は、私には、被爆という残虐な悲惨極まりない稀有な体験をありのままに書いている私小説としてだけでなく(それだけでも超一級の作品ですが)自立した優れた文学として揺るぎないものを感じました。
たとえエピローグが、「アメリカ側が取材編集した原爆記録映画のしめくくりに、見事なセリフがある。-かくして破壊は終わりましたー」という表現がやや直截だとしても、告発で何が悪い、当たり障りのない象徴的や芸術的昇華だけが文学じゃないんだと思ったものです。
ただこのあと、例の彼女へのわが中上健次の「原爆ファシスト」呼ばわりが元で遠ざかってしまいました。彼女の被爆者としての言及に、特権意識があるだのないだのどうでもいいことでしたが、そこは党派性をわきまえた私のことですから、やむなく中上健次の方に組したというわけです。
本書は、被爆が1945年8月に終わったわけでなく、肉体を破壊し傷つけただけでなく、心も傷つけ子孫まで傷つけ、そして人間だけでなく母なる大地をも傷つけたということを、自らを全人類の一細胞のように感じ、地球と共鳴して、被爆後65年の生の一秒一秒の検証のあかしとして書かかれています。
それにしても、14歳のいたいけな少女の被爆という体験だけでもとてつもない重荷なのに、その上にまだもうひとつ原爆と対峙するという、とんでもないことを65年間もかかえて格闘してきた林京子という人の強靭な精神には、否応なしに深く敬服せざるをえません。 -
被ばく特集であげられた本である。タイトルから小説だと思っていたらそうではなく長崎の軍需工場勤労動員の時に被ばくした自分とその友人の体験を書いたものであった。被ばくの後遺症がどのように出てくるかについて自分の体験だけではなく医者へのインタビューでも書かれていたのでわかりやすい。トリニティからトリニティへという短編も併設されていた。これは原爆投下実験の博物館(あるいは記念館)としての軍基地に行った体験談である。
単行本では、背表紙が薄い同色系のアイボリーピンクで書かれているので見つけづらかった。 -
知人から、編者の1人になったという本をいただいた。その人とメールのやりとりをしていて、「尾竹永子さんの文章を日本でこれだけ読めるってなかなか無いので、そこは特に読んでほしいです」と言われた。尾竹さんは、ダンサー・パフォーマーで、原爆の歴史に関心をもち、福島第一原発の事故以降、福島の現在地を発信しているそうだ。その勧められた尾竹さんの文章(これも感銘を受け、すごいなと思う内容だった)のなかに、本書収録の「トリニティからトリニティへ」が挙がっていた。
読んでみた。長崎、広島の前に原爆が落とされた、つまり実験場所となった「最初の被曝地」=トリニティ。この存在を認識することの意味を問う「トリニティからトリニティへ」の迫力に圧倒された。
表題作も、原爆がもたらした被曝者へのあまりにもむごい影響について、たじろがずにはいられない。「お前は何をしているのだ」、そう問われているような気すらする。たぶん作者にそういう意図はないけれど、その「死」を考える重みに、読み手である僕は逃げ出さないよう必死で踏ん張って読み進めるしかなかったのである。そして、核兵器廃絶への想いが自分のなかで新たなものして、立ち現れたような気になった。 -
命とは何だろう。大辞林には――生物を生かしていく根源的な力。生命――と説明してある説明から推すと、固有の名をもつ個人は、命を包む皮袋ということになる。夢がなくなるが、より神秘的でもある。力、エネルギーの停止が死だから、死の沈黙は、私に圧力をもって重くのしかかってくる。そしてこの、具体的な現象からくる死が人に在るから、悩み苦しむ。苦しみや虚しさの根源も、死が生の基調になっているからだろう。
-
(2011.08.19) 読了
-
被爆から数十年を経て、原爆症ではなく「老い」による死を間近に感じた著者は遍路に出立する。
それは行方をくらました友達カナの意志を遂行する道程であり、あるいは著者とは異なる戦後を歩んできた被爆者との出会いを想起させる旅でもあった。
「長い時間をかけた人間の経験」では、身体に放射能を抱え込んだまま生を歩むことが問題化されている。
「トリニティからトリニティへ」は、ヒロシマナガサキへの原爆投下に先立って世界ではじめての核実験が実施されたニューメキシコ州トリニティ・サイトへの旅を綴ったものである。
日本人、被爆者、被爆する前の自分、そしてまた被爆者へと著者の意識が移り変わっていく場面が印象的だった。