免疫学の巨人 7つの国籍を持った男の物語

  • 集英社
3.56
  • (3)
  • (1)
  • (4)
  • (0)
  • (1)
本棚登録 : 32
感想 : 5
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (376ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087814477

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 「免疫学の巨人」と言う本は実は2つ有る。一つはノーベル賞学者ニールス・イェルネを描いたもので原題がScience as Autobiography: The Troubled Life of Niels Jernと波瀾万丈の伝記のようだ。もう一つが本書のゾルタン・オヴァリーで原題はSouvenirs: Around the world in ninety years、自伝ではなく手記だと断っているのは自分のことではなく、出会った人々とのことを中心に描いてるからだろうか。脚注はほぼ人名で150人ほどの名前が挙がっているが不思議とイェルネは出てこない。ちなみに利根川進がバーゼル免疫学研究所時代の研究所長がイェルネだそうだ。まあゾルタンを含め専門外については知らない人ばかりだったと言うことがよくわかる。

    ゾルタンは1907年トランシルヴァニアの古都コロスヴァールで生まれた。当時のトランシルヴァニアはハプスブルク家のオーストリア=ハンガリー王国の一部でありハンガリー国内ではブダペストに次ぐ第二の都市だった。トランシルヴァニアは現在のルーマニアの中央部から北西部にかけてのほぼ1/3に相当する。第一次大戦後帰属はハンガリー→ルーマニア→ハンガリー→ルーマニアと敗戦により所属が変わるのだがゾルタンの国籍もそれに従い4度変わることになる。ゾルタンは第二次大戦においてハンガリー軍の召集を受け野戦病院に配属されるが、ハンガリーはロシアに事実上占領され、野戦病院はドイツからも降伏を要求されていた。ここの部隊長がアメリカの捕虜になる方がましとアメリカ軍の近くに野戦病院を移動させており狙い通り難民として保護された。ゾルタンは医師としての身分を隠しアメリカ軍キャンプの雑役夫として働いた際に、発疹チフスを見つけて感染予防をするとともに軍医たちの会議に割り込んで対策を発言して驚かれる。ゾルタンのパリでの学生時代の先生が発疹チフス研究でノーベル賞を受賞しており経験を積んでいたのだ。そんなこんなでゾルタンは一旦パリに脱出し妹夫婦を頼ってイタリアで開業する。ルーマニアに併合されたトランシルヴァニアに戻らなかったため無国籍になり、その後イタリア市民権を得るのが6つ目、最後にアメリカに渡り7つ目の国籍を得ることになる。

    ゾルタンの二人の祖父はともに当時のハンガリーに二つある内の新しい方の大学コロスヴァール大学の教授であった。ゾルタンは法哲学科の学科長の祖父からは文化と言語に対する情熱を、もう一人の内科部長の祖父からは医学の知識を受け継いだ。当時のコロスヴァールはブダペストと並ぶハンガリーの古き良き時代の芸術文化の中心地でもありゾルタンの母は芸術と文学のサロンを開くことで知られていた。コロスヴァール、オルガ(母の名)でパリからの手紙がゾルタン家に届いたと言うのだからすごい、ゾルタン家に来るものはゲストファミリーと呼ばれ大学教授、芸術家、科学者たちが集った。ゾルタンのエピソードは芸術家たちとの交遊であふれているがこういう背景がもとになっているのだろう。ニューヨーク大学では医学部生の教育に音楽を取り入れコンサートを企画し、国立衛生研究所ではセミナーで医学とは全く関係のないドリス式柱頭の進化と言うテーマの抗議をしている。また、留学生を美術館や博物館に連れて行き本人自ら解説をすると他の観光客まで集まってくるという話巧者でもある。ゾルタンの交遊では二人の女性が目立った。一人目はイタリア大使夫人で元ハンガリー貴族の女優でもあったセルッティ大使夫人。イタリアに渡ったゾルタンの開業を助け、ゾルタンがイタリア市民権を得るために奔走しきっかけを作った。もう一人がアメリカの芸術家のパトロンにしてジュリアード音楽院のホールにその名を残すアリス・タリー。アメリカに渡ったゾルタンの交遊を拡げ終生の友人となった。

    豊富なエピソードが語られているが本書が伝記ではなく手記であるとしている理由は帰らなかった故郷の出来事が語られていないことがあるからだと思う。ゾルタンはハンガリーが共産主義国家である間はいくら要請が有っても訪問していなかった。またトランシルヴァニアを併合したルーマニアは悪名高きチャウシェスク政権でありゾルタンの家族も悲劇的な最期を遂げたらしいが本文には一切触れられておらず、後書きで訳者の多田富雄が少し述べているに留まる。

