- Amazon.co.jp ・本 (340ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087890150
作品紹介・あらすじ
敗戦直後の満洲でソ連兵から皆を守るためにひとつの開拓団が下した「究極の決断」とは?
第19回開高健ノンフィクション賞受賞作。
感想・レビュー・書評
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もうひとつの「戦争は女の顔をしていない」だと思った。
第二次大戦敗戦直後の満洲。
タイトルからは、ソ連の蛮行(戦争犯罪)が連想される。もちろんそれも酷いが、メインではない。
本書で最も断罪されるべき存在は、自分達のコミュニティを守るため、ソ連兵に若い未婚の女性を差し出し「接待」させた日本の男たちだ。
衝撃的な内容に、男として考えさせられることが多い。
男性こそ読むべき本だ。
「戦争で男は無力になっちゃう。女は男の人の食い物にされる」ー接待に差し出されたある女性の言葉だ。
結局、戦争の大義は、個人の人格を犠牲にして成り立つ。どんなに綺麗事を言っても、それが真実だ。
やはり、戦争は人間の顔をしていないし、どんな理由があっても許してはならない。
ウクライナの平和を祈らずにはいられない。 -
また私の知らなかった戦争が、ここに記されている。
戦争関連の本を読むたび、知らないことばかりだなぁ、とため息が出る。
内容はあまりにも衝撃的で、著者はよくここまで聞き出せたと思う。
やはり女性だからこそ出来たのでしょう。
敗戦直後の満州。
黒川開拓団は団を守るため、未婚の娘たちを「接待」の名目でソ連兵へ差し出す決定をする。
こうした接待や性的暴行などは戦時中の話として聞くことはあるが、衝撃なのは身内の男たちの態度だ。
「皆を守るため」と娘たちを選別して差し出し、誰も助けてくれない。
更にやっとの思いで帰国したら「汚い」と言われ、誰にも歓迎されない。
笑みを浮かべながら「減るものじゃない」と発言する
男。
無意識、無自覚の性差別には落胆しかない。-
最低の男たち…
戦争で得るものなんて何もない…
失うものばっかり…
戦争なんて無くなればいいのに…最低の男たち…
戦争で得るものなんて何もない…
失うものばっかり…
戦争なんて無くなればいいのに…2023/07/16 -
本当にね、
失うものばかり…
ノンフィクションって、事実を真正面から突きつけられるから、ズシンとくるのよね本当にね、
失うものばかり…
ノンフィクションって、事実を真正面から突きつけられるから、ズシンとくるのよね2023/07/16 -
戦争映画や小説は好きですが、ノンフィクションとなると考えさせられますね…
心にズシッとくるものは大きいですね…戦争映画や小説は好きですが、ノンフィクションとなると考えさせられますね…
心にズシッとくるものは大きいですね…2023/07/16
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【まとめ】
0 まえがき
満州開拓団である黒川開拓団が難民生活を送った期間は、ソ連の対日参戦・満州侵攻から、集団引揚げが本格的にはじまった時期までの約一年のあいだである。この間、はるか遠く満州の地において、ソ連兵の「接待」の犠牲になった女達がいる。
ソ連の満州侵攻とそれに続く日本の敗戦直後から、自分の土地や家を日本人移民によって強制的に追い出された現地民が暴徒化し、恨みを晴らさんばかりに開拓団を襲うようになった。ソ連軍の満州各地の占領に伴い、次第に暴徒の動きは落ち着いていった。ところが、避難生活が長期化するにつれ、今度は暴徒と入れ替わるかのように、ソ連占領兵らが女を要求するようになり、団長の命で何人かの女性が「接待」に差し出された。
戦勝国側のソ連兵が、一方的に日本人女性を襲ったという性暴力の話は有名である。しかし、現実にはより複雑な、集団内の支配関係による強いられた犠牲があったのだ。
1 敗戦と接待
