- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062774765
作品紹介・あらすじ
母親が自分に寄せる夢を体に溜め込み肥満化した節子。他人の秘め事を言い当てられるがゆえに高慢で孤独な絵理香。周囲の期待に応え続ける美貌の由季子。膨らんだ自意識は、彼女たちを苦しませるだけではない。生きあぐねる女子の生態と心理を辛辣かつユーモラスに描き、痛快極まりないラストへと誘う傑作長編。
感想・レビュー・書評
-
2010/5/23
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
太ってる子、痩せギスの子、完璧とも言える美少女。
3人の高校生と彼女らを取り巻く人からなるお話。
独特な世界観だった。 -
なじみのない作家さんだけど、面白かった。ほかの作品も気になる。
-
自意識の膨張( ་ ⍸ ་ )
-
こいつは凄い本だ…というのが読了後の感想でして、いや、自分は今までも朝倉氏の本は好んで読んできたんですけれども、今作はおそらく今まで読んできた朝倉作品と比較して…最高傑作であると! 僕などは思いましたかね…社畜死ね!!
ヽ(・ω・)/ズコー
ともかく思春期の女子の心理描写が凄い! 男が読んだら女子への甘ったるい幻想など一発で消えうせてしまうかのような衝撃がそこ、つまりは本書にはありました…まあ、ぶっちゃけ見ないで済むならその方が良いと思われる、人間のいやらしい部分ではありますけれども、僕などはそういうのも楽しめるタチなので良かったですね…社畜死ね!!
ヽ(・ω・)/ズコー
うーん…本書は数年経った後、再読するかも…みたいなことを思わせるに足る、素晴らしい著書でありました…おしまい。
ヽ(・ω・)/ズコー -
次から次へと読み進めてしまった。 正直、苦手な表現とかも多かったけれど女心が、気持ち悪いほどに描かれていた。 想像していたものとは違う構成になっていて、それが面白さを引き立てていた。
-
母と娘の関係がごにょごにょっと書かれた連作集。墨川節子、秋澤初美、佐藤絵理香、新村由季子の4人の名がそのまま章タイトルになっている。
冒頭の節子の章から、ぎょっとする。節子の母・和代は、娘のことを「セシルちゃん」と呼ぶのだ。私立女子高に合格した節子に「セシルちゃん、合格おめでとう」と言い、夫の時彦が「セシルってだれだ」と口を挟む。
自分を「セシルちゃん」と呼ぶ母のことを、15の娘は冷徹なまでに観察している。15にしては達観のほうだ、と自己分析もする。
「おかあさまは、セシルちゃんの努力を知っています」
「おかあさまも、セシルちゃんと一緒に努力してきました」
「セシルちゃんが合格したということは、おかあさまが合格したのも同じなのです」
「だって、セシルちゃんとおかあさまは一心同体なんですもの」
母はその巨大な顔面をあげて、うっとりと、あらぬほうを見あげてほほえんでいる。口もとはだらしなくゆるんでいる。娘は、母のこのほうけたような表情にはとっくに慣れている、と思う。
娘は小5のクリスマスにカメラをねだり、それで毎日母を撮り、自分自身も撮った。「わたしの成長とともに和代の顔面も成長している」という仮説を検証するためだ。
2年間撮った写真を、娘はアルバムにおさめている。
母の顔面が、めりっ、めりっ、めりっ、と巨大になっている。
娘のからだも、めりっ、めりっ、めりっ、と巨大になっていっていた。
あるいは、娘に寄せる母の「思いの丈」が娘のからだを肥満させ、母の顔面を巨大化させているのかもしれない(第二の仮説)。あるいは、娘のからだと母の顔面をふくらませたものは、2人のやりきれぬ思い、思い通りにならぬ思いかもしれない(第三の仮説)。
母が信じているのは、「夢のような理想の娘」だ。母はそれを口に出して言うわけではないが、その思いの丈は、言葉にしないぶん、よけいに強く発散される。母はときおり、その夢の娘を思いうかべて放心する。おかあさまはわたしを見ていない、と娘は気づいている。
▼じゃあ、だれを見ているのだろう。よそに子どもがいるのだろうか。おかあさまは、わたしとその子とどちらがより好きなのだろう。(p.20)
娘は母を憎み、そして母を憐れむようになった。
発育がよく、有り体にいえば肥満していた節子は、「でぶ」「でぶのくせに」と言われないよう細心の注意を払っていた。159センチ、95キロのからだに向けられる失笑をくいとめたい、肥満ではなく異形と認知させたい、と節子の自意識は叫んでいた。
高校にあがっても、とぎすまされた節子の自意識は自身と周囲のモニターをおこたらない。高校で初めて会った同級生・絵理香は、やけに勘がよかった。そして同じクラスになった島田由季子の姿は、まるで母の望む「夢の娘」そのものだった。
話はそこから、この3人と、3人の担任の秋澤の妻・初美とを絡ませながら、じわじわっとふくらんでいく。4人それぞれに、ふくらみきってはじけそうな自意識の扱い方が違い、一番手なずけていると思えるのが節子だ。あとの初美、絵理香、由季子は、自意識にさいなまれている感じがする。
最後の由季子の章は、時間がしばらく流れていて、だが、それはまた冒頭の母と娘の話に戻るかのようだ。由季子が、まるで節子の母・秋代のように見えてくるのだ。そして、秋代は、由季子のような育ちをしたのかもしれない、と思わせる。
「こんな子だったらいいな」という、周りの大人たちの希望や期待に雑作なく応えてきた、「夢の娘」への期待に応えることができた――そんな由季子は、自分が「からっぽ」だと感じている…。
なんか、怖さのある話だった。
(4/30了) -
2014.04.30
-
「グロテスク」を読みながら、「ああ、あの小説は随分『グロテスク』に
影響をうけてる印象…」と、思ったんだった。
その「あの小説」が、こちら。
もともと家柄とか幼稚舎からどうのとかとは
相当に無縁な私で、
まわりからも求められず、価値についてもわからないので、
それを自慢にする人があらわれ、
はじめさりげなくしているのにあまりにも私が感心しないので
しまいには怒りだすということも、あったなあ。
この本は、そんなような価値観を持つ人たちをベースに
女の子の、意地悪と面倒くさい感じが
如実に著されている、けれど、
申し訳ないけど私自身は、
まあ、もちろん色々あったけど、
もっとあっけらかんと朗らかにしていたような…。
「この人たち、どうなるのかな~」と思って最後まで読んだけど、
一回読めば良いかな。
「グロテスク」もそうだったけど、こう言う話って
どうしてもラストが次の世代のなんか…みたいな
ださい感じになるのかな。