- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087211580
作品紹介・あらすじ
【コロナ時代。他者と共に生きる術とは?】
コロナ禍によって世界が危機に直面するなか、いかに他者と関わるのかが問題になっている。
そこで浮上するのが「利他」というキーワードだ。
他者のために生きるという側面なしに、この危機は解決しないからだ。
しかし道徳的な基準で自己犠牲を強い、合理的・設計的に他者に介入していくことが、果たしてよりよい社会の契機になるのか。
この問題に日本の論壇を牽引する執筆陣が根源的に迫る。
まさに時代が求める論考集。
【目次】
はじめに――コロナと利他 伊藤亜紗
第1章:「うつわ」的利他――ケアの現場から 伊藤亜紗
第2章:利他はどこからやってくるのか 中島岳志
第3章:美と奉仕と利他 若松英輔
第4章:中動態から考える利他――責任と帰責性 國分功一郎
第5章:作家、作品に先行する、小説の歴史 磯崎憲一郎
おわりに――利他が宿る構造 中島岳志
【著者プロフィール】
●伊藤亜紗(いとう あさ)美学者。『記憶する体』を中心とした業績でサントリー学芸賞受賞。
●中島岳志(なかじま たけし)政治学者。『中村屋のボース』で大佛次郎論壇賞受賞。
●若松英輔(わかまつ けいすけ)批評家、随筆家。『小林秀雄 美しい花』で蓮如賞受賞。
●國分功一郎(こくぶん こういちろう)哲学者。『中動態の世界』で小林秀雄賞受賞。
●磯崎憲一郎(いそざき けんいちろう)小説家。『終の住処』で芥川賞受賞。
感想・レビュー・書評
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【感想】
あるとき、背の高い食券機の前に車いすの人が並んでいた。機械は座ったときの身長に対してゆうに2倍はあり、明らかに手が届かなそうだ。それを後ろから見ていた私は「手伝いましょうか?」と声をかけた。すると車いすの人が、「普通にできるんで大丈夫ですよ」とややぶっきらぼうに答え、車いすを支えにして半立ちの姿勢になり、器用に機械をタッチし始めた。
「意外と自分でできるんだ」という驚きと同時に、「せっかく手を貸そうとしたのに」と少しいらだっている自分の感情に気づき、情けなく感じたことを覚えている。
本書でも述べられているとおり、利他的な行動には、「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という、「私の思い」が含まれている。人間はどうしても見返りを求めてしまう生き物だ。寄付、ボランティア、学習支援といった取り組みの裏にも、「それが相手のためになるから」という慈善の感覚がある。問題はその感覚を「利己的」な動機として行動してしまうことだ。それと同時に、上の立場から相手に感謝を強要してしまうことでもある。
――「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」が「これをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」に変わり、さらには「相手は喜ぶべきだ」になるとき、利他の心は、容易に相手を支配することにつながってしまう。
本書で述べられているこの言葉が、「施し」と「感謝」という呪いの関係を上手く表している。相手が実際にどう思うかなんて分からない。善意でやった行為がおせっかいに受け取られることもある。そうした不確実性を意識していない利他は、押しつけであり、ひどい場合には暴力になる。
食券機の例もそうだが、まずは目の前の人の力を信じることが大切なのだと、本書を読んで改めて思った。車いすの人でも、環境に合わせて自分の身体をアジャストしている。アフリカに住む貧困者に必要なのは、金銭ではなく「自力で生きていくことができる環境」に他ならない。
人間だれしも、何かしらは独力で行わなければならない。不自由な人が健康な人と違う点は、その独力の範囲が狭いことだ。であるならば、私たちにできることはまず相手の力を信じ、「できること」の範囲を広げてあげることなのだと思った。
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【まとめ】
1 まえがき
