妖怪学新考 妖怪からみる日本人の心 (講談社学術文庫)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062923071

作品紹介・あらすじ

日本人にとって、妖怪とはなにか。科学的思考を生活の基盤とし、暗闇すら消え去った世界においてなお、私たちはなぜ異界を想像せずにはいられないのだろうか。「妖怪」とは精神の要請なのか、それとも迷信にすぎないのか――。古代から現代にいたるまで妖怪という存在を生みだし続ける日本人の精神構造を探り、「向こう側」に託された、人間の闇の領域を問いなおす。妖怪研究の第一人者による、刺激的かつ最高の妖怪学入門。

感想・レビュー・書評

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  • ・妖怪の学といつたら小松である。その小松和彦「妖怪学新考 妖怪から見る日本人の心」(講談社学術文庫)を読んだ。おもしろい。当然、この書での、つまり小松和彦の妖怪の定義がまづ問題になる。それは例へばかうある、「『神』とは人々によって祀られた『超自然的存在』であり、『妖怪』とは人々に祀られていない『超自然的存在』なのである。」(201頁)神と妖怪が紙一重といふのは容易に想像がつく。それは祀られてゐるか祀られてゐないかの違ひだといふのである。確かに河童神社や豆腐小僧神社、付喪神神社などといふのはなささうである。しかし、これらも祀られれ ば神になる。祀られない限りは妖怪のままである。悪さをしようがしまいが、妖怪は祀られてゐないから神ではないのである。神にはなれないのである。これは 端的で分かり易い定義である。ただし問題はある。所謂祟りである。祠の神をしばらく顧みなかつたら凶事が続く。これはあの祠の神の祟りだ。祀らねばとお祀りをしたら収まつたなどといふのがそれであつて、この場合の祠は神なのか妖怪なのかといふことが問題になる。そこで別の定義、説明、「妖怪とは、日本人の 『神』観念の否定的な『半円』なのだ(中略)つまり、伝統的神観念では『妖怪』は『神』なのである。(中略)それが人間に対して多少でも否定的にふるまったとき、妖怪研究者からみれば『妖怪』になるという」(48頁)ことになる。落魄の神といふのではない。人間に否定的にふるまふ、悪さをする、さうすると妖怪なのである。ただし、誰にでもではなく、あくまでも「妖怪研究者からみれば」妖怪なのである。研究者は神と妖怪を峻別するが、普通の人はその違ひにそれほどこだはらないといふことであらうか。「かつて多くのムラやマチで、さまざまな怪異・妖怪伝承が語られていた。それらは人々の生活の一部であり云々」 (117頁)だから、普通の人は研究者のやうに、妖怪を相対化も、客観化もできないのである。いづれにせよ、私程度の妖怪との関はりの人間には、かういふ説明、定義は十分に納得できるものである。
    ・そんな妖怪は今もゐる。これも本書のポイントである。それを井上円了のやうに合理的な説明で否定することもできる。その方が話は早い。幽霊屋敷はない、 トイレにはな子さんはゐない……かういへば終はりである。しかしさうはいかない。やはりまだゐるらしい。恐怖を感じさせる様々な空間がなくならないからで ある。「妖怪は人々の心が生み出す存在である。」(163頁)からには妖怪は滅びない。ムラであれマチであれ、大都会であれ、人々は恐怖を感じ、そこから 妖怪は生まれる。そこにはこんな特徴があるといふ。「人面犬などわずかな例外はあるものの、現代の妖怪のほとんどが人間の幽霊(亡霊)なのである。(中略)現代人は動物などの妖怪はいまやすっかり信じなくなったが、人間の幽霊の存在をなお信じる人が多い、ということである。」(185頁)都会にタヌキやキツネはゐないのである。そして、問題はそれだけではないらしい。現代人は「自然を恐れる心を失ってしまっているらしいという」(186頁)のである。それがキツネやタヌキに化かされることを忘れさせたといふのである。闇を消し、自然を壊し、その結果、動物妖怪が消えて……現代はそんな妖怪世界であるらしい。それが副題の「妖怪から見る日本人の心」の一端である。妖怪学がかういふことをも突き詰める学問であり続けるならば、今後更なる隆盛の時代を迎えるかもしれない。小松和彦ほどの人がやるのである。まさか単なる分類学で終はるとは思へないが、更に発展した妖怪学を見たいものである。

  • 【概略】
     妖怪研究の第一人者による「妖怪とはなにか?妖怪学とはなにか?」が語られた一冊。人間の想像力が文化を創り出す創造力につながり、その顕現した一つとしての妖怪、その妖怪を多種多様な角度から深掘りする。

