司馬遼太郎が描かなかった幕末 松陰・龍馬・晋作の実像 (集英社新書)
- 集英社 (2013年9月13日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087207057
作品紹介・あらすじ
そのあまりの偉大さゆえに、司馬遼太郎が書いた作品を史実と思っている人も少なくないが、当然虚構が織り交ぜられている。司馬作品の虚実をたどることで、等身大の松陰・龍馬・晋作が鮮やかに浮かび上がる一冊。
感想・レビュー・書評
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吉田松陰、高杉晋作、坂本竜馬、、幕末史を彩る英雄たちの活躍について、我々現代人が認識している歴史は、実は司馬遼太郎という稀代のストーリーテラーによって“創作”されたものが多い。
彼らの行動が日本の歴史を変えた、という英雄礼賛なコメントは多くの政治家や経営者から聞かれるものである。だがよくよく歴史を検証してみると、後付けで英雄に仕立て上げられたケースは枚挙に暇がない。
吉田松陰と坂本竜馬は実際には会っていないし、高杉晋作の辞世の句は亡くなる際に詠まれたものではない。。等々、我々が心を動かされるエピソードが実は司馬遼太郎による演出の結果だという。
もちろんそれは英雄たちの価値を下げることには繋がらないし、我々が得た感動が間違いだということでもない。それは個人に翻ってみても、想い出は美化されるし過去のそれぞれの点が繋がって一つの流れになる。
歴史は異能の傑物たちによってドラマティックに変えられるのではなく、市井の名もなき人々の暮らしの積み重ねこそが新しい時代をつくっていくのだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
司馬遼太郎の小説は拝読せずに本書を読んだ。読了後の率直な感想としては、司馬遼太郎の小説を読む気があるのであれば、先にそちらの本を読んでから読むことをおすすめする、ということである。
読まないと本書を楽しめない、というわけではない。
かの本からの引用もあり、読んでいなくとも、司馬遼太郎が何を選んで、何を捨て、何を創造したか、わかりやすく書かれている。未読でも勿論、内容はきちんと楽しめる。
ただ、読了後に、司馬遼太郎の本を読みたいと思うのか、という点がある。私個人としては、そういう描かれ方をした「彼」を今、時間を割いてまで読むのか? という問いに「NO」という答えを導き出しただけなので、人によって逆に読んでみたいと思うかもしれない。
とは言え、学術書や歴史書によっても司馬遼太郎の創作が当たり前に登場する。実際に別の著者の本で見かけたこともある。紙の本だけが歴史を紡ぐ道標であることの不確定さを感じられた。何を信じて何を信じないかは個人の自由であるが、史実という事実は一つしかない。
本書はおおよそ、司馬遼太郎の小説を読んだあとに、本来の歴史に目を向けようとする人間に対してのフィクションと現実のギャップを埋めるための一冊なのだろう。 -
司馬遼太郎の著作から松陰、龍馬、晋作の事実と違う部分を書いています。司馬史観というより、完全な事実の歪曲という部分もあり見方を変える必要があります。小説として司馬遼太郎の著作は、信念を持った日本人の生きざまを示し勇気をくれるものと愛読していましたが、小説である事を再認識しました。ただそのことを差し引いても魅力ある小説であると思います。
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松田松蔭にも、坂本龍馬にも、高杉晋作にも全く思い入れがないので、そっかー、そう言うもんだよなとしか感じなかったのは、そもそも司馬遼太郎を読んでないからかと逆説的に気がついた。
司馬遼太郎って、燃えよ剣と、新撰組血風録しか読んだことがない。
面白かったし好きなんだが、小説だよなと言う以上に、事実として信じたこともない。
小説ってなそう言うもんでしょ。
それを、事実を差し置いて歴史として、「定着」させてしまった司馬先生の力量たるやと言うか、やばいと思ったらちゃんと否定しろよと思ったんだが、先生自身も、自分の小説を事実と信じていたのか。
その辺はよくわからないし、それを検証する内容でもない。
司馬史観を枕に、実際に資料から読み取れるのはこう言うことだよという内容。
龍馬晋作に思い入れのない人にはどうってことのない、思い入れある人には、目にも触れたくない本なんだろうと思う。
読みやすい。 -
俗にいう司馬遼太郎の描いた幕末史・通称司馬史観に異を唱える一冊。
自分も思春期に司馬の本をたくさん読んで影響を受けてきたが、通説から飛躍しているものも多く、その記述が飛躍してたり誤っていたりするものも多いことを改めて知った。 -
司馬批判が入り込んでいるのが個人的に残念。もちろん批判されるべき点はあるけれど、感情が先に立ち過ぎ。この挿話こそ小説に書いて欲しかった、とか言うのは批判にならない。もっと淡々と事実との比較で創作部分を炙り出して欲しかった。
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『竜馬がゆく』『世に棲む日日』を題材に、偉大なる国民的エンターテイメント作家・司馬遼太郎の筆力の源泉を検証する一冊。
史料のない部分について自由に想像の羽を広げ、史料の取捨選択において歴史家とは異なる選択をし、民明書房を縦横無尽に活用する。本文中にカッコつきの「司馬遼太郎」を登場させるメタ文学の使い手でもある。
そのようにして書かれた小説は、歴史をシンプルな形に再構成するので、より多くの人に受け入れられやすいものとなった。歴史の真実を知るために読むべきものではないことが、よくわかる。
司馬遼太郎が執筆を始めると神保町からその分野の本がゴッソリなくなる、というエピソードがあちこちで書かれている(1か所から拡散したのかも)。本書を読んでみて「そのエピソードは単純な感嘆ではなく、皮肉、毒舌の類なのかも」と思った。
史料の価値を判断する能力がないのか、玉石混交の資料の山から面白ストーリーを書くのに役立つ資料を選び出す能力に秀でていたのか、どちらが真相なのかはわからないが。 -
タイトルを見て本屋で衝動買いをした一冊。
『竜馬がゆく』『世に棲む日日』で司馬遼太郎氏が描いた、坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作の人物像や内容などに対し、実際の資料などで判明している事実を比較しながら、司馬氏の著書の課題を提起しています。
個人的に、司馬氏の幕末に関する歴史小説は複数読んでいますが、あくまで小説であり、実際の史実とは違うことを前提に読まなないといけないことは、読む者の責任としてあると思う。一方、これらの作品は発表されてから時間が経ち、新たに発見されたことも多いはずであるし、あえて司馬氏が描かなかった内容を取り上げ、「これが書かれていないのは問題だ」ということを繰り返し述べる姿勢は、あまり共感できない。
この本に限らず、描く人によって視点が違えば内容に差があるのは当然。司馬氏はあえて描かなく、創作によって物語を作ったことで読者に支持され「国民作家」となったも言えるので、一方的に内容を信じ込む読者にも問題がある。読者のリテラシー能力にも課題を投げかけている一冊であると感じた。
<目次>
第1章 吉田松陰と開国
第2章 晋作と龍馬の出会い
第3章 高杉晋作と奇兵隊
第4章 坂本龍馬と亀山社中
第5章 描かれなかった終末 -
なんか難しい