- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101050034
感想・レビュー・書評
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先日、「夫婦善哉」を読んだのを機に昭和初期の小説をもう少し読みたいなと思って三島由紀夫。ちょっと違ったか…。三島は高校時代にあらかた読んだか(ものの、潮騒の焚き火のシーンくらいしか記憶にない)と思っていたが、この「愛の渇き」は未読。時代がかった技法が目立って現代小説ほどのテンポはないが、寡婦の満たされない愛と、愛をまだ充分に理解しない少年との擦れ違いは充分に読ませる。
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解説を読むと、物語の登場人物全てに計算し尽くされた配役が与えられているのが分かる。三島の作品に対する全力の姿勢がここに強く現れている。それはやがて遺作「豊饒の海」へと繋がっていく。。。
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主人公の悦子は愛に飢えていた。
自分が好いた人に愛してもらいたかったんだね、それでタイトルの愛の渇き。...ただこれは主人公に限ったものではなかった、登場人物は主に悦子の属する杉本一家なんだが、これがまた気持ち悪い。皆それぞれ普通に暮らしてくれ... -
悦子の幸福を求める様子は狂人的で、やや不気味だった。だも自分を苦しめることで幸福を得る感覚はわからなくもなかった。そして自分にも悦子のような狂気が備わっていることがやや不気味に思えた。
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読後、これは誰の『愛の渇き』かと自問した。言わずもがな悦子の愛の渇きである。良人を亡くした悦子は病棟に帰還するように米殿の家に訪れる。彼女が老いた弥吉の寵愛を受け、無感動な日々を過ごす。しかし三郎の登場が全てを変えた。悦子は三郎を愛する。しかし美代もまた同じであり救いのない物語として登場人物の影を落としている。悦子は理性を、三郎は本能を表す。どちらも極端で我々にその恐ろしさを教えてくれる。一部を拡大すると狂気が目立って、人間の取りうる業の深さが表現され、救いのなさ、精神生活と肉体生活の矛盾が知らしめられるのだ。私たちは私たちのことをよく知らない。だから仮想の経験として小説を読むことを欲するのだと思った。
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悦子の三郎への歪んだ愛は男児が好きな子を苛める稚拙な愛情表現によく似ている。しかし飢渇して海水を求めれば喉は渇く。悦子の自己憐憫的な渇愛は二人の行く末に逆説の悲劇をもたらした。
ミケランジェロと運慶は彫刻は創り出すのではなく削り出すと語っているが、三島由紀夫作品にも同じものを感じる。文章が文学を編み上げるのではなく最も適切な日本語を最も適切に配置した文学が三島作品だ。彼の語彙力や表現力は天才過ぎる。 -
彼女が愛だと信じて疑わないものが実は愛ではないことに、彼女以外のみんなが気づいていた……。三島由紀夫の書く、女の業に打ちのめされます。
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顔はいいけど性格の歪んだブルジョアのオバサンが
小間使いの美少年に恋い焦がれているのだが
それが報われないと知ったのち、逆上して殺してしまうという話
浮気者だった亭主を、早くに腸チフスで亡くしたあと
舅の愛人として囲われている彼女は
なんとかして自らの苦しみに折り合いをつけるべく
様々な欺瞞的観念を捻り出しては、周囲を見下ろしているのだが
それに望みをかなえる力があるわけでなし
精神的に行き詰まったあげく、諦めをつけようとして
まわりくどい策を張り巡らせるものの
結局は、舅を巻き込んだ事故のような感じで
美少年を殺すのだ
客観的に見れば、多少は同情の余地がある話で
いわゆる「ツンデレ」めいたところのある主人公を
もう少し魅力的に書くこともできたはずだと思う
しかし彼女の内面描写は
弱みを見せまいとする自意識に貫かれており
それが彼女の恋を阻害するのみならず
読者の共感までをも拒絶するようで
いかにも、三島作らしい読みづらさになっている
爺さんにしがみついてまで生に執着する我が身の惨めさを
笑うぐらいの余裕はあってもいいと思うんだけどね
人殺しにそんな高級な自意識あるわけないだろ
と言われりゃそれまでか