敗戦後、あちこちの部落では暴徒化した現地民による略奪が起こっていった。団幹部がソ連兵に助けを求め、暴民による襲撃は収束していったものの、今度はソ連兵が物取りにやってくるようになる。13、14歳位から上の少女を手当たりしだいに捕まえ、犯すようになった。
そうした混乱を収めるため、ロシア将校と交渉した結果、娘たちが「おもてなし」をして守ってもらうこととなった。
黒川開拓団を率いる安江新市は、涙をこぼしながら言った。「頼む。わかってくれ。五家站(熊本県来民開拓団)のようにこのまま自決するようなことはできぬ。家族を残し出征されている方達になんと言って申し訳するのか。団の命を救うと思って、ウンと言ってほしい」。
数え年で18歳以上であること、未婚であること――犠牲に出る者の条件に当てはまるのは、15、6名にまで絞られた。
接待室に行かされた娘に対し、いかに惨い蹂躙が行われていたか。善子はあとから「乙女の碑」を記した紙に、直接赤ペンでこのように書き込んでいる。
ベニヤ板でかこまれた元本部の 一部屋は悲しい部屋であった 泣いてもさけんでも誰も助けてくれない お母さんお母さんの声が聞こえる
善子は妹の久子の分まで接待を取ることで、妹のことを守っていた。その変わり、久子は「洗浄係」に命じられた。絶対から帰ってきた人の膣からホースを差し込んで、薬液で子宮の中を洗う作業だった。
犠牲になるように頼まれたとき、当事者たちはどう思ったのだろうか。
「そりゃあ、嫌でしたし、もうこれで私の人生も終わりと思いましたけれど、日本へ帰りたい。どんな辛抱しても病気になっても苦しい思いをしても、日本へ帰りたい。その一筋でした」
「接待」に行かせた団の人には恨みはないと春江は言った。
「よう、仲間にして、連れて帰ってきてくれた。みんなのためになれたんやからよかった。そういうことあっても日本へ帰りたい」
以下は、最年少の接待役である玲子の証言をもとにした接待中の様子だ。
一人目のソ連兵の顔は見た。男は自動小銃をつけたまま、金属製のベルトだけを外した。
ガチャッ。重い鈍い金属音がする。
お母さん――、子どものころに亡くなった母を呼んだ。お母さん、殺される。怖いよ。自分の心臓の音だけが耳をつんざく。
二人目からは覚えていない。顔など見られない。左隣に横たわる年上のお姉さんが、兵隊に見えないように下のほうで手を握ってきた。まるでお母さんのように固く手を握りしめたまま、一所懸命、泣いている自分を励ましている。
「だめだよ、だめだよ。しっかりしなきゃだめだよ。がんばろうね」
声を殺して泣く声が聞こえる。まわりからも母親を呼ぶ声がする。
ソ連兵らに解放されると、みんな倒れたまま肩を震わせて泣いていた。身体の痛みより、悲しくて泣いていた。ショックのあまり、玲子は何も考えられなかった。激痛とともに深い絶望感が襲ってきた。
玲子「石垣がガタガタガタって、崩れる感じがした。ああ、女ってこんなにあわれなもんだ、こんなことさせられる。あー、大和撫子として育てられたのに。恥ずかしい、恥ずかしい」
以下は、彼女が60代になってから書いた句だ。
乙女ささげて 数百の命守る 女塾で学んだ大和魂 音をたててくずれ落る
ある日、ソ連兵ではなく満人が玲子を買いに来た。
おそらく軍平が仲介役なのだろう。軍平から「接待」に呼ばれたときに逃げたこともあったし、反発的だったのは自分だけだったから、満人に売られたのだ。玲子はそう思ったが、真相は確かめようもない。松江の対岸にある松花江駅には、鉄道警備隊の満人らがいたが、そこから黒川開拓団まで女を買いに来ているという噂もあった。
いつしか、大義名分すら見えなくなっていた。ソ連兵への犠牲には少なくとも、団の決めごという気持ちがあった。それに接待所に行かされるのは自分ひとりではない。しかし、満人が自分を指名して来たり、拒否すれば殴られ続けたりするのは話が違うではないか。17歳の玲子に容赦なく、暴力が襲いかかる。朝方、目が覚めると、まだ生きていると薄暗い穴倉の中で息を吸う。いますぐにでもここから逃げたい。でも、どこに?頭の片隅では日本が戦争に負けたなんて、どうしても信じられなかった。
2 撤退
1946年3月から4月にかけて、ソ連軍はようやく中国東北地域から撤退を開始した。日本への引揚船も葫蘆島から出始めるようになった。
