- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062772228
作品紹介・あらすじ
枯葉ほどの軽さの肉体、毀れた頭。歩んで来た長い人生を端から少しずつ消しゴムで消して行く母-老耄の母の姿を愛惜をこめて静謐な語り口で綴り、昭和の文豪の家庭人としての一面をも映し出す珠玉の三部作。モントリオール世界映画祭審査員特別グランプリ受賞ほか、世界を感動に包んだ傑作映画の原作。
感想・レビュー・書評
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認知症により記憶が失われていき理解に苦しむ行動をとるようになった母親の晩年の思い出。淡々と描いている。事実がもつ力と文豪の確かな表現力。
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耄碌していく母
井上先生の生活が伺える本でした。
旭川記念館へ行った記念で購入致しました。
ご冥福をお祈りいたします。 -
米子市の「アジア博物館・井上靖記念館」を訪れた折、購入した本の内の一冊が「わが母の記」だった。「母」という存在は年齢を重ねれば重ねるほど大きく、そして、感謝の度合いも深まってくるものだ。その恩の最たる存在である「母」を井上靖はどんなふうに書き記しているのだろう、という思いから読み始めた。最初の方に父との最後の思いが書いてあったが、さもありなん、男同士というのは、そのようなものだろうということを感じ、自分も息子達からそのような思いを抱かれながら、この世を去っていくのだろうという思いを持った。
主題は「母」。「母」の脳が次第に壊れていくにつれ、記憶がどんどん消されていって、しまいに幼児、赤ちゃん化していく、そして、自分が産んだ子達さえ、その消去の中へ組み込まれていく。著者本人もしまいには「亡き者」にされてしまうが、その中であっても、淡々とした筆致の中に、母に対する著者の「母」への深い思いを感じた、というのも「母」の顔の表情やら行動の観察がとても細やかだったから。
現在の私には実母と義母の二人の母がおり、幸いに存命中だ。その二人の母のことが読書中、しばしば意識に昇ってきて、著者の母が老耄し、行動が変質していく姿に、著者と同じ思いを抱いたり、同苦したりした。私の二人の母は、やはり老齢による劣化は免れられず、変化していっている。変化の仕様が全く異なっているというのは、どんなことに生き甲斐を感じたのか、どのようなことに幸せを感じたのかにも依るのでは、と思う。中には、老耄の果て、別人格になってしまう人もいるということも聞く。我が身のことも含め、死ぬまで予断を許さないのが人生、ということを肝に銘じながら、「自己最優先」という「我」の膨張には特に注意を払い、人の中にあって、「生きる」ことの意味を学び続けていきたい。 -
同タイトルの映画を鑑賞した結果、がぜん興味の湧いた井上靖というひと。
それ以前に読んだ作品は「蒼き狼」と「おろしや国酔夢譚」ぐらいであり、その書いている本人の人となりは伝わってきていなかった。結果として彼の自伝的性格を持つ「あすなろ物語」を手にとることによって映画鑑賞直後に抱いた「彼のことをもっと知りたい」という感情は満たされ、その距離感はぐっと縮まっていた。
今回はその映画の原作ともいうべき作品。ここで「いうべき」なのは、本作は3つのそれぞれ異なるタイトルを持つエッセイをとりまとめたものであり、時間軸も64年から10年間に渡ってという長大なものであったという事実から。物書きとしての彼が実母に起こる一見「崩壊現象」と受け取ってしまう事実を、「深遠なるもの」として感じ、書き留めておいてくれた記録。映画のような感動を呼び起こすための仕込み等はいささかも感じられない。
親の元へ向かう一時帰国の機内で読みきって感慨もひとしおに…という思惑が、故障によりキャンセルという事態に巻き込まれる中、結局再搭乗前に読みきってしまった(苦笑)
でも結局持ってくることにした。
何気なく実家に残してくることにして、
「最近こういう考えに触れました。」
というメッセージを残り香のごとくおいていこうかなと。 -
母の頭を毀れたレコード盤が回っているだけの場所のように考えていたが、そのほかに何か小さな扇風機のようなものでも回っていて、それが母にこの人生から不必要な夾雑物を次々に払い落させているかもしれないのである。(82p)
映画を見て興味を覚えたので、20年ぶりぐらいに井上靖を読んだ。小説のようなエッセイのようなこの連作を読んで、やっぱり井上靖は上手いなあ、と感心した。乾いた文章の中に隠しきれない叙情性がある。
映画では、樹木希林の演技に総てを負っているが、小説では、「頭の中の消しゴム」や「レコード盤」等の絶妙な比喩を使いながら、耄碌していく頭を見事に描いていて、私の読んだ中て一番説得力のある認知症小説になっていた。単に病状の描写が素晴らしいだけでなく、毀れた頭を理解することで、自分の母親の人生を理解するようにななる。
おばあちゃんの時のことを思い出した。
驚いたのは、映画では一番涙を搾った「あの場面」が、じつは映画的創作だった、ことである。 -
晩年の母との日々を綴った作品。約5年ずつを空けた3つの作品から構成されている。5年ごとに老いが進む母。自らの人生の記憶を少しずつ消しゴムで消していくような母。世話をする子供たちのことも分からなくなっていく。しかし、母の中では母なりの世界が展開されているようだった。
井上靖の簡易でありつつも味わい深い文章がまた素晴らしい。 -
樹木希林の映画を見て購入。学生時代にしろばんば、あすなろ物語、とんこう、天平の甍など五十年前読んだ記憶が呼びさまされる。硬派な小説だけど爽やかさが感じられる。
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全編にわたり、母への強い思慕を感じさせる本だった。
いつまでも元気だと思っていた親がだんだんと老いてゆく。老いてゆくだけではなくて、だんだんと壊れてゆく。壊れていって、そのうち、家族のことを忘れてゆく。
認知症で次第に記憶や社会性を失っていく母の姿を、時に冷静に厳しく綴っているが、その筆致は冷酷でも残酷でもなく、親が子を戒めるような愛情あるものとなっている。
次第に我を失っていく親の姿は同時に、次第に親を失っていく子どもの切なさと悲しみを投影していて、心を打つ。
ひっそりと、しんみりと、気がつくと父母を想う気持ちになっていた。 -
著者の自伝的小説三部作「しろばんば」、「夏草冬濤」、「北の海」に続いて読んだ。小説中の洪作、すなわち井上靖は長じて文豪となったわけだが、この「わが母の記」の三つのエッセイでは、その見事な筆致で惚けてゆく母親の晩年を冷静に、しかし優しく描写している。本作を読むことで洪作三部作は完結したのだと感じ入った。
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井上靖初読、映画は過去、樹木希林氏ご逝去の直後に観ていた。
著者の母が老い、主に認知症を進行させていく様を長男の立場でありながら極めて客観的に描く。
耄碌していく母は少女性を復活させ、我儘な振舞いを見せる。
人は歳を取る毎、ある一定の年齢を経ると子供へ還っていくと言うが、彼女の場合は無垢と狡猾がせめぎ合っている様だった。
淡々とした文章は、殆ど悲哀を介在させぬ。
靖自身はあくまで物書きとして実母を観察・取材していたのだ、と思う。
「全身小説家」と自称した井上光晴のみならず、近代の作家にはこう言ったタイプが多く見られる。
樹木氏は映画の見所を訊かれる事に辟易としていたが(没後展覧会の映像より)、本書にも同様の姿勢が窺えた。
昨今の過剰に情緒と泣き所を盛り込んだ小説の合間に読む事で、読書脳がリセットされた様な思いも。