新型コロナウイルスの感染拡大によって世界が危機に直面するなか、「利他」という言葉が注目を集めている。深刻な危機に直面したいまこそ、互いに競いあうのではなく、「他者のために「生きる」という人間の本質に立ちかえらなければならない、と。
科学技術も、社会の営みも、本来は利他的なものであったはずだ。にもかかわらず、私たちがこれほどまでに問題を抱えるようになったのはなぜなのか。そのためにはただ「利他主義が重要だ」と喧伝するだけでは不十分であるように思う。利他ということが持つ可能性だけでなく、負の側面や危うさも含めて考えなおすことが重要になってくるだろう。
2 利他の心と相手への支配
・合理的利他主義…「他者に利することが、結果として自分に利する」ということを行為の動機とする。
・効果的利他主義…「最大多数の最大幸福」を実現するため、幸福を徹底的に数値化して行為の動機とする。地球規模の目線を持つため、行為に対する共感の影響を排除する傾向にある。
効果的利他主義は数値化によって寄付先や援助先を決めるが、金銭や物資の寄付という数値化しやすいものが優先され、現地の人への就労支援といったプログラムがなおざりにされる傾向にある。インセンティブや罰が、利他という個人の内面を数字にすり替え、利他から離れる方向へと人を導いてしまうのだ。
全盲になって10年以上になる西島さんは、「障害者を演じなきゃいけない窮屈さがある」と言う。晴眼者が障害のある人を助けたいという思いそのものは、すばらしいものだ。けれども、それがしばしば「善意の押しつけ」という形をとってしまう。障害者が、健常者の思う「正義」を実行するための道具にさせられてしまうのだ。
ここに圧倒的に欠けているのは、他者に対する信頼である。目が見えなかったり、認知症があったりと、自分と違う世界を生きている人に対して、その力を信じ、任せること。
やさしさからつい先回りしてしまうのは、その人を信じていないことの裏返しだともいえる。相手の力を信じることは、利他にとって絶対的に必要なことだ。
利他的な行動には、「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という、「私の思い」が含まれている。
重要なのは、それが「私の思い」でしかないことだ。そう願うことは自由だが、相手が実際に同じように思っているかどうかは分からない。「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」が「これをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」に変わり、さらには「相手は喜ぶべきだ」になるとき、利他の心は、容易に相手を支配することにつながってしまう。
つまり、利他の大原則は、「自分の行為の結果はコントロールできない」ということなのではないか。やってみて、相手が実際にどう思うかは分からない。分からないけど、それでもやってみる。この不確実性を意識していない利他は、押しつけであり、ひどい場合には暴力になる。
利他とは、「聞くこと」を通じて、相手の隠れた可能性を引き出すことである、と同時に自分が変わることである。そのためには、こちらから善意を押しつけるのではなく、常に相手が入り込めるよう、うつわのような「余白」を持つことが必要だ。
さまざまな存在が入ってくることのできるスペースをつくること。計画どおりに進むことよりも、予想外の生成を楽しむこと。そうすることで、「利他」の「他」は人間世界を超えて、生類すべてに開かれていく。
2 贈与
インド独立の父・ガンディーは、「贈与」と支配の関係に非常に繊細で、どんな者に対しても、何千もの人が見ているなかで食物を与えてはならない、つまり、慈悲とは尊厳という問題と絶対にペアでなければ成立しないものである、と言っている。
しかし、尊厳を持って行った慈悲であっても、その後に行為者に「嫌なきもち」が生まれることがある。これは哀れみによる支配的な立場からくる感情だ。
贈与に対しては返礼が発生する。ここにおいて一方に負い目と従属が生まれ、もう一方には権力的支配が発生する。贈与を返さなければいけないという義務感が、ある種のヒエラルキーの根拠になってしまう。
負債感、あるいは負い目を通じた贈与が持っている非常に残酷な面も、私たちはしっかりとみておかなければならない。