    訳者の多田も日本を代表する免疫学者でありゾルタンの薫陶を受けて芸術にも造詣が深く能を制作し、ゾルタンとともに訪問したイタリア紀行を出版している。多田は2001年に脳梗塞を起こし声を失い、右半身不随となるも執筆活動を続けた。原書の発行は99年、ゾルタンが亡くなったのが05年で多田も10年4月に本書の発行を見ずに亡くなっている。本の帯に多田富雄 執念の翻訳と有るが長年のゾルタンとの友情に感謝しどうしても書きたかったのだろう。ゾルタンが芸術を愛し、多くの人と友情を育んだことこそが多田が紹介したことだったのだろうと思う。

  • 帯には半年ほど前に亡くなった、「多田富雄 執念の翻訳」とある(注:この本は2010年末に読みました)。アレルギー研究の大物の自伝とくれば、さぞ科学史かと思いきや、その大半は、彼がこよなく愛した芸術、音楽にさかれており、かつての知識人のあり方をしることができる。

    20世紀初頭、ハンガリー貴族で学者の家系に生まれた彼は、幼少より著名な文化人・芸術家などに囲まれて育った、言わば最後の知識人である。その後、母国の敗戦に伴い、各国を転々とせざるを得ない生活を送るが、常に彼を支えたのは、芸術であり、豪華絢爛な人脈(例えば後のヨハネパウロ二世や著名な音楽家など...)であった。(ちなみにニューヨーク大学の教授でもあった彼は、メトロポリタン美術館で名誉会員としていつでも自由に見学する権利を与えられているのだ。)

    私は彼の生まれた、20世紀初頭という時代に憧れる。現代に暮らす私たちを支えるものとして、技術は二度の戦争で大きく結実したのかもしれないが、しかし華やかな文化や芸術はこの時代に花開いたのである。

    大戦により、階級社会は崩れ、それまで限られた人々にのみ開かれていた知は、たしかに社会に開かれた。しかしながら、脈々と繋がれていた美しい体系的な知のあり方は、その後の時代ではすっかり捨て去られてしまっている。さらに、インターネットやデジタル技術の革命により、知のフラット化が推し進められ、accessibilityは格段に上昇したものの、知への接し方というのを、どうも私たちは分からなくなってしまっているように思える。今こそ、そのあり方を再考し、次なる知のあり方へ繋げていく時代である、という思いがあったので、非常に考えさせられた。

    (この辺は後に読む佐藤優の宗教論などとも繋がる)

    苦難の道を歩いたにもかかわらずウィットに富んだ本書を通じ、美しき体系知のあり方について、優雅な気分で味わえることが出来て幸せだった。2005年に98歳で亡くなっているが、彼の話を伺うことが出来なかったのが、心残りである。

  • [07][120718]<hs 最初に著者が述べているように、(いまはもういないひとたちとの)交友録的エピソード集の雰囲気。彼自身のことはあまり語られていない。タイトルは原題のsouvenirsの方がずっとしっくりくる。白いシルクに形質細胞を刺繍したドレスを着た学者の話はおもしろかった(繊細な水玉みたいでけっこうかわいい模様なような気がする)。

  • (欲しい!)

  • (2011.02.27読了)(2011.02.02借入)
    日本経済新聞の書評欄で紹介されていた本です。多田富雄さんのファンである神さんが興味を持ち、図書館で借りてきました。せっかく借りてきたものを読まずに返すのも悔しいので、神さんが読み終わった後、貸出期間を延長して、読んでみました。
    免疫学の話はほとんどなくて、クラシック音楽の作曲者、演奏者、歌い手、支援者、イタリア絵画、等の話がいっぱいです。著者が交友のあった音楽関係者、絵画関係者との逸話がいっぱい盛り込まれています。

    著者は、ハンガリー生まれの免疫学者ですが、パリへ出て勉強して、フランスの医師免許を取得しています。生まれ故郷は、ハンガリーになったりルーマニアになったリしたので、ハンガリーの医師免許、ルーマニアの医師免許、を取得しています。
    戦後は、イタリアに住み、イタリアの医師免許を取得し、イタリア国籍を取得していますが、アメリカに渡りアメリカ国籍を取得しています。
    1907年に生まれ、2005年に亡くなっています。98歳でした。死ぬまで研究生活を送った人です。