    2024年05月06日 読了
    【書評】
     トルコでのパネルディスカッション「トルコと日本のホラー」に向けて準備した本、ラストとなった一冊。本番までに「読了」というステータスまでは辿り着かなかったけれど、実はこの一冊、読んでおいてよかった!なぜか?登壇されたブルガリアのソフィア大学の教授が、著者を参照で挙げていたから!「(小松和彦さん)読んでます」と言ったら、「もうね、必須なのよ」という返事が返ってきたよ。(本当に申し訳ない。あまり深く調べずに購入したり読んでたりしているので)あとから著者の小松和彦さんを調べて、文化人類学の大家であることを知りました。大変失礼しました。
     さて、アカデミックな分野にいない喜餅、今回の「トルコと日本のホラー」というテーマで、「ホラー映画好き」な、いわゆるエンターテイメント側面から物事を見ている喜餅、そんな立場からこの本を読み進めた訳ですよ。アカデミックな視点がその源流から河口に向かって広がっていくと同時に支流への視点切り替えが行われるのに対し、読者としての自分は具体的事例「ホラー」という河口から遡っていこうと試みた視点の違いがあったね。そりゃそうだ、「ホラー」観点からの糸口を求めてただけなのだからね。
     そんなレベルの低い読者である喜餅の、現時点(2024年5月時点)における「妖怪とは」なのだけど・・・すごく抽象的な言い回しなのだけど・・・「わからないを言語化しようとした」「わからないに対して名前をつけようとした」文化の蓄積なのかなと。
     (例えがアニメで申し訳ないけれど)「転生したらスライムだった件」内でもあるように、名前がつけられると「ネームド」になって魔物のクラスチェンジがされる。(名づけ親にもよるけれど)強くなるのよ。名前をつけられることで「その他大勢」から区別され、権利が与えられ(=強くなる)る。不謹慎で申し訳ないけれど、自分が小学生だった頃(1980年代)、落ち着きのない子や空気を読まずにトンデモ発言をする子達は総じて「変わった子」みたいな曖昧な形で括られてて。それが昨今、様々な障害名が与えられてさ。世間のモラルレベルが上がったという見方もあるけれど、名前が与えられるとさ、「あぁ、そうなんだね」と・・・ちょっと納得しない?「鬱病」という言葉がいつ頃から存在しているのか、専門家でないからわからないけれど、30年ぐらい前はそんなに市民権を得ていなかったと思う。草食男子しかり、パパ活しかり、港区女子しかり、なんか名前がつけられると、モヤッとしながらも納得感というか、座りがよくなるというか・・・。その本質にまで遡ると違いはないハズなのに。だから会社の理念とかコンセプトとかを、しっかりと言語化できるようにしろ!ってならない?
     だから妖怪学は、妖怪は存在するのか?否か?といった部分から語ってないのよ。民俗学とか文化人類学といった、「ヒトが起こす行動」全般の一事象が妖怪なのよ。存在するしないじゃないのよね。わからないことが多かった時代に、とりあえず「わからない枠」に放り込んで安心したい、でも「わからない」って言葉一つだと、あまりにわからなさすぎて(笑)膨大になってしまうから「わからない枠」の中で区分け(=名づけ)していった結果なんだよね。乱暴に言うと、あだ名というかニックネームというかさ。新型コロナウイルスが研究され、「わかっていく」フェーズに入っていった途端、人々のウイルスに対する恐怖が薄れていくようにさ、色々な物事の進化で「わからない」から「わかる」になった途端、もう(妖怪や幽霊といった)役割は終わっていくのよね。だから学問として存在してもいいのよ。TV番組で扱われるようなさ、「妖怪は存在するのか?!」という出口の部分の論争じゃないのよね。・・・まぁ、読者としての喜餅はその部分を大いに期待して読み進めてしまっていたのだけどもさ。
     そういったことを感じたこともあり、もし誰かがこの本を手に取るにあたり、「妖怪は存在するか?」といった超常現象にハイライトを当てたような期待を持っているとしたら、期待に沿えないと思う。逆に「人間を学びたい!」とか「この時代の人達の風俗はどうなのだろう?」みたいなもう少し俯瞰した箇所に好奇心のアンテナが立てられているなら、色々な学びがあると思う。
     「この本は面白い or 面白くない」は、「その本そのものの内容」ではなく「読者の期待の指向性に合うか」で決められるよね。そういう意味では、書評というものは罪深いと思うね。期待の枠に入らなかった本は、実は別の人にとってめちゃくちゃ面白いものだったかもしれないのに、勝手に「面白くない」枠に入れられるのだものね。※あっ、読みづらい文章を綴る作者の作品は、ダメだと思うけどね。
     最後に個人的には、妖怪や幽霊・・・いわゆるエンターテイメント側面からみたクリーチャー&超常現象としての妖怪や幽霊・・・は、存在していると思っているよ。特に感情から派生する幽霊に至っては・・・ね。これだけロジックロジックと叫ばれている現代においても、人は理で動かないもの、情で動くのだもの。

  • 九州産業大学図書館 蔵書検索(OPAC)へ↓
    https://leaf.kyusan-u.ac.jp/opac/volume/1186411

  • 2022/8/14 読了

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/741218

  • 深く妖怪について分析されている
    色々な例もあるけれど一般化されていて面白かった

  • 第1部 妖怪と日本人(妖怪とはなにか;妖怪のいるランドスケープ;遠野盆地宇宙の妖怪たち;妖怪と都市のコスモロジー;変貌する都市のコスモロジー;妖怪と現代人)
    第2部 魔と妖怪(祭祀される妖怪、退治される神霊;「妖怪」の民俗的起源論;呪詛と憑霊;外法使い―民間の宗教者;異界・妖怪・異人)

  • 再読。未読了。
    こどもの頃、久留里の伯母の家(中庭)に不安、恐れといった感情を抱いたのは、今まで見たことのなかった、間口が狭く、奥に延びる居住空間のせいだったかもしれない。

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著者プロフィール

国際日本文化研究センター教授、同副所長

「2011年 『【対話】異形 生命の教養学Ⅶ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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