- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087203554
作品紹介・あらすじ
進化の理論を確立し、今日に至る進化生物学の基礎を築いたチャールズ・ダーウィン。彼は、後世の学問に、真の意味で巨大な影響を及ぼした数少ない科学者である。ダーウィンの考え方や投げかけた問題は、いまだに解けないさまざまな謎を含み、現在でも重要なものとなっている。彼はどのような生涯を送り、どのような思惟の果てに、画期的な理論を創出したのだろうか。著者は長い期間をかけて、ダーウィンが生まれ育った場所、行った場所など、それぞれの土地を実際に訪れ、歩いてみた。シュルーズベリ、エジンバラ、ケンブリッジ、ガラパゴス…。ダーウィンゆかりの地をめぐる、出会いと知的発見の旅を通して、その思索と生涯、変わらぬ魅力が浮かび上がる。
感想・レビュー・書評
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ダーウィンの簡単な伝記であり、紀行エッセイでもある。伝記としては掘り下げ方が足りないし、エッセイとして味わい深いとも言えないが、まあそんなに悪くもない。
著者は学者のため自分語りに遠慮があるが、語らなければ進まないため、おずおずと自分を出しているせいだと思う。
あんまり出しすぎなのもいただけないが、もう少し出して良かった。
ダーウィンの著作の内容についてほとんど書かれていないのも残念。
でも、ダーウィンの粘り強く、慎み深い性格が伝わるところは、一重に著者のダーウィンに対する愛ゆえ。
近親婚を気にして遺伝を研究したと知ると、学者も経験が仕事に強く影響するのだということを、改めて考えずにはいられなかった。
研究自体に私情を挟まなくても、研究しながら様々な思いが心に浮かんだだろう。それでも学者として公正であろうとする姿は胸を打つ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
美しい本である。著者がダーウィンゆかりの地を訪れ撮影された写真や、地図が豊富に掲載されている。実際に訪れてみたいという誘惑にかられる。ダーウィン自身の著作は読んだことないし(「種の起源」は本棚の肥やしになっている)、自伝なども今までに読んだことがなかった。本書でちょっと感動したエピソード。ダーウィンが結婚した相手エマは陶器で有名なウェッジウッド家の娘。ダーウィン自身も医者の息子で、結構裕福な生活だった様子。結局、定職に就くことはなく、研究と執筆、そして10人の子育て(うち何人かは早くで亡くなっているが)に一生を費やしたようだ。さて、そのエマ。良家のお嬢様ということで、ショパン本人からピアノを教わっていたというから、これはちょっと感動モノ。「葬送」(平野啓一郎著)を読んで、ショパンがイギリスにわたっていたこともあるということは知っていたけど、こんなところでダーウィンとつながるなんて。こういう新しい発見・感動があるから読書も旅も楽しいのですね。
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書名通りダーウィンの生家や、学び舎、結婚後の住居、そしてもちろんガラパゴス諸島と、追っかけファンのように縁の地をめぐる紀行文。
ダーウィンの進化論がもたらした衝撃度合いはあまり書かれていないので、そういう面を知りたい方は別の本をどうぞ。
ダーウィンは超金持ちの家に生まれて、金銭的に不自由なく育った。ダーウィン縁の建物の写真を見ると、どれも素敵なお屋敷ばかり。妻となった女性は陶磁器で有名なウェッジウッド家の娘さん。祖父の代から親交深かったらしい。というわけでダーウィンは死ぬまで金には苦労しない。
ダーウィンがビーグル号に乗り込むことになった経緯も詳しい。簡単に言うと、ビーグル号の船長から博物学と地質学に詳しい人に航海に参加して欲しいと、ダーウィンを教えていた教授に依頼があったのだが、教授は行けなかったか行く気にならなかったので、「ダーウィン君どうかね?」と振られて「じゃあ、行きます」と答えたから。
まだ22歳と若かったダーウィンは不安より好奇心のほうが強かったのかもしれない。
航海の記録もほとんど紹介されていなので、これまた詳しいことが知りたい場合は他の本を読むしかない。この本ではちょこちょことダーウィントリビア的なことが書かれている。
フィンチという鳥の嘴から進化論の着想を得たというのが定説らしいが、意外や意外ダーウィンはフィンチのことはそんなに気にかけてなかったらしい。航海が終わってから標本を整理していたら、フィンチの中に異なる種類が多く含まれていることに気づき、あ〜っ、もっとちゃんと分類して記録しておけばよかった〜!と嘆いたとか。
後年、遺伝の研究をしていたダーウィンだが、その流れでフジツボの研究をしていたようだ。
