悲しみとともにどう生きるか (集英社新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087211450

作品紹介・あらすじ

「不条理な喪失によって辛く悲しい思いに打ちひしがれている人が生き直す力を取り戻すには、(中略)喪失体験者が孤立しないでゆるやかにつながり合うことが、とても大切だ」――柳田邦男(第1章より)

「悲しみの中にいる人も、悲しみを知る者だからこそ、誰かを幸せにすることはできるし、自分自身が幸せを得ることもできるのだと思います」――若松英輔(第2章より)

「時に暴力的に作用する『大きな物語』や『マジョリティの声』に対抗するには、(中略)ただひたすらに個人の言葉を探し続けることが必要なのではないかと思います」――星野智幸(第3章より)

「重要なことは、ケアとセラピーだったら、基本はまずケアです。ケアが足りているならば、次にセラピーに移る。仮病でいえば、まずは休ませて、それでまだ何日も仮病が続くようなら、『仮病だよね』という話をしたほうがよいということですね」――東畑開人(第4章より)

「よく考えてください。被害者のケアを怠っているのは、国だけじゃありません。『準当事者』である僕たちですよ。僕たちは、ニュースで見た犯罪被害者のために、一体、何をしているのでしょうか?」――平野啓一郎(第5章より)

「社会がますます個人化され、『ともに分かち合う』ことがしにくくなっているが、宗教的な表象を引き継ぎつつ、悲嘆を『ともに分かち合う』新たな形が求められている。切実な欲求である」――島薗進(第6章より)

【まえがきーー入江杏 より】(抜粋)
「世田谷事件」を覚えておられる方はどれほどいらっしゃるだろうか?
未だ解決を見ていないこの事件で、私の二歳年下の妹、宮澤泰子とそのお連れ合いのみきおさん、姪のにいなちゃんと甥の礼くんを含む妹一家四人を喪った。
事件解決を願わない日はない。
あの事件は私たち家族の運命を変えた。

妹一家が逝ってしまってから6年経った2006年の年末。
私は「悲しみ」について思いを馳せる会を「ミシュカの森」と題して開催するようになった。(中略)
犯罪や事件と直接関係のない人たちにも、それぞれに意味のある催しにしたい。そしてその思いが、共感と共生に満ちた社会につながっていけばと願ったからだ。
それ以来、毎年、事件のあった12月にゲストをお招きして、集いの場を設けている。

この活動を継続することができたのは、たくさんの方々との出逢いと支えのおかげだ。
本書はこれまでに「ミシュカの森」にご登壇くださった方々の中から、6人の方の講演や寄稿を収録したものである。

【著者プロフィール】
柳田邦男:ノンフィクション作家。
若松英輔:批評家・随筆家。
星野智幸:小説家。
東畑開人:臨床心理学者。
平野啓一郎:小説家。
島薗進:宗教学者。
【編著者プロフィール】
入江杏:「ミシュカの森」主宰。上智大学グリーフケア研究所非常勤講師。

感想・レビュー・書評

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  • 【まとめ】
    0 まえがき
    グリーフワークとは、「悲嘆を癒やす営み」のこと。

    悲しみから目をそむけようとする社会は、実は生きることを大切にしていない社会なのではないか。
    喪失に向き合い、支え合う中で、「悲しみの物語」は「希望の物語」へと変容していった。悲しむことは愛すること。

    全国犯罪被害者の会の活動は、単に凶悪犯罪の時効の撤廃を実現して、逃亡加害者に許しは絶対ないという社会をつくる目的だけでなく、遺族が平穏な人生を取り戻せるような温もりのある社会環境の構築を目指している。


    1 柳田邦男
    脳死状態の息子を「死」と認められない柳田邦男と、「脳死は人の死」と言い切る医学者との違い。それは、誰のいのちの死なのかという、「死の人称性」の問題だ。一人称は自分の死、二人称は家族の死、三人称は友人や他人の死である。当然、三人称と二人称では、悲しみの度合いも異なってくる。
    被害者に寄り添いながら、かつ感情移入をしすぎない、「ニ・五人称の視点」というものを、これからの時代のキーワードにしなければいけない。


