- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062881838
作品紹介・あらすじ
光市母子殺害事件、秋葉原通り魔事件…裁判員制度で激変した死刑基準と社会の価値とは?元裁判官が事件を手掛かりにとらえなおす、裁判員時代の「罪と罰」。
感想・レビュー・書評
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久しぶりに読み応えのある新書。著者の教養の深さには驚かされた。未だ世論の8割以上が支持している死刑について,結論は示すことなく,その判断に至る価値判断をそれぞれの死刑空間(事件の種類)について書いている。法律論ではなく,哲学の勉強といった感じ。
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死刑と正義、本書を読み終わった後には誰もが「死刑」の必要性について、脳が永久ループにでも入ったかの様に、停止しないメリーゴーラウンドの様にグルグルと、神経が動き回る様な感覚に陥る。そしてそこには正しい答えは存在せず、ただひたすらに考えるしかない思考の階段を登っているような状態だ。世の中には死刑を廃止すべき、維持すべきとの存廃両論が存在する。どちらの言い分も正しさも誤りも無く(両者が深く考えた上での各人の出した結論なら。単に浅い知識で何れかに追随するだけなら意味はない)、この議論は永久に終わらないだろう。
本書は考え得る人間の最大の罪悪である「殺人」を題材として、それに対する最大の司法処置の「死刑」の意味を考えるきっかけを作るものだ。それは前述した様に明確な答えがあるとは言えない。死に対して死を用いて処分することは、古代バビロニアのハンムラビ法典、「目には目を、歯には歯を」の同害報復(タリオ)と同じだ。罪刑法定主義の起源と言われるが、古代バビロニアと現代では社会的な背景は全く異なる。
本書は裁判員制度確立後に記載されている。過去の職業裁判員が作ってきた判断基準が通用しなくなる時期に書かれているので、死刑の意義や意味について考える良い時期が来たのではないかと感じる。
本書を要約すれば、死刑に至る状況や背景から、死刑をパターンに当てはめるための「死刑空間」に一旦置いてみる。まず始めに解りやすく殺人を5つの空間に置き、更にそこに時代背景や殺人者の置かれた個別の背景、更には年齢や精神状態などの生物学的な背景を重ね合わせていく。殺人のシチュエーションとも言える発生事情は解りやすく、実際に発生した事件を挙げて説明されていく。
①ある日突然自分の家族が侵入者に殺害される、②無差別大量殺人、③重罪の繰り返し(抜きがたい犯罪性向)、④親族間殺人(親、祖父母殺し)
、⑤(これが少し難しい)計画的、金銭目的、死姦など他人の生命をモノと見做す冷酷的な殺人、この5つの実際の犯罪事例を犯人及び被害者側観点で事実のみを述べていく。更に後半ではそれらが発生した背景として4つの空間をAからDに分類する。こうする事でニュースなどから表面的にしか見えてこなかった事件を背景や審議の過程で明らかにされた殺人犯の内面的なものを加えて、立体的に分析することを可能にしている。例えば後者は少年犯罪に該当する、18歳以下の起こした殺人は果たして死刑にならないことが妥当か、といった感じである。
裁判員制度の導入により、それまで概ね存在していた、殺した人間の数による判断基準がかわりつつある。簡単に言えば市民による判断は量的判断から質的判断・市民の価値判断に変わった事を表し、従来の死刑基準が崩壊する。具体的に言えば、
殺害人数であれば、3人殺す=死刑(1999-2008 94%括弧内は実際に死刑になった比率)、2人=ケースバイケース(73%)、1人=原則死刑なし(0.2%)が量的基準だ。職業裁判員が裁く世界ではそこに殺人の目的や計画性が加わり判断されてきた。裁判員制度では、当たり前だがこの判断に一般人が加わる。誰もが裁判員になり、人を殺す自由を手に入れる(神になる)状態になる。だから本来はより細部まで十分に考慮された判決になる必要がある。判断を鈍らせる様な残忍さや被害者への感情移入などがあっては妥当な判断がされるか懸念が生じる。またそれらを完全に排除するのは不可能だし(できたらそれはもう、人ではない)、ならばやはりコンピュータが分岐処理で判断する様な量的基準のみで良いかと言えばそうもならない。
死刑か否かの判断で悩ましいのは、秋葉原事件などの様に7人殺されたケースである。死刑にしないと、安全な社会に戻らないとする発想もあるが、終身刑(日本には終身刑は無いが、法的根拠のない仮釈放なしの無期懲役は実存しはる)にすることで死刑の意味は薄れる。この場合、社会の安全は脅かされるのに、犯人は一生檻の中で守られるという矛盾、税金で一生面倒見るのかという疑問が生まれる。ならば税金節約のために死刑にするか、となるのである。こうした死刑に該当する犯罪者に労働させて得られる価値が税金による維持費を超えられるかという経済的打算のみになってもいけない。