幼い息子は父がいつもフジツボとにらめっこしているので、どこの家にもフジツボがあると思い込んでいた。友達の家にお邪魔したとき、「君の家のフジツボはどこにあるの?」と聞いたらしい。
ちなみにフジツボに関する研究は、いまでもダーウィンの研究成果が最もすぐれたもののひとつらしい。
夫婦仲はずっと良かったようだ。ただダーウィンは原因不明の病気(心因性の可能性がある)にずっと悩まされ、子供たちを幼くして何人も亡くしているため、塞ぎ込むことも多く、人付き合いはあまりしなかったようだ。進化論の論争にも自身で弁論することはなく、ダーウィンの番犬と言われた友人のハックスレーにほとんど任せっきりだったようだ。
まあ、そんなこんなの家族や友人のエピソード満載の本。
通勤電車内の往復の時間だけで読めてしまった。結構楽しかった。
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ダーウィンのたどった道のりを追跡する。
といっても、ビーグル号に乗って5年も世界を回ったわけじゃないけど。
うらやましい。こんな旅してみたい。
著者の印象もあるのだろうが、読めば読むほどダーウィンは普通の頭の良い大金持ち、としか見えない。
キリスト教の教義の根幹を揺るがすような、進化論を唱えた選ばれた人には見えない。
もともとその素質があったというよりは、神が特別に彼を選び、あるインスピレーションを与え。「種の起源」を書かせたような印象を受ける。
とすると、進化論の研究を進め、その発表をするにはとてつもない苦悩があったはず。
その苦悩ぶりを書いた本があったらフィクションでもおもしろいだろうなあ、と思った。遠藤周作とか。あくまで想像ですが。 -
ダーウィンが生きてきた道のりを、豊富な写真や資料と共に辿るというコンセプト。
もともと『ビーグル号航海記』やガラパゴスが好きだったのと、
昨年ケンブリッジに留学した際にダーウィニズムについても学んで興味があったので(ケンブリッジとダーウィンは関係が深い)、
その彼の人生や思考の流れを追えて大変面白かった。
新書とはいえ小難しいことは一切書かれておらず、
学生の頃は全然勉強しない駄目な子だったとか、
どうやら当時危険思想とされた進化論を考え付いてしまったがために神経衰弱で体が弱っていったらしいとか、
そういう生活面での小ネタが盛りだくさんだった。
写真も綺麗だし、歴史や動物学についても触れられて良いのだけど、
難点は、おそらく著者がいわゆる「ライター」ではないために(作者は、ダーウィンを尊敬する動物行動学の研究者)、
話の継ぎ目というか、場面と場面のつながりの部分がぶちぶち切れて、大きな流れを掴みにくいこと。
「え?これ何の話だっけ?」と、前のページを確認せざるを得ない事が結構あった。 -
[ 内容 ]
進化の理論を確立し、今日に至る進化生物学の基礎を築いたチャールズ・ダーウィン。
彼は、後世の学問に、真の意味で巨大な影響を及ぼした数少ない科学者である。
ダーウィンの考え方や投げかけた問題は、いまだに解けないさまざまな謎を含み、現在でも重要なものとなっている。
彼はどのような生涯を送り、どのような思惟の果てに、画期的な理論を創出したのだろうか。
著者は長い期間をかけて、ダーウィンが生まれ育った場所、行った場所など、それぞれの土地を実際に訪れ、歩いてみた。
シュルーズベリ、エジンバラ、ケンブリッジ、ガラパゴス…。
ダーウィンゆかりの地をめぐる、出会いと知的発見の旅を通して、その思索と生涯、変わらぬ魅力が浮かび上がる。
[ 目次 ]
ダーウィンのおもしろさ
シュルーズベリ
メア・ホール
エジンバラ
ケンブリッジ
ウェールズの山
ビーグル号の航海
ガラパゴスの動物たち
標本のゆくえ
エマとの結婚
ダウン・ハウス
モールヴァン&イルクリー
ダーウィンの死
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
(2008.06.18読了)
ダーウィンの進化論は、突然変異と自然淘汰によって説明される。
ところがダーウィンは、遺伝の仕組みを知らなかった。ダーウィンは、「パンジェネシス」という仕組みを考えたそうです。「種の起源」に書いてあるのでしょうか。
ダーウィンが遺伝の仕組みに頭を絞っていたころ、チェコの修道院にいたグレゴール・メンデルが遺伝の仕組みを示唆するデータを発表していたのだが、その意義が再発見されるのは、20世紀に入ってからだったと思う。
従って、われわれの教えられるダーウィンの進化論は、考えの基本は、ダーウィンであるが、詳細のところは、ダーウィンの考えていたのとは異なる。
ところで、自然淘汰による適応の考え方だけでは、孔雀の羽や鹿の角は説明しきれないということで、ダーウィンは、性淘汰という考え方も提示していたということです。
この本は、著者が1987年のイギリス留学をきっかけにダーウィンに興味を持ち、機会あるごとにダーウィンゆかりの地を訪ねてつづった本です。
ダーウィンの進化論の解説ではなく、ダーウィンの生涯をたどった本です。