    2 若松英輔
    あることが起こらなければ変われない、ということはない。人間というのは今にしか生きることができない。今の瞬間、瞬間の持続の中にしか生はない。何かが起こるというのは常に一瞬の出来事であり、みんな、いつでも幸せになれる。
    悲しみこそ光なのではないか。悲しみを感じたことがあるということは、朽ちることのない光を宿しているということにほかならない。この光の証人になること、そして、それを伝えていくこと、それが人間の「人生の仕事」なのではないかと思う。


    3 星野智幸
    震災以降、世の中の言葉の大きな流れが、いつも二項対立に行き着いてしまっている。どんな問題も、賛成か反対か、白か黒かに二分され、この中間の曖昧な領域は許されず、自分の発言もその文脈で処理されてしまう。

    今の社会では、こういうことを言ったら馬鹿にされるかもとか、やばい人だと思われるかもしれない、という不安や怯えが日常化している。誰もが口にして大丈夫な認証済みの意見を、自分も口にすることで、社会のマジョリティの一員だという安心感がもたらされる。
    だから逆に、誰かが己に正直な発言をすると、その人にイラつき、軽蔑して、攻撃したくなってしまう。その軽蔑と攻撃は、本当は正直な発言をできない抑圧された自分に対して向けられているはずなのに。

    これが、今の社会の「沈黙を強いるメカニズム」の正体だ。自分の言葉で自分の物語を語れず、己のその空虚さが、「他人の充実を許さない」という態度で現れている。

    今や、為政者など大きな権限を持つ人たちが、自分たちに都合の悪い者たちを黙らせるために、「自分勝手に意思表示する人間を野放しにしておいていいのか?」と、その暴力を利用している。

    そんな今だからこそ、文学が必要だ。他人の言葉に深く耳を傾けられることができる人こそ、自分の言葉を見つけられる。


    4 東畑開人
    ケアとは「傷つけないこと」である。それは別の言葉で言えば「相手のニーズを満たすこと」でもある。僕らはニーズを満たされないときに傷ついてしまうのだ。
    またそれを別の言葉で言うと、「依存を引き受けること」というふうにも言える。ケアというのは、特別に心を深く掘り下げてやっていくということではなく、その時、必要としているものを、その場で提供することなのだ。

    僕たちはアジール(不可侵、避難所、シェルターのような意味)を作り出し続けながら暮らしている。ここはアジールですとは書いていないけれど、普段の生活から免責される、庇護される、隠れることができる、そういうところを、おそらく僕たちは「居場所」と呼んでいる。

    アジールがアサイラム(監獄)になるのは、誰がやったんだ、と責任の所在を明確にしていったり、コスパを求め始めたりしたときである。また、予定や会計など、コミュニティを縛る要因が増えていくことによっても、アジールはアサイラム化する。
    居場所は、ちょっといい加減で不透明なぐらいがちょうどいいのかもしれない。


    5 平野啓一郎
    私が死刑に反対する理由の一つは、死刑は最終的に、事件を起こした原因を本人の責任に収れんさせるからだ。だが、実際には犯罪は個人の素質だけに帰することができるものではなく、犯人の生育環境が荒れていたり、貧困状態にあったりと、社会が原因となっている場合が多い。
    社会の中にいる不利な人たちに、何らかのかたちで救いの手が差し伸べられなければならないのに、国家がそれを放置し、実際に事件が起きたら、司法が死刑を宣告して、その人を社会から排除し、何もなかったかのような顔をする。それは欺瞞なのではないか。

    日本では被害者へのケアが非常に弱いから、「死刑廃止に反対」という声が強いのではないか。「被害者がここまで強い悲しみを覚えているのに、どうして加害者の命は守らなければならないのか」という復讐的な精神が裏にあるからではないのか。

    日本は人権教育が弱い。人権の問題として弱者の生存を考えているのではなく、かわいそうかどうかという「共感の次元」で捉えてしまっている。だから、貧困者や生活保護者が少し豊かな暮らしをしたぐらいで、「自己責任だ」「同情に値しない」という声があがる。

    心情的な教育というのをやりながら、一方で、すべての人は、社会の役に立とうが立つまいが、生まれてきたからには、自分の命は誰からも侵害されない権利がある、という原則を子どもたちに教えることが非常に重要である。

  • 残酷な犯罪が報道されて胸を痛める中、その被害にあわれた方達への想いをどう扱えばいいのか私自身困っていたところこの本を見つけた。
    世田谷事件という妹家族を喪った入江さんの「悲しみ」について思いを馳せる会「ミシュカの森」における講演や寄稿をまとめた本。