なお事実裁判員裁判では従来の量的判断基準では無期懲役だったケースでも死刑になった例がある。死刑は人が人を殺す判断だから慎重かつ十分に議論が尽くされるのは間違いないが、過去の基準との不整合は、大きく捉えれば正義の判断基準がブレる可能性がある事を如実に表したとも言える。
また本書後半は主に後者の死刑空間について考察していくのであるが、少年犯罪については死刑が更生の可能性ではなく(終身刑で良いはず)、精神の未熟性に意味を求めている事を説明する。これは予測できない将来の可能性ではなく、現実の確実な事実によって裁かれるべきというごく当たり前の議論ではあるが、死刑存廃論においてはまだまだ議論の余地は沢山ある事を理解できる。
死刑の効果として、死刑の存在自体が威嚇となり犯罪を思い止まらせる一般予防措置なら、殺人以外でも同じことが言えなければならないし、犯罪者をこの世から抹殺して再犯防止する特別予防措置なら終身刑で十分だし議論は尽きない。また、第三者のための正当防衛なら、勇気あるものが不正をしようとする侵略者の命を奪うことは非難されない(見殺しにしない)という考え方もあり、殺人者の背景やシチュエーション次第ではクリアな正しさなどは存在しないのかもしれない。
こうして頭の中が稍疲れてくると、最後の最後はハンムラビ法典の世界が一番合理的ではないかとも感じてしまう。
本書をきっかけに誰もが裁判員制度で人を殺す権利を与えられる状況において、今一度真剣に死刑と向き合う事の大切さを学ぶべきと考える。 -
裁判員裁判が行われるようになったことによって死刑のあり方が大きな変容を遂げた事実をふまえた死刑論である。
専門家の裁判官のみで行われていた裁判では死刑の認定はいわばポイント制であったという。いくつかの要素を満たしたものが死刑とされた。そのため死刑と無期懲役との境界線は一般人の感覚からは理解しがたいこともあったという。
裁判員裁判が始まってからは正義の基準はいわば同情の度合いになったという。そのために裁判の判例は多様になり、その統一性はしばしば破られる。
筆者は死刑の最終判断基準に関しては慎重ににして歯切れが悪い。ただ死刑制度自体は社会制度の維持に不可欠なものとして存在価値を認めている。
同様の事件で被害者の数や残忍性などが同じでも死刑と無期懲役刑量の絶対的基準にはなっていないという事実を私たちは知っていなくてはならない。 -
基本的に死刑存置論の立場から書かれている。第9章の「死刑の功利主義」では、賠償金を払うと死刑を避けられるという立場を功利主義と呼んでいる。いろいろな章で死刑に関する議論があるが、最終章でまとまった議論がなされている。死刑は正当防衛だという議論、死刑は最大の贖罪だという議論、死刑は被害者の人命を尊重することにつながるという議論などがなされている。「人命尊重、人権尊重は、死刑に関する限り、ただひたすら永劫回帰するばかりである」(238頁)といった記述が若干鼻につく。
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未だに各方面が議題として挙げている『死刑』という制度について著者なりの見解を示したものです。
死刑となり得る(なった)事件を幾つかピックアップし、事件の性質に基づいて細分化することで、『死刑』について多角的な視点を持って眺めることが出来るようになっています。
事件のピックアップのみならず色んな哲学者の考え方なども引用してきているため、哲学の勉強にもなりました。
著者自体は中立的な視点を持っているような記載っぷりでごじましたが、若干死刑廃止派に傾いているような感覚を覚えました。
難しい部分もチラホラございますが、概ねスラスラ読み進めることが出来るため、暇な時に『死刑』について見つめ直すには打ってつけの書物かと思われます。 -
裁判員制度の中で、どのように向き合うべきかをケースに分けて説いてるので、なかなか分かりやすく且つ興味深く読むことができます。
罰とは、正義とは、そして死刑とは。考えさせられる本でした。
『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』を読んで思うところがあり、再読。
物事には多面的な要素がある事を忘れず、感情や周りの意見に流されず、自分なりに考え、答えを持つ事が大事なのだと再確認。 -
何を基準とし、死刑かそうでないかを分けるのだろう…それには、「正解」が、ない。裁判員制度導入により、私たち一人ひとりがその都度考えていく。
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実際に起った事件を題材に、死刑について考察している本。
ブログはこちら。
http://blog.livedoor.jp/oda1979/archives/4384068.html -
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