葫蘆島に行くためには旧国都である新京に行かなくてはならない。道中、川を渡る船の「通行料」としてふたたび娘たちが交換条件に出された。またしても団が女性にお願いした。
生きて日本へ帰るために、善子は元兵隊と一時の婚姻を結んだという。通称「博多別れ」だ。
日本の港に着くまでのあいだ、赤ん坊を抱いた母親が元兵士などを頼る光景はあちこちで見られた。ただし、守ってもらうには性的な関係を伴った。このような一過性の関係のカップルは、ほかに何組もいたと久子は語る。
1953年、中国本土からの引揚者は、2万6032人。以降、5年4ヶ月の間に21回の引揚げが行われ、計3万2506人が祖国へ帰ることができた。
だが、終戦からすでに8年……。極寒の大地で生きのびるために、多くの女たちは中国人の家に入らざるを得なかった。しかも、北京協定では「本人」だけしか帰国を許されなかったため、すでに子どもが生まれていた女性は、自分の家族と別れるか、帰国するかの選択を迫られるはめになった。そうしたなか、泣く泣く引揚船に乗ることを諦めた者もいれば、奥地にいて引揚げの情報が届かなかった者もいた。のちに「中国残留婦人」と呼ばれた女たちである。
3 負の烙印
善子は2013年に満蒙開拓平和記念館でこう語っている。
「一年ほどして、『私は人間じゃなくなった』と情けない思いをして日本に帰ってきたんですけど、帰ってみれば、『引揚者』『満州でけがれた女』と誰も問題にしてくれないし、村そのものでもね、『満州から帰ってきた女はあれだから、汚い』。それこそ、私たちは皆、お嫁にいくところもない。それで一生お嫁にいけなくて死んでしまった人もいるんですね」
黒川開拓団の娘たちは、満州をまったく知らない青年との結婚には困難を伴った。同じころ、春江も元義勇兵の男性と結婚した。嫁ぎ先は満州引揚者が多く移住した蛭ヶ野開拓地である。ふたりきょうだいの春江だが、仲の良かった弟の敬介からは「お姉なんかはふつうの既存農家なんて嫁にいけない。開拓の村だったから嫁にいけたんだ」とよく言われたという。春江は結婚する際、梅毒の症状が出ていないことを医者に一筆書いてもらい、夫側の家族に見せたそうだ。
善子は当時、村人の冷たい視線のみならず、団にいた男性からもたびたび心ない言葉をぶつけられていた。
セツによると、慰霊祭が終わって少人数になったとき、団幹部だった三郎は善子に、「減るものじゃないし」と言葉を投げかけたという。また、善子が妹の分も出るといったことについても、「おいしゃ好きやな」と言い放った。こともあろうに三郎は、自分も含めて集団を守ってもらうためにごく少数の娘に犠牲を強いておきながら、妹を守ろうとした善子に対して、おまえは好きものだなといった言葉を投げかけたというのだ。
久子は相手の名前こそ出さなかったが、戦後落ち着いてから、善子は団にいた男と二人になったとき、こう言われたと話していたそうだ―――、「ロスケにやらせたくらいなら、俺にもやらせてくれよ」。まだセクハラ、二次被害、セカンドレイプといった言葉すらない時代、年下の子たちを守ろうと多くの犠牲を引き受けた善子に対して、一部の同胞の男たちは気楽に侮辱の言葉をぶつけていた。
団幹部ではない男たちのうち、松浦辰雄は乙女の犠牲について『ああ陶頼昭』に寄稿している。
――ただひとつ、私達がこうして今日まで生き長らえて人生の黄昏時を迎えられるのは誰のおかげだろうか……。もちろん、各個人の努力もさることながら、忘れてならないのは、現地で一年近くにわたり500人近い難民に食糧を与え、治安を維持してくれたソ連及び八路の占領軍ではなかっただろうか。しからばこの人達に対し、交渉にあたってくれた団幹部の方たちだけであの安全が得られたであろうか。十余人のうら若き女性の一片の私利私欲もない、ただ同胞の安全をねがう赤城の挺身があったからではなかろうか。それはタブーであるかもしれない。しかし私はあえて言いたい。松花江渡河についても、その陰の力を忘れてはならない……。開拓団の穴の中で高熱にうなされながら23名の同僚と家族に見守られ、あたら17、8才の花の命を寂しく散らした彼女たち。悪夢を忘れたい心情はわかる。だが何かしら心の片隅に去来する何かは、私一人だけだろうか……。