利他は私達の中にあるものではなく、利他を所有することさえできない、常に不確かな未来によって規定されるものである。大切なのは意図的な行為ではなく、人知を超えた「オートマティカルなもの」であり、そこに「利他」が宿る構造こそが重要なのだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
コロナの状況下で「利他」というキーワードが急浮上した。しかし言葉の意味をあいまいにとらえて安易に使ってはいないだろうか。
本書は、利他が注目される今だからこそ、その可能性や負の側面も含めて考えなおしていこう、という趣旨でまとめられたものである。
本書では、東京工業大学未来の人類研究センターに所属する各メンバーが、それぞれの研究分野から「利他」について考える。
メンバーは、美学分野で身体論を研究する伊藤亜紗氏、政治学者で近代日本政治思想史、南アジア地域研究を行う中島岳志氏、批評家、随筆家の若松英輔氏、哲学・現代思想を研究する國分功一郎氏、小説家の磯崎憲一郎氏である。
伊藤氏は、さまざまな「利他主義」の考え方を紹介しつつ、効率化、数値化が行き過ぎると予測可能なもののみを認める社会、他者をコントロール下に置く社会につながる、と警鐘を鳴らす。
研究上障害者と接することの多い伊藤氏は、「善意による支配」の構図をよく目にするそうだ。それを踏まえ、利他とは、他者の潜在的な可能性に耳を傾けると同時に、自分が変わることも受け入れることだとする。
中島氏は、志賀直哉の小説『小僧の神様』やパプアニューギニアの例を挙げ、「贈与」という行為から利他を考える。すなわち、贈与という行為は与えることで自分に返ってくると思った時点で利己的なものであり、純粋な贈与とは、「思わず」「ふいに」行ってしまう、人知を超えたメカニズムであるとする。
若松氏は、柳宗悦の民藝運動から利他を考える。柳は、民芸の器には主張すべき「我」がないからこそ美しく、用いられることで美が生まれる(深まる)とする。これは利他に通じるもので、個人が主体的に起こそうとするものではなく、他者によって用いられたときに現出するのが利他であるとする。
國分功一郎氏は、「中動態」から利他を考える。能動態が外に向かうもの(例えば「与える」)であるのに対し、中動態は内に向かうもの(例えば「欲する」)で、近代の概念では能動的な「意思」が重要視され、「意思」に基づく行為の責任は自己に帰属される(「自己責任」の論理)。しかしそれは無理のある考え方で、中動態における責任は「義」、つまり意思の概念によって押し付けられた責任ではなく、ある状態を前にして何か答えなければならない、と考える気持ちに近い、とする。
磯崎憲一郎氏は、自身のデビュー作の表現が敬愛する北杜夫氏の小説と意図せず酷似したことから、個々の作品が小説の歴史を作るのではなく、小説の流れや歴史が先にあり、後からその流れに作家が入り込むのではないか、とする。また、小島信夫の小説を例に挙げ、あらかじめ作った設計図に基づいて書くのではなく、書いている間にどんどん予期せぬ流れが作られていくような作品には大きな力が宿っている、とする。
最後に中島氏が各メンバーの考えを総合し「うつわになること」というキーワードを提示する。つまり、利他とは、自己コントロールの外側にある意識で、その行為の結果も含めて受け入れるもの、ということになるだろうか。
各研究者の主張を自分なりに整理してみたが、すべて完全に理解できたかどうかは心もとない。ただ、さまざまな立場から一つの事象を考えていくという試みは面白く、個々の研究内容をもう少し深く理解したいという気持ちになった。 -
言葉の意味って、考えるほどに難しい。
利他ってなに?と聞かれると、利己の反対だとか、相手のために考えて行動することだとか、そんな辞書的な意味の答えばかりが頭に浮かんできた。
そのうちに聞かれたことではなくて、自分の利他にまつわるエピソードとかを、思い巡らせたりしながら、この本を手に取った。
「利他とは何か」というテーマに関して、5人の著者が全く別の視点から考察するこの本は、最終的に近いところで着地しているところが、おもしろいと感じた。
「利他」に関わらず、「共感」などポジティブな面にばかり向けられた言説が多い中、悪い面も取り上げているところが興味深い。
