新編日本古典文学全集 (13) 土佐日記 蜻蛉日記

  • 小学館
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  • Amazon.co.jp ・本 (468ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784096580134

感想・レビュー・書評

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  • このシリーズは注が大変充実しているので、信頼して読ませていただいてます。

     何度目かの再読になりますが、今回は兼家の政治的な側面と、それを感性のするどい道綱母さんがどう思っていたかを重視して読みました。

     「安和の変」に関して、作者は大変な心入れようで、特記しています。誰がなんとかいうようなことはなんとも書いてありませんが、もしかして、兼家の関与をかぎつけていたのかもしれません。

     蜻蛉日記は、兼家と兼通が仲たがいしているところで終り、「寛和の変」のところまでいきませんが。もしそこまで、蜻蛉日記が続いていたらどのような記述になったのか、興味しんしんです。
     作者の姉婿である為雅さんは花山天皇方と非常に近しい関係にあったようなので。

     兼家という人は(というか、この時代の人はなべてそうですが)女というものをどのように考えていたのか。
    ☆女性の選択に政治性というものがあまり感じられない。
    保子内親王(村上天皇第三皇女)(949-987)は別だけど道綱母さんよりお若いようだ。
    ☆女性が妊娠すると、足が遠のくようだ。
    ☆作者(道綱母)のことは父親との約束もあり、形式的にでも大事にしたいという気持ちはあったように感じる。
    ☆正妻・時姫は980年に亡くなる。
    ☆兼家さんはいい加減なところがあり、それを道綱母さんに鋭く見抜かれている。
     三男とはいえ天下の九条流・兼家を相手にまわして、あそこまでつんけんする道綱母さんのプライドの高さは、ある意味すばらしいっちゃすばらしくもあるなあと、関心致しました。

    ☆よく、「蜻蛉日記」は兼家が出資した政治的プロパガンダであるという話を聞くのですが。私が読む限りでは、これを読んで兼家いい人じゃんと思う人はあまりいないような気がします。
     当時、紙は高価だったことから、だれかお金持ちが出資したということは考えられますが。

    ☆長能(同母兄?)と義懐との関係
    975年)一条中納言為光家歌合に出詠。近衛将監を経て、永観2年(984年)花山天皇の即位に伴い六位蔵人に任ぜられる。花山院歌壇で活躍し、寛和元年(985年)と翌寛和2年(986年)に開催された内裏歌合に出詠。花山天皇譲位に前後して従五位下に叙爵して蔵人を退いたか。

    一条朝の永延2年(988年)図書頭、正暦2年(991年)上総介を歴任。上総介を解任された後は散位となったが[1]、藤原道長の春日詣[1]・賀茂詣[2]等に陪従している。寛弘2年(1005年)治国の功労により従五位上に至る。寛弘6年(1009年)正月に伊賀守に任ぜられるが、間もなく辞任したらしく、4月には源為憲が後任の伊賀守に任ぜられている。あるいはこの時に没したか。

    勅撰和歌集『拾遺和歌集』の撰定に関与したと考えられている。勅撰歌人として『拾遺和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に52首が入集[3]。門弟である能因法師が撰した『玄々集』には最も多い10首が入集している。家集に『長能集』がある。
     

    ☆藤原為雅(同母姉の夫)と義懐との関係
    円融朝末から花山朝、一条朝初頭にかけて丹波守・伊予守・備中守等の受領を歴任し、位階は正四位下に至る。長保4年(1002年)以前に卒去。

    妻:藤原倫寧の娘

    男子:藤原中清 - 内匠頭正四位下
    男子:藤原中規
    男子:延妙
    女子:藤原義懐室
    女子:藤原景斉室


    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%BC%8F%E9%83%A8#cite_note-7
    和泉式部;
    『正集』の冒頭には春夏秋冬+恋という部立が設けられた「百首歌(実際には欠損が生じ97首)」が見られるように、和泉式部は「曽禰好忠や源重之、源重之女の「百首歌(いわゆる「初期百首」)」を学んでおり、彼らの歌に類似しながらも、詠まれた世界は異なるという彼女の力量を著した歌を『正集』に残している[2]。和泉式部は「百首歌」によって、百首歌人の「先行歌に対し、ある時は歌材やその境地を共有し、ある時は新たな要素を付加して展開させ、ある時は反発してみせる」という作歌手法や、『万葉集」以降の先行歌を徹底的に学ぶ姿勢の影響を受けている[2]。

    和泉式部は『後撰和歌集』も学んでおり、天智天皇の「秋の田のかりほのいほの苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ」の歌を基にした「秋の田の庵にふける苫をあらみもりくる露のいやは寝らるる」を詠んでいる[2]。

    和泉式部の歌学びは詩歌の世界にも及んでおり、『紫式部日記』に「その方の才ある人、はかない言葉の匂ひも見え侍るめり」とあるように、和泉式部は漢詩文の教養もあり、詩的な世界を下敷きにして作歌してもいる[2]。例えば、「岩躑躅折りもてぞ見る背子が着し紅ぞめの衣に似たれば(正集・十九)」という歌があるが、躑躅は『白氏文集』や『千載佳句』、『和漢朗詠集』などで取り上げられており、漢詩の世界ではポピュラーな景物であった[2]。

    この他にも和泉式部は、『万葉集』や『伊勢物語』も学んでいた。『和泉式部続集(続集)』には、ある人から「万葉集しばし(『万葉集』を少しの間お借りしたい)」と申し出があったことが記されている。この時、和泉式部は『万葉集』を所有していなかったが、返答として「かきのもととめず(書き留めていません)」と述べており、「『万葉集』を一旦は手元に置き勉強したこと」、「柿本人麻呂を連想させる返答をしていること」がわかる[2]。『袋草子』には、『伊勢物語』の伝本の中に「泉式部本」があったことが記されている[2]。

  • 「土佐日記」のみを読みました。
    1ページの中に原文・現代語訳・解説の3つが縦に並んでいるので、原文の雰囲気を味わいながら楽しむことが出来ます。

    「男もすなる・・・」という有名な書き出しが気になって読みました。
    実は、「シゴトを終えて家に帰る、楽しい旅のお話でしょ?」とか思っていました(半分冗談です)。ごめんなさい。まさかの結末。

    船旅だと言うのにすごい足止め食らいまくっていますよね……もっとも、順調な船旅だったら、最後の結末が活きてこないのかなと勘ぐってしまったり。

    最初に書いたように、この本は丁寧な作りなので、古典文学に詳しくない人でもより原作に近い形で「土佐日記」を楽しめると思います。が、詳しかったらもっと楽しいのでしょうね。

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