かたや、団幹部の人たちは、こうした乙女の犠牲には何も触れていない。
藤井軍平は、『ああ陶頼昭』の本文に寄稿しているが、自分が呼び出し係をしていた「接待」についても、ソ連兵の強姦についても、記載がなかった。一つひとつの記述ではなく、文章全体から発せられる空気は淡々としており、この無機質な空気感において、「接待」が行われたことが透けて見えてきたのだ。被害女性に寄り添う姿勢は皆無であるばかりか、父親の最期の言葉によって引き起こされた家庭内殺人でも、殺された子どもたちへの想いが見えない。
一方で、乙女たちの犠牲を「乙女の碑」として称える人もいる。また、犯されることなく「貞操を守って死んだ女性」を、「日本人らしい立派な最期」として称賛した人もいる。そして犠牲者たち自身も、「私たちの苦しみを知ってほしい」という人と「話すべきではなかった」と後悔する人がいる。
「接待」とは集団を守ってもらうための交換条件だった、が的確な答えだろう。それでも、「集団自決か否か」の二択の枠で捉えることは可能かもしれないが、本当にやむを得ない不可避の選択だったのか。前提から揺さぶらないと、決定した団幹部と同じ視点で思考停止してしまう。物のように扱われる人間の気持ちや意思などまったく無関係に、事態が進んでいったのだ。
「平和の中で個人個人が行動するのはいいんです。それは運命ですからね。でも、その集団の中、なんていうか台風のような、逃げられないっていうような、どうにもならないっていうような(状況には)、私は絶対なってはいけないって思うんです」
そして、「人間としてあってはならないこと」に巻き込まれてしまう人生もある。満州で起きたことを善子はこのように表現した。大義名分の下、国家は国民のもっとも弱い層を盾に使う。その中でまた盾にされる人間が生まれる。その盾となる犠牲が女性であったとき、またさらに貶められてしまう。このような負の渦巻に、私たちはどれだけ自覚的だっただろう。
4 女の声
みね子の証言によれば、当時から団員たちは「接待」と呼んでいたという。強姦、レイプと呼べば犯罪行為そのものだが、「接待」と呼べば、客人をもてなす行為を想像させる。子どもの性被害が「いたずら」などと表現されてきたのと同様に、実態をぼかして、矮小化させる効果を持つ。
その半面、被害に遭った女性にしても、人間としての尊厳を傷つけた性暴力のことは語りづらい。社会という外面、自己という内面の双方から抑圧を受け、女性引揚者の語りは封印されていく。
「接待」の事実を、もっともよく知っていた男性引揚者はどう見ていたか。団幹部は完全なる沈黙を貫き、秘密を抱えたまま逝った。まわりにいた男性団員は、女性の自発的意思や献身的犠牲への置き換え、石碑に口紅を塗る、「開拓の華」と呼ぶといった言動に見られるとおり、一方的な美化と歪曲の域を出ない。
自分たちの見たい女の姿しか見ていないのだ。
「接待」という呼称が象徴するように、ふわりと優しい言葉で包みこむ。抽象的に語られる現実によって、満州史から生身の女の声が消えていく。
常に彼女が本当に言いたいこと、女の声は消され続けてきたのだ。-
これは、きついですね…
ひどい世界ですね…
ほんと、今も、昔も繰り返されて、
男がダメなんでしょうね。これは、きついですね…
ひどい世界ですね…
ほんと、今も、昔も繰り返されて、
男がダメなんでしょうね。2023/04/09 -
Manideさん
コメントありがとうございます。
本書の中では、団の男は女がレイプの犠牲となることを厭わないどころか、むしろそれが英雄的...Manideさん
コメントありがとうございます。
本書の中では、団の男は女がレイプの犠牲となることを厭わないどころか、むしろそれが英雄的行為であると讃えていたと記されています。
戦争の当事者たちによる一方的な美化と歪曲は、昔も今も常態化していたのだと、改めて感じました。2023/04/09 -
すいびょうさん、こんばんは。
いつも素晴らしい要約で、
ほんと、参考になるというか、時短させてもらっています(^^)
いや〜、ほんと、恐...すいびょうさん、こんばんは。
いつも素晴らしい要約で、
ほんと、参考になるというか、時短させてもらっています(^^)