例えば、利他であれば、「寄付する」の行為は、寄付される側が、選ばれるように仕向ける努力をするという、間違った結果を生みかねないこともあると指摘している。
Yahoo!基金など、寄付することが身近になったいま、腰を据えて考えてみるテーマであるように思える。 -
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ベルガモットさん♪
この本、私、ずっと積んでます。
若松英輔さんが載ってらしたので。
なんか凄く難しそうですね。
読めないかも(...ベルガモットさん♪
この本、私、ずっと積んでます。
若松英輔さんが載ってらしたので。
なんか凄く難しそうですね。
読めないかも(^^;2022/09/20 -
まことさん コメントありがとうございます♪
まとまらない拙いレビュー読んでくださりありがとうございます
民藝運動や宗教など利他との考...まことさん コメントありがとうございます♪
まとまらない拙いレビュー読んでくださりありがとうございます
民藝運動や宗教など利他との考察は難しくて何度か前に戻りながら
読みました
若松さんの著書『はじめての利他学』もまだ読んでませんが気になります
そちらが読みやすいかもしれません
2022/09/20
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思ってたんとちがう。
読後に感じたこの違和感は、この本がそれだけ私に価値ある一冊だったことを物語ります。なぜそう感じたのか、お話します。
この本は、東京工業大学内にある、人文科学の「未来の人類研究センター」に集まった5人の研究者による合作本です。
様々なキャリア、視点から、「利他とは何なのか」という問いに答える。その切り口の幅広さに、読む前に持っていた漠然としたイメージに広がりを与えてくれました。
この本を読む前に期待していたことは、
「利他とは、他人のために自分の時間とお金、即ち命を貢献することだ」
という定義です。
その定義が当たり前にあって、他人の文章から、それを確認するために読む。そんな動機から本を手にしたのです。
元々、自分の目指すライフスタイルの1つに、利他という観念がありました。
どうすれば利己的な考え、自分勝手な生き方からおさらばして、他人のために尽くすような考え方ができるのか。これが今のテーマになっています。
言い換えれば、目指すべきところ、目的地は定まっていて、具体的にどうすればそれが達成できるのか。そんなステージにいるといえるでしょうか。
旅に例えるなら、東京に行くのが決まっていて、そこまでに新幹線はやぶさに乗るのか、夜行バスのMEXを使うのか。そのような違いでした。
ですが、この本で論じられることは、その前提が違いました。東京でいいのか?そもそも、目的地は南にあるのか?北にあるんじゃないか?いやいや、目的地を意識的に決めている時点で、どうやっても本当のゴールにはたどり着けないかもしれないぞ・・・といった具合です。
嬉しい誤算でした。
私がヒトのため=「利他」だと思っていたことが、場合によっては利己主義の裏返しかもしれない。ありがた迷惑にもなりかねないと気づかせてもらったからです。
例えば作中、伊藤亜紗さんという研究者が、障害者に対する「過ぎた優しさ」の例を取り上げていました。障害者は日常の生活の何もかもができないわけじゃない。カンタンな作業なら自分でできるし、それを自分でやってこそヒトの尊厳が守れます。
ですが、私達は利他心から1から10まで面倒を見てしまいがちだ。そう、伊藤は「過ぎた優しさ」に警鐘を鳴らしています。
また、批評家若松英輔さんの指摘も興味深いものがありました。
利己的、利他的と私たちは言葉を分けているが、「他人」とは自分と分け隔てられたものだろうか?という疑問です。
他の人とは、必ずしも自分と無関係なモノではない。自分と何らかのつながりがある人。また、利他においては自他の区別をなくし、「2人でありながら1人」として認識することが大切だ。と彼は仏教の言葉を引用します。
これまでの考えは、あくまで利他を表現する考え方の1つに過ぎず、
考え方を変えれば、ちょっと違った(場合によっては真反対の)捉え方も可能なのです。
利他を目指すのであれば、まずその目的地がどこであるのか。
