- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087476224
作品紹介・あらすじ
本と人との出逢いは、運命だ。偶然、手にしたように見えても、しかるべき人に、しかるべき本が巡りあうようにできている。山田風太郎『甲賀忍法帖』、バロウズ『裸のランチ』、東海林さだお「丸かじりシリーズ」…。イヤミな優等生だった小学校時代、フーテン青年時代、そして印刷会社の営業マンを経て今に至るまで、道草を繰り返しながら出逢ってきた数々の書物へ、愛をこめてつづる、本読みエッセイ。
感想・レビュー・書評
-
この本に出てくるほとんどの本を読んでいないし、時代も違うのでよくわからない話も多いが、単純に自分は中島らもという人物に興味があるので楽しく読めた。
よみたい本もでてきたので、ブクログに登録しておいた。
短い文章の中にたまにぐさりと来る言葉がある。それは多分人によって違うので探してみてほしい。
これだけのインプットをしながら病気も抱えながら、多くの作品を生み出せるらもさんの脳みそはどうなっているんだろうな。自分も少し文章を書いてみたくなった。
らも節を気楽に感じられる一冊。またいずれ読み返すと思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
毎日を淡々と過ごしていると、周りと同じように働いて周りが言う「よい」人生を歩まなくてはいけないという無言の圧力がかかるときがある。本当はそんなものから解放されて、ずっとあたためているやりたいことをやったり、少しばかり休息したいのにという思いを持ちながら…。この本の短いエピソードは、お決まりのコースを順風満帆に進んでいては貧弱な出会いしか得られないということを教えてくれます。
-
映画にしろ小説にしろ、ごくたまにだが、「いつまでもこの世界の中で遊んでいたい」という気持ちにさせる作品に出会うことがある。そういう作品がはらむ世界には、空気の中にその作品だけが持つ独特のフレイバーがあり、それが自分の生理に同調するのである。
田辺聖子さんの著書の解説にらもさんが書いた文章だけれど、これがスゴク気に入った。
いつまでもこの空気を吸って駘蕩とした気分で滞在を続けたい。もとの世界に帰りたくない。
わかるなぁ。これが我々の世代でいうところの「ビューティフル・ドリーマー」的な、あるいはエンドレスエイト的な、つまり終わらない学園祭的な無限ループ世界への憧れに続くのではなかろうか。 -
中島らもの文体は心地よい。森毅に通じるものがある。二人とも大阪の人だ。この本は中島らものごく短いエッセーを集めたもので,文庫解説をはじめとした小書評が目立つ。そして中島らもの紹介は何ともその本を面白そうに書くのである。この点,井上ひさしに通ずる。読みたい本が増えてしまって困る。
-
2016.1
-
>「中年智恵」の本質……「智恵」が「力」をコントロールする、力とともにその使い方の技術も向上していくということ
>「力を封じ込める能力」どうすれば刀を抜かなくてすむか、それが「中年智恵」の本質なのではないだろうか。わめきちらし暴れまくっている人間よりも、いつでも抜刀できる姿勢を保ちつつニコニコしている人間のほうがはるかにこわい。力と智の均衡が結ぶ静かな微笑の奥に巨大な爆発力が封じ込められている、これこそ「理想の中年」像というものではないだろうか。
>力をみだりに使わないことがもたらすやさしさというのは、若い人の優柔不断を誤解して言われるところの「やさしさ」とは対極に位置する、ほんものの「やさしさ」なのだろう。
>ではこの力は、もし万一使われるとしたら何に対して使われるべきなのか。中年の力というのは中年が自分の核の中に抱いている「こども」、これを守ることのためにのみ使われるべきなのではないか。ことばとしての「こども」の中には「天使の属性」のひとかけらがある。
>その輝いていて美しいけれど何の防御力も智恵もない、自分の中の「こども」を守るのが、中年の力と智恵なのではないだろうか。おおくの天才、偉人の中に、おおいなる幼児性と老成した知性が共存しているのはそのためであると思われる。
>「大人」など存在しない。大人と見えるものは、かつての迷い子が行き迷い行迷い、とんでもなくまちがった道を辿ってその先の砂の中の村に辿り着いた、そのなれの果てなのだ。愚鈍と忘却と教条だけが彼らに形を与えている。