いや〜、ほんと、恐ろしいですね。
時代には逆らえない側面もあるんでしょうが、
それでも恐ろしい。
2023/04/12
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日本の敗戦は満州開拓団にとって、地獄の日々の始まりだったとあるが、そのなかでも団の皆を守るために犠牲になった女性たちは、悲劇というより他にない。
だが、彼女たちの心の叫びを文面で見ないことには、知らずに闇に埋もれていく。
悲惨なこともあったであろうで済まされ流されていくのは、避けてほしいと思う。
真実が見えなくなっていくことは、決してあってはならないはずだから。
彼女たちの書き記したメモがすべてを教えてくれる
《私は見た 父のにぎりこぶしに なみだ一滴》
《ソ連兵に引きだされ、友は馬にのせられ、どこへ行ったのか》
《乙女ささげて 数百の命守る 女塾で学んだ大和魂 音をたててくずれ落ちる》
《傷つき帰る 小鳥たち 羽根を休める 場所もなく
冷たき眼 身に受けて 夜空に祈る 幸せを》
一般に国家や国策との関係では、満州開拓団は
「棄民」、戦争犠牲者として語られる。
現実はそう単純な構造でもなく、そこに女性問題が加われば、複合的かつ重層的な性質を帯びる。
国内で差別問題に敏感であるはずの男たちですら、女性差別には無自覚でいられる…。
文中にもそうあったが、確かに男たちは口を濁す。
まるで関係ないことのように。
それが娘であってもそうなのか…。
死ぬまで逃れられない記憶としてあるのなら安易に過去として片付けられないと…。
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埋もれた戦時性暴力 開拓団の闇 [評]米田綱路(ジャーナリスト)
<書評>ソ連兵へ差し出された娘たち:北海道新聞 どうしん電子版
https...埋もれた戦時性暴力 開拓団の闇 [評]米田綱路(ジャーナリスト)
<書評>ソ連兵へ差し出された娘たち:北海道新聞 どうしん電子版
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/650695?rct=s_books2022/03/06 -
敗戦後の満州でソ連兵への“接待”と称する性暴力被害に遭った女性が明かした“むごい記憶”…「嫌だ。行きたくないよ、あんなところ」 | 文春オン...敗戦後の満州でソ連兵への“接待”と称する性暴力被害に遭った女性が明かした“むごい記憶”…「嫌だ。行きたくないよ、あんなところ」 | 文春オンライン
https://bunshun.jp/articles/-/536702022/06/15
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図書館で予約して借りたのだけど、ウクライナ情勢が現在の状況になると思いもしなかったあの時の自分、何でこの本を読もうと思ったのか。毎日ニュースを見て気が滅入るのに、絶対に重い内容・・・、と一週間放置。『戦争は女の顔をしていない』が頭の中を過ぎり、ソ連兵が日本人をって内容なのかなと読み始めたら、日本人が日本人を犠牲にして生き延びた話だった。
意気揚々として乗り込んだ満州開拓団が終戦後、敗戦国として辿る道筋はテレビドラマや小説では大抵は涙無しには語れないような辛い話として描かれる。戦勝国であるソ連兵や、虐げてきた現地民に襲われる。帰国は思うように進まず、食べる物も無く薬も無く、弱い者から死んでいく。
その中で黒川開拓団は、引揚船を待つ間、大勢の団員を守る為に未婚の女性達15人をソ連兵に差し出した。「接待」する代わりに暴徒から守って貰い、塩などの必需品を分けて貰ったのだ。
女性の線引きは団の代表である男達がした、未婚女性、当時は結婚が早いし結婚しないなんて有り得ない時代だから、未婚女性の年齢は若い。少女達だ。
あれは何の話だろう、ドラマだったと思うんだけど、海外の話か日本の話かも思い出せないのだが、同じような状況で敵国兵に身体を求められた時には既婚女性が進んで、若い少女の代わりに犠牲になるシーンがあった。