この疑問に対して、この本が完璧な解答例とは言いません。ですが、盲目的に「世のため人のため」と言う前に、私に一呼吸置かせてくれる良書でした。
もしかしたら、目的地は自分の家の中にあるかもしれませんね。
(青い鳥ようなオチ、失礼します) -
伊藤亜紗さんの論考がおもしろすぎて、引っかかる文章が多すぎて、ずっとツイートしながら読んでしまった。それを一つ一つ拾いはしないけれど、まとめの部分だけ引用する。「よき利他には他者の発見がある。相手の言葉や反応に真摯に耳を傾け「聞く」こと。利他とは「聞くこと」を通じて、相手の隠れた可能性を引き出すこと。同時に自分が変わること。善意を押しつけるのではなく、うつわのように「余白」を持つことが必要。」この、「うつわ」ということばの使い方がまだしっくりこないが、中島岳志さんのあとがきによると、どうもキーワードのようだ。「うつわ」からの連想で、土井先生が言っていた、「混ぜる」のでなく「和える」。それから古くは梅棹先生が言っていた人種の「るつぼ」ではなく「サラダボール」。まあ、関係なさそうだけれど、いろいろ考えてみよう。「うつわ」いっぱいいっぱいにならないように気を付けよう。中島岳志さんの話は他でも読んだり聞いたりしているものが多かった。「哀れみ」ではなく「慈愛」。利他は自分の中にあるのではなく、どこかから自然にやってくるもの。ところで、生徒にテストやプリントを手渡しているとき、「ありがとございます」と言ってくれる子がいる。こちらは「あたりまえ」のことをしているだけでお礼を言ってもらうようなことではない。まあでも、そんなに嫌な気はしない。息子に月々の仕送りをして、ラインで報告すると「ありがと」と返信が返って来る。たぶん、「あ」って1文字打つだけだと思うが。それが月1回唯一のコミュニケーション。まあ「はい」だけでもいいような気はする。國分功一郎さんの話は、通勤途中の電車の中で読んでいるので、しっかりとは頭に残っていない。中動態から意志の問題、そして責任と、ここまではつながったが、そこに利他がどう続くのか。再読が必要。若松英輔さんの「民藝」の話はちょっとつかみ切れていない。とりあえず、本日、年1回のお墓参りの後に河井寛次郎記念館に行く予定。磯崎憲一郎さんは、小島信夫を取り上げている。村上春樹の紹介で、「馬」を図書館で借りて読んだ。安部公房好きの私なので、変な話は嫌いではない。しかし、利他とはどこでつながるのか・・・ところで、本書は、ツイッターで紹介されているのを見て、アマゾンでポチって購入。ところが、どうやら間違って2回ポチったようで、2冊送られてきた。同時に。返品するのもムダなので、誰かにプレゼントしようと思う。大学に合格した卒業生が、報告に来てくれるといいのだが。
後日、大学院に進学した卒業生が来てくれたので、あげた。 -
「科学道100冊2021」の1冊。
コロナ禍にあって、「利他」という概念が注目を集めているという。
パンデミックにおいては、「他者のために生きる」ことが重要であるとする考え方である。
特に若い世代では、寄付を行ったり、環境に配慮した商品(特にファッション分野)を求めたり、といった、「利他」的な考え方がより広がりつつある。
本書の執筆者5人は、いずれも東京工業大学の人文社会系研究拠点「未来の人類研究センター」のメンバーである。
美学者。政治学者。批評家。哲学者。小説家。
それぞれの立場から、「利他」について考える。
著者らは日頃から意見交換や議論・雑談を行っている間柄でもあり、それぞれの論考の中には、互いから受けた影響も混じっているとのこと。
第一章の伊藤亜紗は、障害者との関わりが深かったことから、ケアの立場から「利他」を考える。利他の立場にもさまざまあり、合理的・効果的に利他を追求するものもある。他者のために働きたいというときに、慈善事業を行ったり、社会起業家になったりするのではなく、株のトレーダーになって大儲けし、その利益を寄付するという若者がいるという。確かに数字の上ではより多くの人が「救われる」。さてそれはありなのか。
「利他」はときに、しばしばそれが向かう相手を「支配」する。例えば、盲人に、目の見える人が、事細かく周囲の状況を説明すれば、盲人が自身の感覚を研ぎ澄ませる能力が衰えていってしまう。発端は善意でも、それが押しつけになってしまう。「やってあげる」は時に枷となるのだ。
