- Amazon.co.jp ・本 (258ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062176309
作品紹介・あらすじ
「破産出版」という会社、「海老の地下室」というレストラン、「助ける手の家」という宿泊施設…。突然届いた犯人の手紙から、「雲づる式」に明かされるわたしの奇妙な過去。
感想・レビュー・書評
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図書館で表紙の亀たちに目が行き、内容も確かめず思わず借りてしまった一冊。
まさに私にとっては「雲をつかむ」ような話で、正直あまりよく分からなかった。様々な犯人と出会う話だが、これは多和田さんの体験談なのか?小説なのかエッセイなのか…難しい。紅田(ベニータ)とマヤの話がなかなか怖かった。
ちなみに表紙の亀たちと内容は全く関係ありませんでした(-_-#)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
多和田さんたぶん初読。エッセイかと思い読み始めたがだんだん奇妙な物語がつながっていく。とても面白いのに必ず眠くなって読み終えるのに何日もかかる不思議な体験した。
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☆ベルガモット☆さん
聞いていけなくないです!(๑˃̵ᴗ˂̵)
私のよくやらかす誤解を招く表現ですね。そんなに重くも深くもないです。
村井理...☆ベルガモット☆さん
聞いていけなくないです!(๑˃̵ᴗ˂̵)
私のよくやらかす誤解を招く表現ですね。そんなに重くも深くもないです。
村井理子さんの『はやく一人になりたい!』のタイトルに共感したのは、家事と仕事で家族のために一日が過ぎてしまって自分の自由になる時間が30分もないじゃない!と思いキーっとなってた頃があったからです。その時は単純に自分一人で生活してたらもっと自由時間が取れるのにと思ってました。今は子の成長や環境や考え方などいろいろ変化して、キーっとはなってません。
2023/09/20 -
111108さん、お返事ありがとうございます。
ちょっと気になりお尋ねして失礼しました<(_ _)>
家事と仕事で家族中心で励んでらっし...111108さん、お返事ありがとうございます。
ちょっと気になりお尋ねして失礼しました<(_ _)>
家事と仕事で家族中心で励んでらっしゃったんですね。お疲れ様です。
ベルガモットのオイルでハンドマッサージしてあげたいでーす。
自分一人で生活しているとだらだらしちゃって、そんな自分にキーっとすることがあります。
「家にあったので」、とレビューなさるときは、読書家の家族がいらっしゃるのだなあと勝手に想像してムフフと思ってます。
2023/09/21 -
しつこくお返事すみません。
器のちっちゃい人間なので、大した事でなくてもいっぱいいっぱいになっちゃうんです。たぶん一人で生活しててもそうなっ...しつこくお返事すみません。
器のちっちゃい人間なので、大した事でなくてもいっぱいいっぱいになっちゃうんです。たぶん一人で生活しててもそうなったかもしれません。
ベルガモットのオイルでハンドマッサージしてもらいたいです♡
いい香りのオイルでおててをいたわったら、いっぱい寝ていっぱい読書しよう‥と妄想するだけでふふふっと嬉しい気持ちになりました!
ありがとうございます♪
2023/09/22
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雲をつかむような話というのは、面白くないんだなと思った。
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ただようような、透明な文体に惚れました。物語になるようでならないところも、すごくいい。久々に、好きな本に出逢えました❤敬愛する庄野さんにすこし近い気がする。
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「わたし」が出会った様々な「犯人」たちを描いた小説。
さすが詩人、独特の(他の誰も真似できない)文章と感覚。なのに共感できる不思議さがたまらない。
全ての文章を引用したくなる。
特にフライムートが書いた「あいうえお」についての文章など、忘れがたい。(p21)
若い人、この本の「マボロシさん」ってだれだかわかったかしら。
「えっ」とびっくりしながらも納得してしまうラストも素晴らしく、一生忘れられない本になりそう。 -
『言葉と歩く日記』を読んで、著者の作品をいろいろ検索して、これを借りてみたが、少し読みはじめて(あ、前に読んだな)と思い出す。思い出したが、「雲をつかむ」ような話につるつると引かれて、再読。
(2016/3/23了)
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図書館の面陳の棚でみかけて、ふと借りてみた小説。この人の名前だけは知っていたが、本を読むのは初めてかもしれない。いちど借りてきて、途中まで読んだところで返却期限がきていったん返し、それからまた借りてきて続きを読んだ。
913なので小説なのだろうが、主人公の「わたし」がなんだか著者のように思えて、読んでいると「実際にこういうことがあった」話のようで、しかし「えそらごと」の話に思える箇所もあり、ふしぎな読後感。しかもタイトルは「雲をつかむ話」だ。捉えどころがないような、たよりないような感触が残るのは、著者のねらいどおりか。
読みはじめたときに、ちょうど『ライファーズ』や、そこからさかのぼって『アミティ 「脱暴力」への挑戦』、『癒しと和解への旅』などを読んでいたせいか、この小説の「わたし」がひょんなことから出会った男が、その後刑務所に入っていて、その刑務所が刑務所改善促進運動のモデルに選ばれていて、囚人が尊厳をもって扱われている、「もし自分が青少年の時からこんな環境で育っていたら刑務所に入らないですんだだろうという気さえします」(p.16)などと書いた手紙が届く場面で、この刑務所はどんな処遇をしているのだろう、人の命を奪ったというこの男はどのように罪と向きあっているのだろうと思ったりした。