    柳田邦男さん
    自死した息子の心と「よだかの星」のよだかが重なった体験から、「大人も絵本を読もう」という活動をされているそうです。人生で様々な喪失感や悲しみや辛さを経験するほどに、数えきれないほど新しい気づきを絵本からもらった、という言葉に同感。
    被害者に寄りそう二.五人称の視点の重要性は、痛感させられました。二人称だと感情が入りすぎる、三人称では冷たくなるということは日常でよくあることなので気を付けなければとも思いました。
    「意味のある偶然」は身近な家族の死に想いを馳せるときに私も感じたことです。自分が必死になってもう一度生き直さなきゃと切実に思う気持ちを大事にします。
    精神のいのちは、肉体が消滅しても消えないで、人生を共有した人の心の中で生き続ける、という言葉にも救われました。
    若松英輔さん
    クリスマスは、「親切と、許しと、恵と、喜びのとき」であり、日頃近くに感じない人との間にも見えないつながりがあることを思い出すときだそうです。
    いかに生きるのかとは、いかに死を迎えるのかという問題でもある「生死一如」についても丁寧に述べていました。
    「本の言葉は読まれることによって、生き生きとよみがえるものです。読むということは本当に想像的なことです。読むことが世界をつくっている。…書くことによって何を考え、感じていたのかを知るのです。
    星野智幸さん
    世の中の言葉の大きな流れが二項対立となっていることへの危機感、誰かの正直な発言に軽蔑と攻撃の対象とすることは発言できない抑圧された自分に向くべき感情、他人に読まれることへの意識と外の価値基準が置かれた既存の言葉や物語を選んでいる、など鋭い視点で今の社会の置かれた状況を指摘しています。
    どこまで自分の言葉を発することができるのか、悲しみを否定せずに力となり、懐の深い共同体になるにはどうしたらいいのか余韻が残る対談でした。
    東畑開人さん
    今一番気になる方です。居場所、の定義がまず興味深い。語源は、「居どころ」といい、「尻」という意味もあり、お尻をつけていられる場所、弱点を預けるできる場所とされる。
    ケアはニーズを満たすところ、その反対がセラピーでニーズを少し変更する、心の痛いところを一緒に触っていく、手を出すことを控えることだという。。
    自由な空間で横のつながりのアジールと管理的なアサイラム、自分が属している集団を思い浮かべながら居心地の良さの差を感じていました。
    他者が飲み込める物語として書くことには癒しがある、幻滅の物語の始まり、傷づいた分の怒りについての文章にも気づきがありました。
    対談での遺族業界の話は衝撃でした。
    平野啓一郎さん
    当事者と「準当事者」という立ち位置の存在で関わることで問題を捉え直すことの重要性を指摘しています。
    死刑制度は犯罪抑止にならないという例として拡大自殺を挙げ、最近の事件には当て余るかもしれないと思いました。犯罪被害者へのケアは不十分であることは大いに頷けます。「赦し」と「罰」は同じ機能を果たすというところは何度も読み返しました。
    共同体としての責任に自殺があり、社会的な償いとして死刑という考え方を問い直すべきともあり、考えさせられました。
    一人の人間は複数の属性の集合体であり、どこかにチャンネルが開かれているというセンの言葉に対して、平野さんの「分人」という言葉を用いています。自らの他者性、対人関係や場所ごとに自分を分けて相対化することはとても楽になるような気がしました。人生の経過とともに分人の構成は変わるらしく、円グラフ作成を描くことでバランスを見るのも面白いなと思いました。
    対談での自己責任論についてはまだまだ議論を聞きたいと思いました。
    島薗進さん
    小林一茶の俳句 
    露の世は露の世ながらさりながら
    悲嘆を込めた俳句を他にも紹介されました。
    グリーフケアの歴史や諸外国の様子、日本での状況を説明しています。集合的な悲嘆と宗教文化の深い関わりで伝承されいたが、ともに分かち合う新しい形を求めている。独自の展開に期待を込めている。

    それぞれの対談は本で受け取る内容とまた違った認識がもてるのではないか、ミシュカの森の活動に注目していこうと思います。

  • 単なるグリーフ(悲嘆)ケアの解説本ではなく、その視点で長年活動している文筆家たちによる文学論・社会論に話が広がっています。
    グリーフケア=他者への共感という意味で『悲しみとともにどう生きるか』は誰にでも必要な指針になると思う。短い講演+対談の形式なので、とても読みやすい。