伊藤はケアには「うつわ」的姿勢が大切なのではないかという。つまり、自分が当初思っていたことと違う結果が出てきても、それを受けとめ、相手が入り込めるような「余白」を持つこと。
第二章の中島岳志は「贈与」を軸にする。志賀直哉の「小僧の神様」、チェーホフの「かき」といった文学作品の中の「贈与」と、そこに潜む残酷さや居心地悪さを指摘する。
「贈与」とは、もらった・うれしい、で完結するものではなく、お返しをしなければと思わせるものである。一方的にもらうばかりだと、いずれは負い目がたまり、上下関係が形成されていく。そこで返礼ということになる。そうした互恵的な利他というのは、結局のところ双方にとって「利己的な利他」に過ぎないのではないか。
こうしたものを越えての「利他」とは可能なのだろうか。
第三章の若松英輔は、柳宗悦らの民藝運動と絡めていく。美とは「利他」である。「用の美」である民藝の器は「奉仕」するものである、という視点はなかなかおもしろい。
第四章の國分功一郎は「中動態」と「利他」、第五章の磯﨑憲一郎は自身の作品に先行したかのような作家(北杜夫・小林信夫)について。それはそれで読ませる部分はあるが、「利他」との関係という意味では、まだ取っ掛かりの段階という印象。
全般に、「視点」を与える1冊で、本書に結論を求めるべきではないのだろう。
読む人により、興味を惹かれる部分は異なりそうである。
「利他」からSDGsへつながるところもありそうで、現代的なテーマとはいえるだろう。
*利他の理想的な形の1つは「善きサマリア人」なのかもしれないですね。いつもそうなれるか、というのが難しいところでしょうが。 -
中3生の模試の国語で、伊藤亜紗さんの『「うつわ」的利他』の一部が題材として出題されていて、興味をもったので読んでみました。
「利他」は「偽善」「自己満足」「押しつけ」と紙一重で、特にネットではそんな言葉で全く関係のない赤の他人から揶揄されたり非難されたりする可能性もあって、最近はうっかり親切な行動もとれないような雰囲気があったりもします。だいたい、「偽善」「自己満足」「押しつけ」をすり抜ける「利他」ってどんなものなんだろう。そんな思いがありました。
伊藤亜紗さんの章は読みやすく分かりやすかったですが、いちばん面白く興味深く読めたのは中島岳志さんの『利他はどこからやってくるのか』でした。志賀直哉の『小僧の神様』、チェーホフの『かき』、モースの『贈与論』に出てくる様々な贈与に関する慣習、「ありがとう」への違和感の話…ポロポロと目から鱗が落ちていく…「ふと」とか「思わず」とか、そういう「オートマティカルなもの」に動かされる。きっとそうなんだろうと思いました。
國分功一郎さんの『中動態から考える利他ー責任と「帰責性」』は非常に難しくて、十分に理解できたとは思えていませんが、ここで述べられている「神的因果性」というのは中島さんの章で出てきた「オートマティカルなもの」と同じようなものかな、ととらえると少し分かる気がします。「中動態」については以前別のところで読んで、「そんな態があるのか!」と驚いたのを覚えています。自分の中で何かが動く状態を指す態。こんなことを思いつくなんて、学者さんて本当に本当に頭がいいんだなあ。
「しよう」と思って善いことをするのも、いいことには違いないけれど、「思わずしちゃった」的にできればよりいいのかな。 -
ここ数年で注目された「利他」を、東工大のなかにある「未来の人類研究センター」の5人が考察する。世界的にも、パンデミックを乗り越えるためのキーワードとして「利他主義」があげられ、「他者のために生きる」という人間の本質に立ちかえらなければならないと主張されることも。
興味深いと感じたのは、利他が結果的に相手のためにならないケースが起きること、特定の結果を期待、予想した利他的な行動は、純粋に相手のためになるのか、という考察。また、先のパンデミックに関連して発言した経済学者のジャック・アタリは、利他主義を合理的な利己主義だと主張している。ほかに、幸福を徹底的に数値化して、効率的に利他を行おうとする効果的利他主義という考えもあるらしい。同じ寄付で、「より多くのいいこと」ができるのは、どの手段か考えて行動すると。
後半は迷子になった。利他をキーワードに、時には哲学的な考察が続き、なかなか理解できなかったり。