でも、黒川開拓団では未婚女性が選ばれた。既婚女性は男性に属しているが、未婚女性は誰のものでもないからだ。未婚女性が誰のものでもないって変じゃない?ともやもやしたが、その辺は筆者が書き切っていたので当時の考え方が良く分かった。
私が気になったのは既婚女性達のことだ。犠牲になった女性達のことや、団の代表だった男性達、選ばれなかった未婚女性、戦後のそれぞれの当時のことについての向き合い方などについては書かれていた。
でも既婚女性のことは無かった。男達の陰に隠れて守られた女性達。接待に出させられた女性の最年少が90歳だからもう生きている方は居ないだろうけれど。本書のテーマである男尊女卑とは違うテーマになってしまうのかもしれないけれど、気になって仕方がない。 -
戦争が狂気であることは皆が知る事だ。
中でも、他国で終戦を体験した人の生は、死ぬことよりも苦の連続だったことを知る。
接待という身体の提供により、団体の護衛を約束されるもの。
集団で願われ接待に出されたのなら、最後までその礼に尽くされるべきではないかと思うが、その扱いに接待は続いていたかのような非道さを感じるものだ。
たくさんの犠牲の上にあった命を考えさせられる一冊だっあ。 -
黒川開拓団のこの事実を知ったのは、割と最近のNHKだった。ほとんどテレビを見ないのに、なぜにたまたま見たのだろう。はっきり覚えていないのだが、こちらから「差し出された」ことと引き揚げ後も感謝されるどころか差別、侮辱されたということが衝撃的だった。
この何年か前のNHKの取材に対して、著者の平井さんは面白くない思いを持っておられるようで、確かにその通りだろう。ただNHKが「後追い」をして事実がより広く知れ渡り、私みたいに平井さんのご著書を手にする人もいたのではないかと思うのだが、それはまた別の話か。
あまりの酷いことの連続で、何からどう書いていいのかわからない…
「減るものじゃないし」という言葉が最後の方に出てきた時、ハッと気づいた。どこで誰から発せられたか全く具体的には思い浮かばないが、何度も何度も聞いた言葉のような気がする。今の若い人はどうなのだろう。そんな発言する若い男性がいるのはあまり想像できないが(若い男性をあまり知らない)、おじさん(初老?)の人なら今でも平気で言いそうな人がいるのは思い浮かぶ。これではもし同じようなことが今現在の日本に起こった時、同じことが起こる。
戦争は絶対反対。女性が性被害にあうということだけでも絶対反対。日頃隠されている人間の闇の部分が顔を出してしまう戦争。
性被害というのはやはり日頃から女性を下に見ているから出てくるもの。下に見られるような私たちではない。
議員や官僚の女性の比率をもっと高める。
日常的に女性差別、蔑視にあったら抗議する。身近な人にも指摘する(今書きながら「減るもんでなし」とか言われたら一緒になって笑っている自分が見えた。あり得ない!)。
もう少しきちんと書いておきたいが、どうも無理。しばらく考えたい。 -
敗戦後、満州に取り残された黒川開拓団。暴徒化した満人やロシア兵から団を守るため、ロシア兵側と交渉し、日本の娘らを「接待」として提供することに。
被害者の女性側の視点から語られているので、それが生々しく、痛々しい。重かった。終戦から70年経っても性的虐待、暴力を受けるのはほとんどが女性。打ちのめさせられました。
あまりにも壮絶な事実で、読み進めるのが辛かったですよね
こういう事があった、というのは知識として知ってるつも...
あまりにも壮絶な事実で、読み進めるのが辛かったですよね
こういう事があった、というのは知識として知ってるつもりでしたが、ちゃんと知ろうとしていなかった事に気付きました。
終戦から78年経った今もまだ苦しみ続けている人がいる…
私に出来ることはまず、「目を背けず知る」ことかな。
ヒボさんのレビューで改めて思いました。
ありがとうございます( ꈍᴗꈍ)
辛かったです。
でも、これが事実で、歴史なんです。
伝えていくこと、学ぶことの大切さを改めて思い知ら...
辛かったです。
でも、これが事実で、歴史なんです。
伝えていくこと、学ぶことの大切さを改めて思い知らされた作品でした。