  • グリーフ=喪失を伴う悲嘆を経験したと言えない私でも、意味があったと感じた。いつかグリーフを経験してしまったときには読み直したい。身近にグリーフを経験した人がいたらこの本を勧め、共に考え続けたい。
    兼ねてより気になっていた文学界における政治性からの乖離について触れられていた。作品の中で政治を叫ぶのが良いか悪いかの判別はつけられないけれど、社会全体に「準」当事者意識を持つ必要性をひしひしと感じる。

  • いろんな視点から「悲しみ」について書かれており、とても良い本でした。
    大小あれど悲しみのない人生なんて存在しないと思います。そんな悲しみに寄り添ってくれる本でした。

  • 「悲しみ」の感情は個人的なものであり、当事者同士でも感じ方は様々。そして一人の中でも「悲しみ」は矛盾したり変化したりを繰り返す。それを他者が真に理解することは難しいが、特に犯罪に関連した「悲しみ」はそれが引き起こされた要因に社会構造が大きく関わっていることを踏まえれば、距離感に関係なく誰もが「準当事者」であるというという平野氏の指摘にはとても納得した。非当事者ではなく準当事者として当事者に寄り添う、「悲しみ」を繰り返さないために社会構造を変えるための行動を起こすことの重要性を認識。
    その一方で、当事者と自分の物理的・心理的な距離感で向けられる意識の大小はどうしても出てきてしまうし、全てに全力のエネルギーを注いでいたら自分が保たない。柳田氏が提唱する「2.5人称」のような程よい割り切りと、その時々の自分の状況によってやれることは変わっていい(自他ともに)というスタンスでいることが寄り添い続ける・行動を続ける上で大事なのだとも考えた。

    * タイトルは悲しみとともにとあるが、読了後に本書に出てくる感情を悲しみという言葉ひとつにカテゴライズしていいのか疑問に思ったのであえて「」付きにしてみた

  • 語り手・対談相手が男性しかいないのが若干気になる。

  • 第1章 「ゆるやかなつながり」が生き直す力を与える(柳田邦男)
    2.5人称の視点
    第2章 光は、ときに悲しみを伴う(若松英輔)
    読むと書くと同時にはできない
    悲しみは、愛しみとの出逢いである
    第3章 沈黙を強いるメカニズムに抗して(星野智幸)
    沈黙を強いるものへの抗い
    第4章 限りなく透明に近い居場所(東畑開人)
    第5章 悲しみとともにどう生きるか(平野啓一郎)
    分人主義
    犯罪被害者へのケアが不十分
    第6章 悲しみをともに分かち合う(島薗進)
    グリー不ケア
    豊かに深く生きるヒント
    悲しみの物語→希望の物語

  • 入江杏さんは、「世田谷事件」で妹一家四人を喪った。そして、「悲しみ」について思いを馳せる会「ミシュカの森」を開催するようになった。本書は、そこに参加した6人の講演や寄稿を収録したものである。

    NOTE記録
    https://note.com/nabechoo/n/nd275aff67b46

    はじめに、入江さんだったと思うが、「悲しみの共通の水脈の広がりに気付かされた瞬間、悲しみは生きる力に向かっていったように思う。」と言っていた。人生に悲しみはつきものだ。この不条理の世界で。たぶん人は皆、悲しみから逃れられない。皆悲しいんだ。だからこそ、「ゆるやかにつながり合うこと」「悲嘆を共に分かち合うこと」が大切なんだろう。辛さを分け、心を癒し、そして生きる力に変わる。希望への道。

    悲しみと真剣に向き合ってきた経験から語られる7人の言葉は、どれも寛容で、広く優しく包み込んでくれるようだ。学びは多い。特に、柳田邦男さんの二・五人称視点、平野啓一郎さんの準当事者、また「分人」の考え方が新鮮で、人としての器を、視野を、広げてくれる。とは言っても、簡単ではないな。少しづつでも、こういう意識をもって、社会の悲しみと向き合う。多くの人がそうなれば、社会は変わる、か?

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著者プロフィール

講談社ノンフィクション賞受賞作『ガン回廊の朝』(講談社文庫)

「2017年 『人の心に贈り物を残していく』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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