    ●ゾルタンの苦手(13頁)
    ゾルタンはピカソ、シェーンベルク、フロイト、そして抽象芸術運動には耐えられなかった。
    ●この本の内容(15頁)
    この本は、自伝ではない。手記である。少年時代からの、科学や音楽、芸術を愛する人々との出会いは、生涯私の中に深く影響することになった。
    この本は、大勢の非凡な人々との出会いの記だ。出会いこそ、私が書きたかったものだ。
    ●ラテン語(26頁)
    その当時は、まだ古典語と古典文学が大学教育の中心となっていたため、私の祖父が古典ギリシャ語とラテン語を読めたり、話せたりすることは、それほど特別なことではなかった。
    ●ソルボンヌ大学の不可解な伝統(83頁)
    ポールが、ソルボンヌ大学で学んでいた時のことだ。彼の数学の才に惚れ込んだ教授が、君は大学の教官になる気はないか、と尋ねてきた。
    だが、教授が数学研究室の教員たちの名が連なるリストを取り出すと、事情は変わった。
    「申し訳ないが、今の時点では、教授陣の娘には適当な者が一人もおらんのだ。従って君に職を与えることはできん。残念だが・・・」
    ●休暇はない(88頁)
    アンヌ・マリー「休暇はどうなりますか?」
    フルノー「この研究所に休暇などない。疲労困憊して倒れたら、休養して戻ってくる。それだけだ」
    フランス国民の休日であるパリ祭当日やその近くになると、研究所の誰もかれもが疲れ果てたと音をあげ始め、結局は研究室を閉めて誰もが休養に入るのだった。
    ●ノーベル賞受賞の祝電のお礼(90頁)
    「あなたの祝福に心より感謝申し上げます。あなたが私の夫に送ってくださった心からのお言葉は、ノーベル賞に値します」
    ●ムッソリーニ(103頁)
    1935年のストレーザ会議にて、オーストリアを守るためにムッソリーニが反ヒトラー戦線の設立を指揮した際には、多くの人々が彼を支持した。今でもイタリア人は、「運よくムッソリーニが1939年より前に死んでいたら、今頃彼は、最も偉大な政治家の一人と見なされていただろう」と言う。それでも、ムッソリーニが行った様々な素晴らしい功績は無視できない。例をあげれば、国内でのマラリア根絶、当時イタリアから国外へ大量に流出していた芸術作品の搬出を禁止したことなど。
    ●発疹チフスの予防(111頁)
    「すべてのシラミが発疹チフスを起こすのでしょうか?」
    「いいえ、汚染されたものだけです」
    「汚染されたシラミは一部のはずなのに、なぜ全部を殺さなければならないのですか?不公平ではないのでしょうか」
    ●リオデジャネイロ(153頁)
    1502年の1月1日、ポルトガル人の探検家が初めてリオの入り江に辿り着いた日。彼は、この深い入り江を河口と勘違いして、一月の河、という意味の「リオデジャネイロ」と名付けた。
    ●マルコ・ポーロ(161頁)
    その紳士は、自分のことを色々と話してくれた。ベニスの古い一族の出身で、カトリック教徒であるそうだ。一族は数世代にわたりダマスカスに住んでいるが、イタリア国籍を持ち続けていた。彼の名前を聞くと、「マルコ・ポーロ」だという。彼は、あの有名な中世の冒険家マルコ・ポーロの、直系の子孫だった。
    ●ハンガリー語を話す日本人(236頁)
    彼が渡してくれた名刺には「本橋洋一」とあった。専門は整数論だそうだ。私も自己紹介し、ニューヨークから来た免疫学者だが元はハンガリー出身である、と話した。すると突然、彼はハンガリー語を話しだした。初めは自分の耳が信じられなかった。北京にいる日本人が、ハンガリー語を話すなんて!
    ●古典芸術(244頁)
    奈良や京都にあるその他の歴史的建造物と同様に、法隆寺にも、私の考える古典芸術が持つ三点の特徴が備わっていた。雄大さ、バランス、静かで控えめな雰囲気。こうした特徴は、どの国の文化であれ、例えば中国の壺のように小さなものであっても、必ず共通している。
    ●ボルゲーゼ枢機卿(264頁)
    ある日、ベルニーニはボルゲーゼ邸に枢機卿の胸像を作った。ベルニーニが枢機卿に彫像を見せようとすると、手が滑って彫像が割れてしまった。ベルニーニは壊れた彫像を修復したが、枢機卿が嫌がったので、再び新しいものを作った。両方を見比べた枢機卿は、初めの方がより表現豊かだと判断し、どちらも持っておくことにした。こうして、ベルニーニによる枢機卿の胸像は、この世に二体存在することになった。
    (東京都美術館で開催されたボルゲーゼ展で、多分後に作った方のボルゲーゼ枢機卿の胸像を見ました)
    (2011年3月2日・記)

全5件中 1 - 5件を表示

多田富雄の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×