>厄災を嘆かない。厄災をテコのように扱って、新しい自分を顕現させる。転んでも砂をつかんで立ち上がってくる。
いい歳の取り方をしたい、載ってる本を一通り読んでみたい、そう感じる一冊
らもさんの言葉は、効く。
身障者プロレスのくだりもよかった。 -
著者の人生を彩ってきた書物との出会いを、愛をこめてつづっているエッセイ集。
下記が印象に残りました。
・CFというのは、起承転結でいえば「転」だけを見せるものだ。残りの「起承結」は、受け手の想像力にゆだねるのである。そうすれば何十回見ても飽きのこないコマーシャルがつくれる(P92)。
・いまの自分の「中年具合い」というのはけっこう気に入っている。年々、ものがよく見え、よくわかるようになっていく気がする。自分が刃物だとすると、年々切れ味の鋭さは鈍っていくけれど、自分の使い方の技術は少しずつわかってきたような(P204)。
・自分自身の笑いを一時期「デペイズマン」という一言で片づけていた。デペイズマンとはシュールレアリスムに使われたひとつの概念で、「あるべきでないところにあるべきでないものが出現することによるインパクト」(P212)。 -
震災の置き土産
ずらりと並んだ美装本の背表紙を眺めてにたりと笑う趣味は俺にはない
オレは本という[物]がほしいんじゃなくて、中身が読みたいんだ
らもさん以外にも似たようなことを
仰る方がいらっしゃたしそれを聞いてきた。
ただ自分の中であんまりよくはないこと」
だというのがわかっていながら
抗いながら認めないように
体全体で拒否しようとしていた
本をたくさん読まなきゃ、読んだほうがいい
そういって本棚を飾っていったのは事実である
ただこれから質の読書に変えていきます」とすれば
量が必要になったときに、自分で閉めた帯のせいで
過度に締め付けすぎてしまうようになりかねない
量を経験すること、質も経験すること
体験すること、質と量を生きること
量をたくさんつんで得たものは非常に大きい
挙げればきりが無いし、銘銘によって相異が激しいはずであるが、一番感じているのは、
己の視野の狭さを教えられてそれが死ぬまで続くということを認めるのが大切だって気づいた。
学問という分類で見ても、NDCという分類で見ても、
歴史(時間)的分類、地理的分類で見ても
おそらく可能なのは概略と幾らかの深みにはいることができるだけあり、
全知などというのは夢でしかない。
にもかかわらず、全てを知った気でいては
ソクラテスや真矢先生に怒られてしまいそうだ。
謙虚という言葉にすれば、少しニュアンスが違いそう
なんという言葉を与えればいいか今は考えがつかない。
読書という行為は一般(大衆)的にはいいことという空気がある。自分もその思いで読書を始めた。現代の読書への入り口はおそらくそのようなものだと思う。
きっかけというものがないと、
やっぱり人はそう感嘆には始めない、
始めようという動機が生まれてこない。
入っていく世界が本当に奥まで入っていいかなんて
行った人しか生きれない、虎刈りですな。
ただ、
門をくぐって敷地内に入って一番最初に目に付いたものを見に行く分はいいが、自分がどの枠内のどの位置にいるのかを見落とした言動は慎むよう心がけないと天狗にとどまってしまう。
そうはいっても天狗になることは避けられないのかもしれない。深みに入っていかなければ中途半端に留まるだけ、超えてみることのできる世界は閉ざされたままで終わってしまう。天狗になることを目標にやっていく上で
伸びに伸びた鼻を何度も折っていく。そうやって鼻はだんだん伸びにくくなってくれるかもしれないし、また自分がそのような状態に陥っているという状態の変化に無意識に目がつくように慣(成)れるかもしれない
本を主として物理的媒介物として見続けていると
たくさんの本があるというだけで満足してしまう私
家の中から本を追い出しても、この心情のままでは
図書館に行っても二の足を踏むであろう。
目的をなくして今の状態では
また手段がそれに取って代わり、盲人に
再び陥ってしまう。
主題のある読書をしよう。
質も量も必要でしょう。
調査からはじめるか、inspirationを待つか
ただ、本という世界はなかば現実と切り離された世界であるがために、現実の把握をおろそかにしないよう -
読みたい本も出てきた。