男は手紙で、刑務所内に図書館があって、そこで自由に本を借りられることが驚きでもあり喜びでもあった、と書く。監獄でただ一つだけ耐えられないことは騒音で、金属のきしむ音、重い扉を閉めて鍵をかける音、人間の出す唸り声や罵り声が聞こえてきて、あるいはいつ聞こえてくるか分からないので心が安まらない、という。
▼たった一つ、平和な世界で一人になれるのは、本を読んでいる時だけです。身体は活字でできた壁に暖かく守られ、気持ちは雀のように羽根をはやして、どこまでも自由に飛んでいきます。本を読んでいる間だけは本当に心が静かで、その静けさの中に暖かさが思い出されてくるのです。(p.18)
この、終身刑を受けているという男の話がところどころで出てきながら、ドイツでの「わたし」の話が続いていく。
「電話では何度か痛い目に遭っていたので、たとえ面倒でもできる限り郵便で用件をすませようとした」(p.31)というわたし。電話族に対する不信の念は深い。
▼それと違って手紙は、人の本性を暴き出す。便箋のデザイン、紙の選び方、文字の配置の仕方、文章、サインの字のバランスやスピード感などから、その人の顔が浮かび上がる。…特に言葉の選び方にそれぞれ、その人と文学との関係が見えてくる。手紙から受けた印象と実際にあってみた感じがずれていたことはないが、電話では反比例の関係にあった。(pp.31-32)
どんな小説?と聞かれると、まったくもってタイトルどおりの「雲をつかむ話」というくらいしか言えないが、ときどき、どきっとすることが書いてあった。
まだドイツの永住権をとっていなかったわたしは、年に一度は朝早く真っ暗なうちから外人局の前に並んで滞在許可を延長しなければならなかった。建物は8時に開き、それからわたしの並んでいる列は少しずつ確実に進んでいくが、隣の列はほとんど動かない。その列は、自分の国にパスポートを出してもらえないまま逃げてくるしかなかった無国籍の人たちの列だった。
▼どこの国の人間でも滞在許可を延ばし忘れれば不法滞在になり、犯罪者になってしまう。…犯罪者にされるというのはとても簡単なことなのだ。誰にも危害を与えなくとも、生きているということ自体が不法滞在という犯罪になることがある。(p.50)
「生きているということ自体が」に、胸をつかれる。
路面電車で、乗車券を持たずに乗っていた青年が、高すぎる切符を買う必要はないと主張するのに出会ったわたし。切符を持っているか、抜き打ち検査に乗り込んできた人間に、高いなら乗るなと言われたその青年は、電車はみんなのものだから乗る権利があると言う。わたしは、その発想に、初めは驚き、そのうち納得できてなるほどと思う。
▼それからしばらくの間、路面電車に乗ると、近くにいる人が乗車券を持っているかどうかが気になって仕方がなかった。特にちょっとはずれたことをしている人が気になる。はずれていること自体は許されていても、切符を持っていないという理由で連れ去られて世の中から姿を消してしまうかもしれない。(p.135)
「はずれていること自体は許されていても」に続く後段に、ぎょっとする。
(2012/11/20了) -
みずからに「寄せて」考えることを考える。
このひとの文章の「くせ」のひとつ(なのかわざとなのかはわからないけれど)に、たぶんだいたいのひとが息継ぎをしたくなるところで読点を打たずにそのままもうひと息ぶん書きついでいってしまう、というのがある。この本にはそんなに出てこないけどそれでも冒頭いくつか目の文章でそれは出てきていて、それでわたしは調子を狂わされてというよりかはまんまと術中にはまって変な呼吸のしかたになってしまったままこの本を読みすすめることになったのだった。そこの文章、引用にひいておくのであとでみておいてほしい。
さて、これもまたぐらぐらきたぐっときた本である。ちょうどノーベル文学賞が誰にかやーという話になっていた日に買って読んだ。こういうひとにそういう賞はいくとよいのだがー、と思うが果たしてどうだろうか。そこまではないのだろうか(そしてそこまでとはそれこそ果たしてどこまでなのだろうか。謎は深まるばかりである)。
箱の中に箱が入っていて、そのまた中に箱が入っていて、と続いていく中でさてあの話はどの箱の中に入っていたのだっけかな、と考えるような話は好きである。この本もそういうふうな話の仲間の気もするけど、どうもちがう気もする。あまり焦点があっていないのだ。はなばなしい収束点もない。キイ・ワードに足るであろう「雲」もなんとも心もとない(まあ雲だけに)。それでも箇所箇所で心をぐっともっていかれてしまう。
みずからに「寄せて」考える瞬間と、「寄せて」しまったわたしたちがみずからに対して(実は)感じている罪悪感、のようなものを見せてくれているのかなあ、と思ってみたりもする。
とりとめもなさすぎて「まあなんか不思議な話でしたね」という感想で終わるのはとても悔しいのだけれど、いまのところ書けるのここまでぐらいのようだ。またいずれ。 -
人は一生のうち何度くらい犯人と出逢うのだろう。犯罪人といえば、罪という字が入ってしまうが、わたしの言うのは、ある事件の犯人だと決まった人間のことで、本当に罪があるのかそれともないのかは最終的にはわたしには分からないわけだからそれは保留ということにしておく。
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相変わらずわけわかんなくて元気がわいた。
多和田作品に対して今回読後抱いたイメージ。
散文詩という形式でつけられた日記。
言葉が先を走っている。そこに時々記憶が追いつき、火花を散らす。そう思わせられる瞬間がスリリング。
言葉遊びとかダジャレもしばしば登場するけれども、そこに生々しい身体感覚がついてくる。けっきょく物語にはならないけれども、物語になりかけては破綻する泡のような運動が、次から次に現れて、けっきょく物語にならないまま途中でぷつりと終わってしまう感じ。癖になる。