ダーウィンの肖像は、白い髭のおじいさんを見慣れていますが、13頁には、31歳のときの肖像画も載せてあります。髭はありませんが、頭髪の生え際がちょっと後退しています。
●ダーウィンの面白さ(15頁)
第一に、進化の理論を初めて提出した科学者で、進化生物学の基礎を築いた人である。
第二に、学問の方法、科学の哲学という点で、ダーウィンの思索は大変興味深い。彼は、演繹的な推論を論理的に緻密に行うとともに、それを支持する経験的証拠を、それこそ山のように集めた。様々な実験も考案し、家族ぐるみでそれを行った。
第三に、科学と社会の関係の問題がある。ダーウィンは、動物の雌が、なみいる雄の中から自分の気に入った相手を選ぶのだという、配偶者選択の理論を考えた。(女性は、男性より先天的に劣っているという考えが当然と思われていた時代に!人間と動物を同列に考えることのない西洋だから可能だった?)ダーウィンは、黒人奴隷、未開人、野蛮人と呼ばれている人たちも、みんな同じ人間と感じる感性を持っていた。
第四に、宗教と科学の関係という点でも、興味深い。全ての生き物は、神が創造したことになっています。進化論は、それを否定することになります。ダーウィンは、子をなくしたとき、神の存在を疑い、40歳のとき信仰を捨てた。
●父と母
父は、ロバート・ウェアリング・ダーウィンで、医者。母のスザンナは、陶器で有名な、ウェッジウッド家の出身です。チャールズ・ダーウィンが生まれたのは、1809年2月12日で、6人兄弟の5番目です。3人の姉、1人の兄、1人の妹がいます。
●医学(48頁)
医学を学んで、医者になることを目指したが、麻酔のない時代の外科手術の実習に耐えられず、医者を断念。
●牧師(55頁)
1928年、牧師になることを目指して、ケンブリッジ大学に入学。
牧師になるために勉強しないといけない科目は、神学、ユークリッド数学、そして古典であった。チャールズは、そんな勉強はそっちのけで博物学に熱中した。
●ビーグル号(82頁)
1931年6月、チャールズは、ケンブリッジ大学を卒業した。8月に、ビーグル号に乗船してくれる地質学者・博物学者の話が舞い込んだ。22歳のチャールズは、12月27日、5年にわたる世界一周の旅に出た。
●ガラパゴス(99頁)
ダーウィンがガラパゴスに到着したのは、航海が始まってから4年目、1835年9月15日であった。
●イグアナ(113頁)
ダーウィンは、ウミイグアナとリクイグアナをよく観察し、この二つの種は、もともと南米本土にいたイグアナが流木に乗ってガラパゴスに流れ着き、やがて、サボテンを食べるリクイグアナと海藻を食べるウミイグアナとに種分化したと考えた。
●フィンチ(123頁)
ダーウィンと進化に関して解説した書物によっては、ガラパゴス諸島で様々なフィンチのたぐいがそれぞれの島に住んでいることを見て、彼は進化の考えを持つようになったと書かれているものがある。しかし、フィンチに関して、彼はほとんど注意を払っていなかったのである。
●結婚(144頁)
1939年1月、ダーウィンは、いとこのエマ・ウェッジウッドと結婚。ダーウィン30歳、エマは、5月に31歳。
●悠々自適(162頁)
終生、大学にもどこにも職を持つことのなかったダーウィンは、悠々自適の紳士科学者として、好きなように時間を使うことができた。
●遺伝の謎(167頁)
ダーウィン自身、遺伝の謎を解くための実験を行っていたのである。それは、待つ宵草などを使った実験だった。しかし、待つ宵草は余り良い材料ではなかった。
(2008年6月23日・記) -
種の起源のダーウィンと言えば
長いあごひげをたくわえ、眉間にシワを寄せてる表情が目に浮かぶ
こわそう・・・
やっぱり、天才は気難しくて、変人なんだろうな・・・なんて想像する
ところが
実際は違ったらしい。
評判の名医の家系に生まれ、あの陶器のウェッジウッドとも親戚という大金持ち
よくあることだけれど、勉強ができずに医者になれず
名家のおちこぼれ子息の定番、聖職者の道へ
ところが興味をもった博物学に接近しているうちに
宗教の全否定ともいうべき進化論にたどりついてしまう
とても人柄の良いダーウィンは、背徳的な考えを持ち続けるストレスで心身症を病んでいたらしい
また、ダーウィンの子煩悩さや子どもにまとわりつかれながらの研究生活など、
いかつい写真からは想像できない私生活も興味深い
ダーウィンは天才だったのだろうけれど、素顔は本当に人間らしい人だったらしい
なんだかダーウィンがとっても身近に感じられる -
ダーウィン縁の地を巡りつつ、ダーウィンの一生を振り返った本。
ダーウィンというと「進化論」の提唱者で、それが世間(特に宗教面)に
衝撃を与えた人です。
非難の矢面に立って毅然と論争を交わしたと思っていたのですが、
友人がその任に当たっていたという記述に驚きました。
家が裕福だったというのには納得。
18世紀頃の学者はお金持ちのイメージがあります。